コンテンツにスキップ

「蛭子能収」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
65行目: 65行目:
出身地である[[長崎弁]]のイントネーションで[[共通語]]を話す。一人称は相手を問わず「俺」である<ref>一時期、一人称に「私」を使っていたこともあった。漫画など作品中で自身が登場する場合の一人称も「私」である。</ref>。
出身地である[[長崎弁]]のイントネーションで[[共通語]]を話す。一人称は相手を問わず「俺」である<ref>一時期、一人称に「私」を使っていたこともあった。漫画など作品中で自身が登場する場合の一人称も「私」である。</ref>。


かなり独特な[[倫理|倫理観]]を持つため[[人間性]]を疑われるエピソードは枚挙にいとまがなく[[根本敬]]や[[みうらじゅん]]から恐れられている。特に根本は、蛭子に会ってから人の顔が覚えられなくなったというほどである。腰が低いようでいて厳しい批評をし、[[ビートたけし]]の前で「[[大橋巨泉]]さんのほうが面白い」と臆することなく発言したこともある。
かなり独特な[[倫理|倫理観]]を持つため[[人間性]]を疑われるエピソードは枚挙にいとまがなく[[根本敬]]や[[みうらじゅん]]や[[山本彩]]<ref>[[Run for money 逃走中]] 10月5日放送</ref>から恐れられている。特に根本は、蛭子に会ってから人の顔が覚えられなくなったというほどである。腰が低いようでいて厳しい批評をし、[[ビートたけし]]の前で「[[大橋巨泉]]さんのほうが面白い」と臆することなく発言したこともある。


多くの[[バラエティ番組]]に出演しているが、根は怒りっぽい性格でもある。バラエティ流のおふざけにも「キレる」ことがしばしばある。本人曰く、漫画では本心を描くので、怒りを感じる相手には同様のシチュエーションで「漫画の中で徹底的に殺す」と話しており、「漫画は自由だからいい」とも語っていて、実際の人物に配慮して特定できないように描いている<ref>日刊サイゾー、2009年4月26日『えびすビンゴ』出版記念インタビュー、蛭子能収流・今を生き抜く処世術)</ref>。
多くの[[バラエティ番組]]に出演しているが、根は怒りっぽい性格でもある。バラエティ流のおふざけにも「キレる」ことがしばしばある。本人曰く、漫画では本心を描くので、怒りを感じる相手には同様のシチュエーションで「漫画の中で徹底的に殺す」と話しており、「漫画は自由だからいい」とも語っていて、実際の人物に配慮して特定できないように描いている<ref>日刊サイゾー、2009年4月26日『えびすビンゴ』出版記念インタビュー、蛭子能収流・今を生き抜く処世術)</ref>。

2014年10月7日 (火) 02:45時点における版

蛭子 能収
生誕 (1947-10-21) 1947年10月21日(76歳)
日本の旗 日本熊本県牛深市(現天草市
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
タレント
俳優
映画監督
活動期間 1973年-
ジャンル ガロ系
代表作 『地獄に堕ちた教師ども』
公式サイト 蛭子能収 OFFICIAL WEB SITE
テンプレートを表示

蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本漫画家イラストレータータレント俳優映画監督

熊本県牛深市(現天草市)生まれ、長崎県長崎市戸町育ち[1]ファザーズコーポレーション所属。長崎市立長崎商業高等学校卒業[1]。既婚。

来歴

父・鹿之助は遠洋漁業の漁師で、兄も漁師。

中学時代はいじめに悩んでいた。不良グループから強制的にグループ入りさせられ、使い走りや、持参した弁当をご飯と梅干しだけの日の丸弁当に無理矢理交換させられたり、また、学校で事件が起こると、その不良グループの責任にさせられ、蛭子も濡れ衣を着せられることがあったという[2]

グラフィックデザイナー志望であったが、高校卒業後に看板店に就職[1]。4年半勤務し看板の設置業などをしていたが[3]1970年に無断で上京する。

ちり紙交換ダスキンセールスマンなどの職に就く[1]

