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=== アケメネス朝ペルシア ===
=== アケメネス朝ペルシア ===

2014年11月15日 (土) 22:17時点における版

エジプト・アラブ共和国
جمهورية مصر العربية
エジプトの国旗 エジプトの国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌我が祖国
エジプトの位置
公用語 アラビア語
首都 カイロ
最大の都市 カイロ
政府
大統領 アブドルファッターフ・アッ=シーシー
首相 イブラヒーム・メフレブ
面積
総計 1,001,450km229位
水面積率 0.6%
人口
総計(2011年 81,120,000人(???位
人口密度 76人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 8,965億[1]エジプト・ポンド (£)
GDP(MER
合計(2008年1,621億[1]ドル(49位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2008年4,426億[1]ドル(28位
1人あたり 5,898[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1922年2月28日
通貨 エジプト・ポンド (£)(EGP
時間帯 UTC(+2) (DST:(+3))
ISO 3166-1 EG / EGY
ccTLD .eg
国際電話番号 20

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく)、通称エジプトは、中東アフリカ共和国首都カイロ

西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川河谷デルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。

国号

正式名称はアラビア語جمهورية مصر العربية (ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر (標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsˤɾ] マスル) 。

アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形ミスライム (מצרים, ミツライム) となる。

公式の英語表記は Arab Republic of Egypt 。通称 Egypt。形容詞はEgyptian。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハ神の魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話アイギュプトスに因む。

日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト漢字では、埃及と表記し、と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。

歴史

古代エジプト

ギザ三大ピラミッド
ヒエログリフ

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられて古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッド王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

アケメネス朝ペルシア

3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年アケメネス朝ペルシアに支配された。

ヘレニズム文化

紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系プトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。

ローマ帝国

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。

イスラム王朝

7世紀にイスラム化。639年イスラム帝国将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。

オスマン帝国

1517年にマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト)。

ムハンマド・アリー朝

ムハンマド・アリー

1798年フランスナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。

イギリスの進出

1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1882年アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)もイギリスによって武力鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となる。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。

独立・エジプト王国

大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年パレスチナ戦争第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。

エジプト共和国

この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団クーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込みムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命[2])、生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位し共和政へと移行、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。

ナーセル政権

ガマール・アブドゥル=ナーセル第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。

サーダート政権

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切る上で、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかし、サーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。

ムバーラク政権

アラブの春で失脚するまで30年以上に渡り長期政権を維持したホスニー・ムバーラク

代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、ムバーラクが追放されるまで30年以上に渡って継続された[3]

90年代には、イスラム集団などが、外国人観光客などを狙ったテロを起こした。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。

エジプト革命

チュニジアジャスミン革命に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及、2011年1月、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ英語版を暫定首相とする政権が発足した。その後2011年12月から2012年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。

ムルシー政権

2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動英語版)。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換。ムハンマド・イブラヒームアラビア語版が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない[4]。なお、イブラヒーム内相は、国民が望むならば辞任する用意がある、と2月に述べている[5]。ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた[6]。なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。

アブドルファッターフ・アッ=シーシー政権

2014年5月26~28日に行われた大統領選挙に当選したアブドルファッターフ・アッ=シーシーが6月8日、大統領に就任した[7]

政治

エジプト

エジプトの政治


司法
地方行政区画
選挙

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政体

共和制

大統領

国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍エジプト軍最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった[8]。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。

第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラク1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、多選可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。

2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシー6月30日に大統領に就任するまで続いた。

2011年3月19日憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された[9][10]

議会

議会は、一院制人民議会(マジュリス・アッ=シャアブ)。全508議席で、498議席は公選、10議席は大統領指名枠[11]。任期5年。これとは別に、諮問評議会(シューラ)が1980年設置されたが、立法権は有さない大統領の諮問機関である[12]。全270議席で、180議席が公選、90議席が大統領指名枠。

選挙

2011年11月21日イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日テレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した[13][14][15]。 人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日24日大統領選挙の投票が実施された。

しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効」(3分の1の議員について当選を無効と認定)との判決を受け[16][17]16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた[18]。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。

政党

ムバラク政権崩壊(2011年2月)後の2011年3月28日改正政党法が公表されて、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党アラビア語: حزب الحرية والعدالة‎ - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, : Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック英語版(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党政党連合革命継続英語版公正党英語版アラビア語: حزب العدل‎ - Hizb ElAdl, : Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた[19] [20]

