「福江藩」の版間の差分
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第7代藩主・[[五島盛道|盛道]]は[[宝暦]]11年([[1761年]])、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあった。しかし、これは相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、殆どの領民は奉公に出された。「人付け改め」と共にこの制度は幕末まで続いた。 |
第7代藩主・[[五島盛道|盛道]]は[[宝暦]]11年([[1761年]])、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあった。しかし、これは相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、殆どの領民は奉公に出された。「人付け改め」と共にこの制度は幕末まで続いた。 |
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[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治17年([[1884年]])、旧藩主・五島家は[[子爵]]となり[[華族]]に列した。 |
2014年12月29日 (月) 18:58時点における版
福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島氏が藩主を務めた。石高は1万5000石(一時、富江領に3000石を分知し1万2000石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。
略史
文治3年(1187年)、平家盛(平忠盛次男、平清盛の異母弟)が宇久島に上陸し、宇久姓を名乗る。観応2年(1351年)、宇久覚が宇久より福江島岐宿に移り、天正15年(1587年)、宇久純玄(すみはる)が五島姓へと改める。 藩の成立は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に、初代藩主・五島玄雅(五島純玄の嗣子)が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。
第2代藩主・盛利は、玄雅の養子として慶長17年(1612年)にその後を継いだ。元和5年(1619年)、玄雅の実子・角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「大浜主水事件」である。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いた。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは寛永11年(1634年)に完了している。寛永12年(1635年)には領内の検地を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、慶長19年(1614年)に焼失した江川城に代わって、寛永14年(1637年)、石田陣屋を建設して藩庁の整備を行なった。承応元年(1652年)、漁場として最盛期を迎えて居住者の増えていた男女群島に「女島奉行」を新たに設置した[1]。
第4代藩主・盛勝は幼少で藩主となり、寛文元年(1661年)、その後見役で叔父の盛清に富江領3000石が分知された。この地は捕鯨が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の南松浦郡新上五島町)と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により元禄2年(1689年)、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。
捕鯨で潤っていた藩財政も江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・盛佳は領内の労働人口を把握して確保するため、享保6年(1721年)より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。
第7代藩主・盛道は宝暦11年(1761年)、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあった。しかし、これは相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、殆どの領民は奉公に出された。「人付け改め」と共にこの制度は幕末まで続いた。
嘉永2年(1849年)、幕府より築城の許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、第10代藩主・盛成が着工した。文久3年(1863年)、第11代五島藩主・盛徳によって、日本で最も新しい城として石田城が竣工した。
明治4年(1871年)、廃藩置県により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治17年(1884年)、旧藩主・五島家は子爵となり華族に列した。 盛徳の後を継いだ盛主には男子が無かったが、旧新発田藩主家の溝口直溥の十六男盛光を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった盛輝は昭和20年(1945年)8月9日に長崎市で原子爆弾に被爆したことが原因で9月2日に卒去した。
歴代藩主
- 五島(ごとう)家
外様 1万5000石→1万2000石→1万5000石
- 玄雅(はるまさ)〔従五位下・淡路守〕
- 盛利(もりとし)〔従五位下・淡路守〕
- 盛次(もりつぐ)〔病弱のため官位官職無し〕
- 盛勝(もりかつ)〔従五位下・淡路守〕分知により1万2千石、次男・奥平昌章は宇都宮藩主のち中津藩主
- 盛暢(もりのぶ)〔従五位下・佐渡守〕
- 盛佳(もりよし)〔従五位下・大和守〕
- 盛道(もりみち)〔従五位下・淡路守〕
- 盛運(もりゆき)〔従五位下・大和守〕
- 盛繁(もりしげ)〔従五位下・大和守〕
- 盛成(もりあきら)〔従五位下・大和守〕
- 盛徳(もりのり)〔従五位下・飛騨守〕合併により1万5千石
富江領(富江藩)
五島氏第23代目当主(福江藩の第3代藩主)・五島盛次の弟・五島盛清(富江五島家初代当主)が、寛文元年(1661年)、宗家・福江藩より分知して富江藩が成立し、政庁として富江陣屋が築かれた。石高は3000石で、高家・交代寄合(大名格)として扱われた。第6代当主・五島運龍(瑞鳳公)は、将軍・徳川家斉の側衆、大番頭役、京都二条城在番、大坂城番、諸国巡見使を歴任した。第7代当主・五島盛貫(将軍・徳川家茂の側衆)の時代には、実高1万600余石となった。慶応4年(1868年)、第8代当主・五島盛明の代に福江藩に併合されたが、この際、富江領民は武装蜂起して激しく抵抗した(富江騒動)。
歴代当主
- 五島(ごとう)家
表高家 3000石
- 盛清(もりきよ) 異国船在役
- 盛朗(もりあき) 異国船在役
- 盛尚(もりひさ) 異国船在役
- 盛峯(もりみね) 異国船在役
- 盛恭(もりやす) 五島藩主・盛道の七子で盛峯の嗣子となる。異国船在役。
- 運龍(ゆきたつ)〔従五位下・筑前守・修理亮〕、徳川家斉側衆、瑞鳳公。
- 盛貫(もりつら)〔従五位下・讃岐守〕津山藩主・松平斉孝の弟・良山の嫡男で運龍の嗣子となる。徳川家茂側衆。
- 盛明(もりはる)〔従五位下〕
- 基民(もとたみ) 従二位権中納言(文章博士)五条為定の次男・従三位子爵五条為栄の弟で盛明の嗣子となる。
- 聰千代(きくちよ) 初代富江町長
幕末の領地
この他、明治維新後に富江領の第8代当主・五島盛明が後志国磯谷郡の南部を領地としている。
関連項目
参考文献
- 尾崎朝二『拓かれた五島史』 長崎新聞社 2012年
- 富江町郷土誌編纂委員会編『富江町郷土誌』 富江町教育委員会 2004年
- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』 新人物往来社 1977年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』 文春新書 2003年
- 八幡和郎『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 光文社新書 2004年
- 中山良昭『江戸300藩 殿様のその後』 朝日新書 2007年
脚注
外部リンク
先代 (肥前国) |
行政区の変遷 1603年 - 1871年 (福江藩→福江県) |
次代 長崎県 |