映画監督を目指しシナリオ学校に通っていたこともある[1]

月刊漫画ガロ』(青林堂1973年8月号掲載の「パチンコ」で漫画家デビューした[1]が、青林堂の慢性的な経営不振により原稿料は出なかった。

一時期漫画家を辞めていたが、1970年代後半に高杉弾山崎春美らの依頼により、自動販売機用漫画本の執筆をしたことで再び漫画を描き始め、ガロ以外の媒体へも進出。つげ義春前衛映画に影響されたシュールで不条理なギャグ漫画を描くようになる。自身の趣味でもあるギャンブルについての4コマ漫画、あるいは暴力的なモチーフを多用するダークな世界も描いている。また、推理作家吉村達也の初期のサラリーマン小説にも挿絵4コマを書いている。絵は決して上手とは言えないながらも「ヘタウマ」という作風で注目される。

その一方、1976年から劇団東京乾電池の旗揚げに参加。俳優として舞台活動もこなし、テレビドラマ『教師びんびん物語II』への出演を皮切りにテレビ番組にも進出し、特異なキャラクターを活かした芸能活動に比重を移し、多くのバラエティ番組に出演している。

2003年短編映画『諌山節考』で映画監督としてデビュー。この作品は元々シンガーソングライター諫山実生プロモーションビデオとして作られたものである。監督第二作目は2007年の『歌謡曲だよ、人生は』の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」(脚本も兼任)。

2008年には、『ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャーでもある根本敬からの依頼で、漫画共作ユニット「蛭子劇画プロダクション」を結成。

2011年、故郷・長崎の長崎歴史文化博物館において初の個展『えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会-』を開催。

性格

さえないサラリーマン風の容姿が特徴。テレビ出演の際は、他の出演者が正装で出演するような番組でもノーネクタイの場合が多く、普段着のまま収録に臨むことも少なくない。明石家さんま曰く「ちょっとお洒落なホームレス」。

体型は小太り。身長は174cmで、テレビ番組内の健康診断企画で測定。昔より伸びたという。なお、2008年3月10日放送の『ネプリーグ』では公式プロフィールと同じ171cmとされていた。体重は91kg。

巨乳好き。非喫煙者で煙草も酒も飲まないが、自他共に認める無類のギャンブル好き。映画鑑賞が趣味で、若いころはアート・シアター・ギルドなどの映画を好み、因果で陰鬱なプロットなど実作面でも影響を受ける。

蛯原友里が「エビちゃん」と呼ばれているのに対して、『ネプリーグ』において「元祖エビちゃん」と呼ばれている。これに関連してか、『こちらササキ研究所』で「エビちゃん」というロボット声優を務めていた。

出身地である長崎弁のイントネーションで共通語を話す。一人称は相手を問わず「俺」である[4]

かなり独特な倫理観を持つため人間性を疑われるエピソードは枚挙にいとまがなく根本敬みうらじゅん山本彩[5]から恐れられている。特に根本は、蛭子に会ってから人の顔が覚えられなくなったというほどである。腰が低いようでいて厳しい批評をし、ビートたけしの前で「大橋巨泉さんのほうが面白い」と臆することなく発言したこともある。

多くのバラエティ番組に出演しているが、根は怒りっぽい性格でもある。バラエティ流のおふざけにも「キレる」ことがしばしばある。本人曰く、漫画では本心を描くので、怒りを感じる相手には同様のシチュエーションで「漫画の中で徹底的に殺す」と話しており、「漫画は自由だからいい」とも語っていて、実際の人物に配慮して特定できないように描いている[6]

スーパーJOCKEY』の「熱湯コマーシャル」で熱湯風呂に入るはめになった際、上島竜兵たけし軍団らに体を押さえ付けられたうえにひしゃくで熱湯を浴びせられたことに激怒し、周囲の人間を「猫パンチ」でたたいた。たけしは後に「悪魔のように顔が豹変した」と話し、バイク事故の前にサイン本をもらっていることから、呪われているんじゃないかとも語っている[7]

