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「歴代三宝紀」の版間の差分

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『'''歴代三宝紀'''』(れきだい さんぼうき)とは、[[中国]][[隋]]の[[費長房]]が撰した[[経録]]、[[仏教]]史籍である。別名では「'''開皇三宝録'''」「'''長房録'''」ともいう。
『'''歴代三宝紀'''』(れきだい さんぼうき)とは、[[中国]][[隋]]の[[費長房 (隋)|費長房]]が撰した[[経録]]、[[仏教]]史籍である。別名では「'''開皇三宝録'''」「'''長房録'''」ともいう。


== 撰者・費長房 ==
== 撰者・費長房 ==
撰者の費長房は、『[[後漢書]]』「方術伝」に同名の方士が見えるが、もちろん別人である。[[四川省]][[成都]]の人で、早くに出家していたが、[[北周]][[武帝 (北周)|武帝]]の[[廃仏]]によって[[還俗]]させられている。隋の[[開皇]]初([[581年]])、[[楊堅|文帝]]に召されて都の[[長安|大興]]に入り、翻経学士となった。
撰者の費長房は、『[[後漢書]]』「方術伝」に[[費長房 (後漢)|同名の方士]]が見えるが、もちろん別人である。[[四川省]][[成都]]の人で、早くに出家していたが、[[北周]][[武帝 (北周)|武帝]]の[[廃仏]]によって[[還俗]]させられている。隋の[[開皇]]初([[581年]])、[[楊堅|文帝]]に召されて都の[[長安|大興]]に入り、翻経学士となった。


== 構成 ==
== 構成 ==

2015年4月29日 (水) 15:17時点における版

歴代三宝紀』(れきだい さんぼうき)とは、中国費長房が撰した経録仏教史籍である。別名では「開皇三宝録」「長房録」ともいう。

撰者・費長房

撰者の費長房は、『後漢書』「方術伝」に同名の方士が見えるが、もちろん別人である。四川省成都の人で、早くに出家していたが、北周武帝廃仏によって還俗させられている。隋の開皇初(581年)、文帝に召されて都の大興に入り、翻経学士となった。

構成

  1. 帝年 (巻1-巻3)
    1.  (巻1)
    2. 前漢後漢 (巻2)
    3. ・隋 (巻3)
  2. 代録 (巻4-巻12)
    1. 後漢録 (巻4)
    2. 魏・録 (巻5)
    3. 西晋録 (巻6)
    4. 東晋録 (巻7)
    5. 前秦後秦録 (巻8)
    6. 西秦北涼録 (巻9)
    7. 宋録 (巻10)
    8. 斉・梁・周録 (巻11)
    9. 隋録 (巻12)
  3. 入蔵録 (巻13-巻14)
    1. 大乗経入蔵目 (巻13)
    2. 小乗経入蔵目 (巻14)
  4. 序目 (巻15)

本書の特色

本書の特色は、その紀年法にある。それは、まず、南斉・梁を尊んで北魏を斥けている。よって、晋-宋-南斉-梁と正統が相承されるのだが、梁の後は、何と北周に継承され、それが隋へと至るという独特の紀年法である。そのことは、構成の巻11から巻12を見てもわかる。これは、元僧侶の撰者のあずかり知るところではなく、実際、後世の正統論とは異なった、当時の一般的な心理であったであろうと推定されている。

また、巻4から巻14までは、歴代の経録および入蔵録であり、「出三蔵記集」や「開元釈教録」と同様の経録の体裁をとっているが、巻1から巻3の「帝年」があることにより、本書は『大正新脩大蔵経』では、「目録部」ではなく、巻49の「史伝部」に収録している。

参考文献

  • 大内文雄「歴代三宝紀と続高僧伝:訳経者の伝記について」(『印度学仏教学研究』28-2、1980年)
  • 大内文雄「歴代三宝紀帝年攷」(『大谷学報』63-4、1984年)
  • 大内文雄「中国仏教における通史の意識:歴代三宝紀と帝王年代録」(『仏教史学研究』33-2、1990年)