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'''遠藤 於莵'''(えんどう おと、[[1866年]] - [[1943年]][[2月17日]])は、日本の[[建築家]]。日本における[[鉄筋コンクリート]]技術の先駆者の一人で、「日本の[[オーギュスト・ペレ|ペレ]]」とも評される。
'''遠藤 於莵'''(えんどう おと、[[1866年]][[12月28日 (旧暦)|12月28日]] - [[1943年]][[2月17日]])は、日本の[[建築家]]。日本における[[鉄筋コンクリート]]技術の先駆者の一人で、「日本の[[オーギュスト・ペレ|ペレ]]」とも評される。


==経歴==
==経歴==

2015年1月1日 (木) 16:45時点における版

遠藤 於莵(えんどう おと、1866年12月28日 - 1943年2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。

経歴

信濃国筑摩郡福島(現長野県木曽郡木曽町)生まれ。東京大学予備門第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、1894年卒業。野口孫市、大沢三之助、矢橋賢吉と同期生。

卒業後、神奈川県技師に就任、また横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。1898年横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事した(1904年竣工)。1905年、横浜に設計事務所を開設。以降は在野で設計活動を行った(1909年に再び神奈川県技師に任じられたが、8か月ほどで辞めている)。

遠藤は鉄筋コンクリート構造(RC造)の新技術に大きな関心を抱いたが、明治末年当時は試行錯誤の時代であった。まず床や開口部など部分的に使用しはじめ、1910年竣工の三井物産横浜支店倉庫では混構造(外壁は煉瓦造、床は木造で、内部の柱や屋根スラブなどがRC造)としたが、翌年竣工の三井物産横浜支店では全面的にRC造を採用した(本格的な事務所建築として日本最初のRC造)。この2つの建物は現存しており、技術史上も重要な遺構である。この他、アールヌーヴォー様式で知られる横浜銀行集会所、関東大震災後の生糸検査所(キーケン)などが代表作である。

作品

参考文献

  • 堀勇良『日本のモダニズム』(日本の建築 明治大正昭和10、1981年)