政府

司法

ナポレオン法典イスラム法に基づく、混合した法システム[21]。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。フランスにおける裁判所の二元性フランス語版参照。

国際関係

国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年の対イスラエル国交回復によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺されたのち政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリアレバノンリビアを除くすべてのアラブ諸国との関係が回復した[28]。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年パレスチナガザ検問所を開放した。また、イランと関係修復しようとしている[29]

日本国との関係

軍事

陸軍の主力戦車M1エイブラムス

中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は468,500人。予備役479,000人。兵員数は陸軍34万人(軍警察を含む)、海軍18,500人(沿岸警備隊を含む)、空軍3万人、防空軍8万人[30]。内務省管轄の中央治安部隊国境警備隊と国防省管轄の革命国家警備隊(大統領親衛隊)の準軍事組織が存在する。

イスラエルとは4度にわたる中東戦争で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。親アメリカのため、北大西洋条約機構のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。

地方行政区画

エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة, と訳されることもある)である。知事は、中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において、中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、ナイル流域以外が全域砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。

主要都市

地理

アフリカ北東隅に位置し、面積1,002,450平方キロメートルで世界で30番目の大きさである。国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海スエズ湾に接する東部砂漠الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km²の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山 (2637m) や、旧約聖書モーセ十戒をさずかったといわれるシナイ山 (2285m) がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれており、ここがアフリカ大陸ユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。

ナイル川

ナイル川は南隣のスーダン白ナイル川青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1545kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海にそそぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり[31]アシュート近辺で分かれた支流がファイユーム近郊のカールーン湖Birket Qarun、旧Lake Moeris)へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス英語版を形成している。一方本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海にむかって約250kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプト上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域をさし、後者はカイロから上流の谷をさしている。ナイル河谷は、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。

ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集まって住むのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジがまったくない。シーワファラーフラハルガ、バハレイヤ、ダフラといったオアシスが点在している[32]。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているためいくつかの小さな港が存在する。

気候

国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40℃を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13~14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。

経済

カイロはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付けでアフリカ第1位の都市と評価された[33]

2010年のエジプトのGDPは約2168億ドル(約17兆円)[34]でありアフリカでは屈指の経済規模でありBRICsの次に経済発展が期待できると言われているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、スエズ運河収入と観光産業収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが少なくなった上、アスワン・ハイ・ダムの建設によって上流からの土壌がせき止められるようになった、そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大し、農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったためにコストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するがまた、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるも結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。

交通

エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。

鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタナイル河谷の主要都市を結んでいる。

航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。

国民

カイロモスク

人口構成

2005年の人口ピラミッド。30歳以下の若年層が非常に多く、若者の失業が深刻な問題となっている
国際連合食糧農業機関の2005年データによるエジプト人口の推移。1960年の3000万人弱から人口が急増しているのが読み取れる

エジプトの人口は、8254万人(2013年1月現在)で、近年急速に増大し続けている。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層は更に増加傾向にあるにも関わらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因のひとつともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033 %。

民族

住民はイスラム教徒キリスト教徒コプト教会東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人ヌビア人英語版アルメニア人ローマ人トルコ人ギリシア人などがいる。遺伝的に見ればエジプト住民の殆どが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる由縁である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服と続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解があるが、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入、定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。

なお古代のエジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしている事が多い。すなわち、スフィンクスやピラミッドを建て、太陽神やさまざまな神を信仰していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。

言語

現在のエジプトではアラビア語公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である[要出典]

古代エジプトの公用語であったエジプト語(4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを喋れる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である[35]。他には地域的にヌビア諸語教育ビジネス英語文化においてはフランス語なども使われている。

宗教

宗教構成(エジプト)
イスラム教(スンナ派)
  
90%
キリスト教その他
  
10%

宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)[36]。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる[36]

教育

新アレクサンドリア図書館

エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が一年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている[37]義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立時に初等教育はすでに無料とされ、以後段階的に無料教育化が進み、1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めたすべての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広くおこなわれており、社会問題化している[38]。高額な授業料を取る代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。エジプト国内には、20万以上の小中学校、1000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。

2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である[36]。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された[36]

主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学(988)、カイロ大学(1908)などが存在する。

国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。

文化

ナギーブ・マフフーズ1988年ノーベル文学賞を受賞した。

食文化

文学

古代エジプトにおいてはパピルスヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学には『死者の書』や『シヌヘの物語』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。

