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「水野忠幹 (紀伊新宮藩主)」の版間の差分

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'''水野 忠幹'''(みずの ただもと、[[天保]]9年([[1838年]]) - [[明治]]35年([[1902年]])[[4月30日]])は、[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]の第10代当主([[紀州藩]][[家老]]、[[大名]]としては初代藩主)。
'''水野 忠幹'''(みずの ただもと、[[天保]]9年([[1838年]]) - [[明治]]35年([[1902年]])[[4月30日]])は、[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]の第10代当主([[紀州藩]][[御附家老]]、[[大名]]としては初代藩主)。


第9代当主・[[水野忠央]]の長男。正室は[[浜松藩]]主・[[水野忠邦]]の娘、継室は水野忠邦の養女([[宇都宮藩]]主・[[戸田忠温]]の娘)、継々室は[[田原藩]]主・[[三宅康直]]の娘。子は[[水野忠宜|忠宜]](長男、[[八甲田雪中行軍遭難事件]]で死去)、[[水野直|直]](五男)、[[片桐貞央]](六男)、[[水野忠武 (旧紀伊新宮藩当主家)|忠武]](七男)、[[水野重吉|重吉]](八男)、娘(森英室)、娘(川口武和室)、娘(水野敏勝室)。官位は従五位下・大炊頭。
第9代当主・[[水野忠央]]の長男。正室は[[浜松藩]]主・[[水野忠邦]]の娘、継室は水野忠邦の養女([[宇都宮藩]]主・[[戸田忠温]]の娘)、継々室は[[田原藩]]主・[[三宅康直]]の娘。子は[[水野忠宜|忠宜]](長男、[[八甲田雪中行軍遭難事件]]で死去)、[[水野直|直]](五男)、[[片桐貞央]](六男)、[[水野忠武 (旧紀伊新宮藩当主家)|忠武]](七男)、[[水野重吉|重吉]](八男)、娘(森英室)、娘(川口武和室)、娘(水野敏勝室)。官位は従五位下・大炊頭。

2015年1月15日 (木) 10:57時点における版

水野 忠幹(みずの ただもと、天保9年(1838年) - 明治35年(1902年4月30日)は、紀伊新宮藩の第10代当主(紀州藩御附家老大名としては初代藩主)。

第9代当主・水野忠央の長男。正室は浜松藩主・水野忠邦の娘、継室は水野忠邦の養女(宇都宮藩主・戸田忠温の娘)、継々室は田原藩主・三宅康直の娘。子は忠宜(長男、八甲田雪中行軍遭難事件で死去)、(五男)、片桐貞央(六男)、忠武(七男)、重吉(八男)、娘(森英室)、娘(川口武和室)、娘(水野敏勝室)。官位は従五位下・大炊頭。

万延元年(1860年6月14日、父の忠央が強制隠居処分となったため、その跡を継いで紀州藩主・徳川茂承を補佐した。策謀家・専制的であった父と違って謹厳実直だった上、度量も広かったので、周囲から人望を集めたと言われている。

慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の先鋒を務め、各地で幕府軍が敗れる中で、忠幹が率いる軍勢だけは安芸国佐伯郡大野村まで進撃するという大戦果を挙げた。幕府軍が撤退する中では殿軍を務め、長州藩の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃できず、「鬼水野」と畏怖し、あるいは賞賛したと言われている。

慶応4年(1868年1月24日、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5,000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。戊辰戦争が起こると紀伊藩は御三家の一つであったことから幕府側に就くとして、新政府側から疑われた。2月1日、忠幹は自ら上洛して必死に弁護し、紀伊藩の存続を実現した。

明治35年(1902年)、65歳で死去した。法号は真徳院殿忠幹日現大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。