ギャンブル時にも熱くなることがあり、『オールスター感謝祭』の企画で麻雀をしていたとき、別の企画で用意した山羊の鳴き声がうるさかったため「うるせえな!」と怒鳴ったこともある。

知名度が上がり、ファンから声を掛けられる機会が増えたため、「一般の方に迷惑がかかってしまう」との理由で、それまでの西武鉄道の一般列車での移動を同社の有料特急レッドアロー号」に切り替えたと、同社広報誌にコメントを寄せたことがある。

イベントなどで歌を歌うように要請されると、いつも「ヨイトマケの歌」や「チョコレイト・ディスコ」を歌う。高田渡のドキュメンタリー映画『タカダワタル的』の中にも、蛭子が熱唱する姿が収録されている。

服は1週間位同じだが、風呂は毎日入っている。

再婚時の新婚旅行は九州旅行だったが、妻の相手をせず唐津競艇場に行って妻を怒らせ、以降立場が逆転した。

月に何日か妻から「よっちゃんデー」をもらい、その日は1日自由に好きなことができる。平和島競艇場によく行く。いい子でない時は「こよっちゃんデー」になり、半日ほどになる。

温厚でのんびりしたような性格に見えるがとてもせっかちである。自動車の運転でも同様で、右折レーンの右折待ちの列すら待てない。最後尾には並ばず、直進レーンから右折レーンの一番前に割り込み、そのまま右折していくマナーの悪さを自ら悪びれることなく語っていたほどである。[8]

漫画家として

つげ義春に影響を受け漫画家になるが、作風はエログロかつ不条理で残虐無惨な描写が多く[9]、世間的に認知される以前からの熱狂的なファンが潜在的に存在し、根本敬相原コージねこぢる大槻ケンヂ福満しげゆき花くまゆうさく武内享(チェッカーズ)らに多大な影響を与えたことでも知られている。ストーリーは、因果で陰鬱なプロット、意味のない掛け合い、オチのない結末などが多く、救いのないオチがほとんど。内面からの狂気を描いたブラックな作品が多い。早くから『ヘタウマ』というジャンルを確立した一人でもある。

漫画家が本職ということになっているにも関わらず、「テレビ(出演)の仕事は楽しくて、おいしい。漫画を描くというのは結構難しく面倒なもの。テレビ出演のギャラと比べても漫画の原稿料は格段に安い。私は漫画家ではあるが、毎日仕事があるわけではない。(2008年当時)今はタレントとしての収入で生活している状況なのである。だからテレビの仕事をいつでも待っているのだ。逆にテレビの仕事がないと苦しいかな?」と、倉田真由美との共著[10]において語った。倉田曰く「蛭子さんなんて漫画は全収入の1割以下じゃないだろうか」[11]

同著によると、「昔、たくさんテレビに出ていた頃は、羽田から所沢(の自宅)までタクシーで帰っていた。約2万円のタクシー代なんてそのころは全く気にならないほど稼いでいた。このころは本当に忙しく、俺って芸能人だなーと思っていた。現在はときどき乗るくらいで、よく運転手に『最近テレビに出てないよね?』と、芸能人にとってとてもきついセリフを言われる」とのこと。

故郷に対する想い

海と山と島の自然が見える故郷・長崎には思い入れがあり、実家があった場所に女神大橋の橋脚が完成したことについて、「自然の中に鉄骨がある風景はあんまり好きじゃない。島がいっぱいあって、夕日がきれいな景色とかは、ずっと大切にしてほしい。」とコメントしている[12]

家族

前妻との間に儲けた1男1女と、後妻の連れ子である義娘の計3人の父であり、旅行番組などに家族揃って出演したこともある。両親は徳島県海部郡日和佐町(現・美波町) 出身。父親は漁師で、縄に絡まった仲間の手をナタで切り落としたエピソードに蛭子は(父を)尊敬したと語っている。それを聞いたみうらじゅんは「縄を切ればいいじゃん」と回想している[13]