世界遺産

エジプト国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。

参考文献

脚註

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p49
  3. ^ エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す
  4. ^ 「『アラブの春』の国で繰り返される悪夢」 エリン・カニンガム Newsweekニューズウィーク日本版 2013年3月5日号
  5. ^ “I will leave my position if people want: Egypt's interior minister”. アハラムオンライン. (2013年2月2日). http://english.ahram.org.eg/News/63894.aspx 2013年5月8日閲覧。 
  6. ^ “エジプトのクーデターに至る過程:朝日新聞記事再録”. 朝日新聞. (2013年7月9日). http://middleeast.asahi.com/watch/2013070800008.html 2013年7月13日閲覧。 
  7. ^ http://www.afpbb.com/articles/-/3017089 エジプトのシシ新大統領が就任、前大統領の追放からほぼ1年
  8. ^ 鈴木恵美「エジプト革命以後の新体制形成過程における軍の役割」『地域研究』第12巻第1号、京都大学地域研究統合情報センター、2012年3月28日、135-147頁、ISBN 978-4-8122-1178-6ISSN 1349-50382012年6月17日閲覧 
  9. ^ エジプト・アラブ共和国 基礎データ ”. 各国:地域情勢. 外務省(日本). 2012年6月17日閲覧。
  10. ^ エジプト基礎情報~政治・外交 ”. エジプト情報. 在エジプト日本国大使館 (2011年7月30日). 2012年6月17日閲覧。
  11. ^ 2011年12月現在では、定数498議席のうち、3分の2(332議席)が政党(連合)リストによる比例代表制で、3分の1(166議席)が小選挙区制で選出される
  12. ^ 鈴木恵美. “エジプト”. 中東・イスラーム諸国の民主化. NIHU プログラム・イスラーム地域研究、東京大学拠点. 2012年6月15日閲覧。
  13. ^ エジプト・シャラフ内閣が総辞職表明 デモの混乱で引責 朝日新聞 2011年11月22日
  14. ^ エジプト軍議長「近く挙国一致内閣」とテレビ演説 朝日新聞 2011年11月23日
  15. ^ エジプト軍議長、元首相に組閣要請 選挙管理内閣を想定 朝日新聞 2011年11月25日
  16. ^ [2] 朝日新聞 2012年6月15日
  17. ^ エジプト議会、解散へ 大統領選にも影響か 日テレNEWS24 2012年6月15日
  18. ^ カイロ共同 (2012年6月18日). “エジプト、軍が議会に解散命令 憲法裁判所の判断で”. 47NEWS (共同通信): pp. 6. http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061701001315.html 2012年6月18日閲覧。 
  19. ^ エジプト・アラブ共和国 基礎データ ”. 各国:地域情勢. 外務省(日本). 2012年6月17日閲覧。
  20. ^ エジプト基礎情報~政治・外交 ”. エジプト情報. 在エジプト日本国大使館 (2011年7月30日). 2012年6月17日閲覧。
  21. ^ Egypt”. CIA-The World Factbook. 2012年6月15日閲覧。
  22. ^ Aperçu Historique”. 最高憲法裁判所. 2013年8月27日閲覧。
  23. ^ Current Members of the Court”. 最高憲法裁判所. 2013年8月27日閲覧。
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  25. ^ 中東要人講演会”. 2012年9月9日閲覧。
  26. ^ Judiciary Authority”. Egypt State Information Service. 2013年8月29日閲覧。
  27. ^ エジプトでイスラーム政党が認可”. [中東研ニュースリポート]. 日本エネルギー経済研究所 中東研究センター (2月21日). 2012年5月19日閲覧。
  28. ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷  p.58
  29. ^ エジプト:ガザ、出入り自由に 検問所開放、外交転換鮮明に
  30. ^ The Middle East and North Africa 2012 (58th ed.). Routledge. (2011). p. 380. ISBN 978-1-85743-626-6 
  31. ^ 「朝倉世界地理講座 アフリカI」初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日(朝倉書店)p198
  32. ^ ミリオーネ全世界事典 第10巻 アフリカI(学習研究社、1980年11月)p206
  33. ^ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
  34. ^ IMF
  35. ^ The Dairy Star of Egypt 2007年1月23日
  36. ^ a b c d CIA World Factbook "Egypt" 2010年1月31日閲覧。
  37. ^ 諸外国の学校情報(国の詳細情報) 日本国外務省
  38. ^ 福岡県立大学人間社会学部紀要 田中哲也

関連項目

外部リンク

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日本政府
その他