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「高恒」の版間の差分

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[[武平 (北斉)|武平]]元年([[570年]])6月、[[後主 (北斉)|後主]]高緯の長男として[[ギョウ|鄴]]に生まれた。10月、[[皇太子]]に立てられた。[[承光 (北斉)|承光]]元年([[577年]])1月、後主から帝位を譲られて即位した。この時すでに[[北周]]の軍勢が国都の鄴に迫っており、[[太皇太后]]の[[胡皇后 (北斉武成帝)|胡氏]]や[[皇太后]]の[[穆邪利|穆氏]]が先に[[済州 (山東省)|済州]]に避難した。次いで幼主が済州に逃れ、最後に後主が鄴を放棄した。任城王[[高カイ|高湝]]に帝位を譲るべく[[斛律孝卿]]に禅文と[[璽]]を託して[[瀛州]]に送ろうとしたが、斛律孝卿は北周に降伏してしまった。また高湝に詔を送って、後主が無上皇となり、幼主は守国天王となった。
[[武平 (北斉)|武平]]元年([[570年]])6月、[[後主 (北斉)|後主]]高緯の長男として[[ギョウ|鄴]]に生まれた。10月、[[皇太子]]に立てられた。[[承光 (北斉)|承光]]元年([[577年]])1月、後主から帝位を譲られて即位した。この時すでに[[北周]]の軍勢が国都の鄴に迫っており、[[太皇太后]]の[[胡皇后 (北斉武成帝)|胡氏]]や[[皇太后]]の[[穆邪利|穆氏]]が先に[[済州 (山東省)|済州]]に避難した。次いで幼主が済州に逃れ、最後に後主が鄴を放棄した。任城王[[高カイ|高湝]]に帝位を譲るべく[[斛律孝卿]]に禅文と[[璽]]を託して[[瀛州]]に送ろうとしたが、斛律孝卿は北周に降伏してしまった。また高湝に詔を送って、後主が無上皇となり、幼主は守国天王となった。


幼主は後主や穆太后とともに[[青州 (山東省)|青州]]に逃れたが、数十人が従うのみであった。青州の南鄧村で北周の将軍[[尉遅勤]]に捕らえられて鄴に送られた。さらに[[長安]]に連行されて温国公に封ぜられた。[[建徳 (北周)|建徳]]7年([[578年]])、[[穆提婆]]が叛乱を企てたとの口実で処刑されると、この事件に連座して殺害された。
幼主は後主や穆太后とともに[[青州 (山東省)|青州]]に逃れたが、数十人が従うのみであった。青州の南鄧村で北周の将軍[[尉遅勤]]に捕らえられて鄴に送られた。さらに[[長安]]に連行されて温国公に封ぜられた。[[建徳 (北周)|建徳]]7年([[578年]])、[[穆提婆]]が叛乱を企てたとの口実で処刑されると、この事件に連座して殺害された。享年9


== 死後 ==
[[大象 (北周)|大象]]2年([[580年]])、[[陽休之]]や[[陳徳信]]らが北周の実力者であった隋公[[楊堅]]に高恒の正式な葬儀を行うよう上申して聞き入れられ、長安の北の洪涜川に葬られた。
[[大象 (北周)|大象]]2年([[580年]])、[[陽休之]]や[[陳徳信]]らが北周の実力者であった隋公[[楊堅]]に高恒の正式な葬儀を行うよう上申して聞き入れられ、長安の北の洪涜川に葬られた。



2015年6月18日 (木) 02:06時点における版

幼主 高恒
北斉
第6代皇帝
王朝 北斉
在位期間 577年1月 - 3月
姓・諱 高恒
生年 武平元年(570年)6月
没年 建徳7年(578年
後主
穆皇后
陵墓 洪涜川
年号 承光 : 577年

幼主(ようしゅ)は、北朝北斉の第6代皇帝。姓は

生涯

武平元年(570年)6月、後主高緯の長男としてに生まれた。10月、皇太子に立てられた。承光元年(577年)1月、後主から帝位を譲られて即位した。この時すでに北周の軍勢が国都の鄴に迫っており、太皇太后胡氏皇太后穆氏が先に済州に避難した。次いで幼主が済州に逃れ、最後に後主が鄴を放棄した。任城王高湝に帝位を譲るべく斛律孝卿に禅文とを託して瀛州に送ろうとしたが、斛律孝卿は北周に降伏してしまった。また高湝に詔を送って、後主が無上皇となり、幼主は守国天王となった。

幼主は後主や穆太后とともに青州に逃れたが、数十人が従うのみであった。青州の南鄧村で北周の将軍尉遅勤に捕らえられて鄴に送られた。さらに長安に連行されて温国公に封ぜられた。建徳7年(578年)、穆提婆が叛乱を企てたとの口実で処刑されると、この事件に連座して殺害された。享年9。

死後

大象2年(580年)、陽休之陳徳信らが北周の実力者であった隋公楊堅に高恒の正式な葬儀を行うよう上申して聞き入れられ、長安の北の洪涜川に葬られた。

先代
後主
北斉の第6代皇帝
577年
次代
滅亡