長男はKID所属の元ゲームプログラマーで、現在はノイジークローク所属のサウンドデザイナー・蛭子 一郎1974年 - )[14]。蛭子能収の息子というキャラクター性もあってか、秋葉原での販売イベントに参加したことがある。また、かつて『スーパーJOCKEY』の熱湯風呂に親子で入らされたこともある。

3子の父親であるが子供に興味がなく「子供は好きではない」「子供と二人きりになると気まずい」「子供の成長に興味がない」と公言しており、4人の孫を持つ祖父でもあるが「孫の名前が覚えられない」など、孫にも興味がない。

愛妻家として広く知られており、以前出演した『おしゃれカンケイ』で、「奥さんと仲の良い秘訣は?」と聞かれ、「一緒の布団で寝ること」と答えていた。曰く、「激しい夫婦ゲンカをしても、同じ布団で寝れば肌も触れ合う。そうすると自然と仲直りしているんですよ。」と語っていた。そんな不遇の時代を支えてくれた前夫人は2001年肺高血圧症で死去。

その2年後の2003年4月に雑誌・女性自身の企画のお見合いパーティーで19歳年下のハリセンボン近藤春菜似の女性と知り合い、3年半に及ぶ交際の末、2007年1月に再婚した。再婚を機に、それまで住んでいた埼玉県所沢市を離れ新居を構えた。この再婚相手の女性の娘・蛭子 希和は「蛭子さんの娘」としてテレビに出演している。

エピソード

ローカル路線バス乗り継ぎの旅

テレビ東京系列『土曜スペシャル』の人気企画「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」では、蛭子の傍若無人ぶりが番組の名物になっている。

  • 出発時刻を調べてくれたバス営業所の受付の人を「一生忘れない」と言いながら、その人の名前を5分で忘れる。
  • 地元の特産品や、おすすめメニューには一切関心を示さず、ラーメンカレーライスカツ丼など、どこにでもある定番メニューを注文する(本人曰く「食い物に興味がない」「食えれば何だっていい」)。
  • トイレに行った後、洗った手をズボンで拭くため、テレビで見ていた妻にハンカチ持参を強制されている。
  • 池袋駅の立ち食いうどん屋で、大きないなり寿司を食べようとして、あごがはずれたことがある。
  • 当たり外れがある旅館を毛嫌いしており、無理にでもビジネスホテルに泊まりたがる。そのため宿舎探しの担当は蛭子になる。
  • 自営業の商店で「こんな店で食っていけるのか」と図々しく聞く。
  • 浮気する男性に対し「嫁さんとタダでヤレるのに(浮気する)理由がわからない」と批判的な意見を持っている。
  • バス移動中の車内で漫画がいくらで売れた、ギャンブルでいくら負けたと金銭絡みの話題を太川陽介に話すため「テレビでお金の話はしないの!」と注意されることが多い。
  • 10分程度の空き時間があるとパチンコ屋を探す。
笑い上戸

出演するテレビ番組で、悲しい場面で笑ってしまい(笑いのツボが多少ズレているとのこと)、生放送だったため、CMに切り替えられたことがある。きたろうは以前に蛭子と共演した際、蛭子が「きたろうさんが刑事役をやるのがおかしい」と笑ってばかりでNGを連発してしまい、ひどい目に遭っている。その後何回かの休憩を挟み15回くらい撮り直したと、共演したきたろうや山下真司が述べている。

かつて朝鮮半島軍事境界線を訪ねるツアーに参加し、絶対不謹慎な笑いをしないことと、真っ直ぐ歩くようにとの指示があったにもかかわらず、わざとジグザグに歩き、さらにいつものクセでシリアスな場面で笑ってしまったため、警備の米兵に殴られたことがある。

知人の葬式で「参列者全員が神妙な顔をしている」ということがおかしくて笑ったという。自身のファンクラブ会長の葬儀に参列し、棺の中に自著『なんとなくビンビン』が収められているのを見て笑いが止まらなくなり、会葬者をあ然とさせ、連れだされた逸話がある。中でも逸見政孝の追悼コメントをテレビ局から求められた際、本当は悲しいのになぜか笑顔で話してしまい、以降追悼コメントを求められることはなくなった。葬儀には呼ばれなかった。また、ビートたけしの母が1999年に亡くなった際に葬儀に参列し、ニヤニヤ笑っていたため北野家の遺族達を激怒させたと言う[15]。たけし曰く、「蛭子さんは旧日本軍のような残忍さを感じる」という。こうしたエピソードを番組で披露し、明石家さんまから「笑う悪魔」というニックネームを付けられた。

