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「虎姫 (中川秀成室)」の版間の差分

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'''虎姫'''(とらひめ、[[永禄]]7年([[1564年]]<ref>生年を[[永禄]]7年([[1564年]])としている資料があるが、永禄7年では父親が{{要出典範囲|数え12歳であるため無理がある|date=2013年10月}}との指摘もある。</ref>-[[慶長]]15年(1610年))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[女性]]。史料によっては「虎御前」とも書かれる。

2015年3月24日 (火) 02:30時点における版

京都市大善寺所蔵・伝「洞仙院殿像」

虎姫(とらひめ、永禄7年(1564年[1]-慶長15年(1610年))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての女性。史料によっては「虎御前」とも書かれる。

生涯

織田家家臣、佐久間盛政の娘(母は佐久間盛重の娘)で、父の死後、母方の叔母の夫(すなわち叔父)にあたる新庄直頼の養女となった後、豊臣秀吉のはからいにより中川清秀の二男秀成豊後国岡藩初代藩主)の正室となり、嫡子久盛(二代藩主)をはじめ7人の子の母となった。

中川清秀は賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政の急襲を受けて討ち死にした武将であり、虎姫は父を仇とする家に嫁いだことになる。この経緯から中川氏家中、特に姑(清秀の妻)から嫌われたため、結婚後夫の領地に下向することは一度もなく、終生畿内暮らしであった。

慶長15年(1610年)に死去。法名は「洞仙院殿春晃英玉大姉」。

生涯にわたって父盛政の菩提を弔う菩提寺を建立することと、父盛政の家を復興することを悲願としたが、いずれも生前にその成就を見ることはなかった。その死後、夫秀成は7人目の子、内記勝成[要出典]に盛政の家を復興させ、佐久間家を継がせた。この佐久間家は岡藩の客分扱いとなり、その子孫は現在に至るまで大分県にて続いている。また、寛永21年(1644年)には嫡子久盛が、盛政の菩提寺として英雄寺を現在の竹田市に建立した。

肖像

京都市大善寺には狩野派系の女性肖像画「洞仙院殿像」(京都市有形文化財)が像主不明のまま伝えられていたが、平成6年(1994年)の調査によりこれが虎姫を描いたものと判明[要出典]した。

系譜

   佐久間盛通
     ┣━━━━━━┓
    盛重(久六) 盛経
     ┃      ┃
    盛次     盛重(大学允)        熊田資利
  ┏━━┫  ┏━━━┫            ┏━━┫
 勝之 盛政1 女子  女子 新庄直頼 中川清秀 女子 資勝
  ┃  ┗┳━┛   ┗━┳━┛    ┗━┳━┛  ┃
  ┃   ┃       ∥        ┃    ┃
  ┃   虎姫 ---> 虎姫2      秀成   資政
  ┃           ┗━━━━┳━━━┛    ┃
  ┃            ┏━━━┻┓       ┃
 女 子           久盛 内記勝成(佐久間)3 ┃
  ┃┃                ┃       ┃
  ┃┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛    中川隼人正(資重)4
  ┗━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┏━━┻━━┓
 資弘  佐久間平兵衛5
  ┃     ∥
 資則 -> 資則6

参考資料

  • 『賤ケ岳の鬼神 佐久間盛政』楠戸義昭著 毎日新聞社刊 ISBN 978-4620315614
  • 「岡藩(竹田市)初代藩主中川秀成の夫人、虎姫について知りたい」大分県立図書館リファレンス

http://library.pref.oita.jp/kento/reference/case/oita/a_009.html

脚注

  1. ^ 生年を永禄7年(1564年)としている資料があるが、永禄7年では父親が数え12歳であるため無理がある[要出典]との指摘もある。