また、自身の親の葬式でも終始笑顔で、親類にたしなめられたという。実兄も蛭子と似た倫理観を持ち、兄弟揃って葬式を笑顔で過ごし、葬儀終了後に2人でパチンコに出掛けたという。ただ、最愛の元妻が死去した際は涙を流したという(小島慶子 キラ☆キラ、2009年12月24日)。

ギャンブル

  • 無類のギャンブル好きで競艇から麻雀パチンコカジノまでオールラウンドにこなす。ギャンブル熱はギャンブル依存症のレベルに達している。そのためギャンブルに関するエピソードが多い。妻とラスベガス旅行中もカジノにはまった。競馬は得意領域ではないためスポーツ新聞の予想を頼りにしている。自ら酒も煙草も女もやらないがギャンブルだけが問題点と発言している。
  • パチンコへは高校の卒業式終了と同時に直行した。全国民の中で、高校卒業後、最速でパチンコ屋へ行ったのは自分ではないかと回顧している。
  • これまでにギャンブルで1億円以上負けている[16]
  • 競艇にハマったきっかけは10代後半の頃に兄に誘われてから。公営ギャンブルであり、地域のために寄付していると思った気持ちから。
  • 親の葬儀後に喪主である兄と一緒に大村競艇場に行った。
  • 競艇のことなら何でも知っていることから「芸能界ナンバーワンの競艇通」と言われている[17]。また、蛭子が舟券を買うときに、高額配当の目を手広く何点も広げて買うことから、競艇ファンはそのような買い方を「蛭子買い」と呼ぶようになった。
  • 2006年8月には大村競艇場で「蛭子能収杯」という一般戦の冠レースが開催され、初日の10 - 12レースは蛭子自らが番組編成に当たった。競艇選手以外の個人名の冠レースは、この蛭子能収杯が競艇史上初。また、2008年からは、大村競艇場で開催されたオール女子戦(2008年と2009年は女子リーグ)のサブタイトルとして「真夏の女王蛭子能収杯」が付けられ、「蛭子ドリーム」と名づけられた初日の12Rのドリーム戦は、蛭子自らメンバー選定、番組編成に当たっている。
  • また、2008年から、多摩川競艇場にて「多摩川蛭子カップ」という一般戦の冠レースが開催されている。ここでも初日の後半2レースで蛭子自ら番組編成に当たっている。
  • 競艇以外の公営競技では1996年ばんえい競馬のイメージキャラクターを務めていた。
  • 1998年11月に、東京都新宿区歌舞伎町の麻雀店で麻雀賭博の現行犯で逮捕、約4か月の間タレントとしての活動を自粛した。その際に、「自分があんな(あの程度の安い)レートで警察の御用になるんだったら、東尾なんか懲役ものじゃないのか」と語っていたという[18]。図に乗っていたので、ここで一度落とされて良かったと回想している[19]
  • 競艇の中継にゲスト解説者として招かれることが多いが、梅沢富美男に「あいつ(蛭子)せこいよね~!」「もう、ああいうのはギャンブル場とか入れちゃいけないよ」と言わしめるほど、賭け方は「無謀」であることが暴露された[20]
  • 本人をモチーフとしたパチンコ台「CR蛭子能収」「CR蛭人」(高尾より発売)も登場した。

作品

漫画

  • マン(同人誌/1970年) 『地獄に堕ちた教師ども』オリジナル版のほか、商業誌未発表作品『帰り道はきつかった』『恐るべき美声年』掲載。その他に冨永佳宏、勇村良興が寄稿。数冊だけ現存が確認されている。
  • 彷徨う狂気(未発表作品)
  • パチンコ(デビュー作)
  • 地獄に堕ちた教師ども(青林堂)
  • 私はバカになりたい(青林堂)
  • 私は何も考えない(青林堂)
  • 私の彼は意味がない(青林堂)
  • 人生日記(青林堂)
  • 狂ったバナナ(辰巳出版)
  • 蛭子能収コレクション

以上、7冊がマガジンファイブより刊行。本来は同社から全21冊出版予定だったが、いまだ刊行していない。

個展

  • えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会- (2011年長崎歴史文化博物館) 初の個展であり、故郷長崎で開催された。旧作・新作と共に彼のアート作品も展示された。

著書

  • エビスヨシカズの秘かな愉しみ(1985)
  • 気弱なギャンブラー(1990)
  • 競艇入門(1992)
  • 蛭子能収のコワイもの見たさ(1995)
  • エビスさんのパチンコ日記(1996)
  • 笑う蛭子の副作用(1996)
  • 正直エビス(1996)
  • ヘタウマな愛(2002)
  • こんなオレでも働けた(2007)
  • ひとりぼっちを笑うな(2014)

この他、1994年8月に出版された朝伊達宙也の『マンガ麻雀入門』(永岡書店:刊 ISBN-13: 978-4522212356)の監修及び本文解説文章執筆や本書内の写真出演もしている。

作詞

  • ムーンライダーズ「だるい人」(アルバム「Don't trust over thirty」収録)
  • 鈴木慶一「人間の条件(ちょうけん)」(アルバム「THE LOST SUZUKI TAPES」収録)

CDジャケットイラスト

出演作品

テレビドラマ

映画

Vシネマ

アダルトビデオ

  • えびすさんが見てる

ゲーム

CD

PV

バラエティ

CM

脚注

  1. ^ a b c d e f "ここはふるさと 旅するラジオ". ここはふるさと 旅するラジオ. 7 February 2013. NHKラジオ第1放送. 2013年2月7日閲覧 {{cite episode}}: |series=は必須です。 (説明)
  2. ^ NHKデジタル衛星ハイビジョンほか『わたしが子どもだったころ』2007年7月18日放送分
  3. ^ 蛭子能収さん - インタビュー ? ひと ?”. どらく DORAKU (2007年9月25日). 2010年5月7日閲覧。
  4. ^ 一時期、一人称に「私」を使っていたこともあった。漫画など作品中で自身が登場する場合の一人称も「私」である。
  5. ^ Run for money 逃走中 10月5日放送
  6. ^ 日刊サイゾー、2009年4月26日『えびすビンゴ』出版記念インタビュー、蛭子能収流・今を生き抜く処世術)
  7. ^ 『ビートたけし&浅草キッド ビートニクラジオ』(1998年7月26日)
  8. ^ 笑っていいとも「テレホンショッキング」にて。
  9. ^ 実の息子である蛭子一郎を漫画に登場させ、作中で焼き殺したことがある。
  10. ^ 倉田真由美&蛭子能収『くらたまのえびす顔』(ゴマブックス 2008年)より
  11. ^ 倉田自身は「まだ漫画収入の方がそれ以外よりも多い」とのこと。
  12. ^ 長崎新聞』2010年2月9日「故郷への提言 本県出身著名人に聞く」より
  13. ^ 『ビートたけし&浅草キッド ビートニクラジオ』(1998年7月26日)
  14. ^ スタッフ紹介”. 株式会社ノイジークローク. 2010年5月7日閲覧。
  15. ^ テレビ朝日系列『神出鬼没!タケシムケン』に蛭子が出演した際に、ビートたけしによる証言
  16. ^ 一億円も負けてる私…
  17. ^ このことから競艇の専門雑誌である「競艇マクール」の表紙を手がけている
  18. ^ やくみつるの著書『やくみつるの故意死球』(ドリームクエスト)1999年より
  19. ^ NHK『立川志らくの演芸図鑑』(2012年10月21日放送)ゲスト出演時
  20. ^ NTV『踊る!さんま御殿!!』にて

外部リンク