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==経歴==
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[[1936年]]、[[長崎市]]に生まれる。戸籍名は、'''長岡秀三'''(ながおか しゅうぞう)。[[1945年]]、[[長崎県]][[壱岐郡]][[郷ノ浦町]]に移る。中学・高校と[[壱岐島]]で暮らす。
[[1936年]]、[[長崎市]]に生まれる。戸籍名は、'''長岡秀三'''(ながおか しゅうぞう)。[[1945年]]、[[長崎市立山里小学校|山里国民学校]]在学中に[[長崎県]][[壱岐郡]][[郷ノ浦町]]へ疎開(転校)。中学・高校と[[壱岐島]]で暮らす。


[[1955年]]、[[長崎県立壱岐高等学校|壱岐高校]]3年生の時、小学館発行「中学生の友」の挿絵に送稿し採用される。[[武蔵野美術大学|武蔵野美術学校]]に入学するが、入学一ヶ月後に雑誌、出版物の仕事を始める。[[1958年]]、武蔵野美術学校を退学し、コマーシャルアーティストとして独立する。[[1967年]]、 大阪万国博覧会準備グループに参加する。
[[1955年]]、[[長崎県立壱岐高等学校|壱岐高校]]3年生の時、小学館発行「中学生の友」の挿絵に送稿し採用される。[[武蔵野美術大学|武蔵野美術学校]]に入学するが、入学一ヶ月後に雑誌、出版物の仕事を始める。[[1958年]]、武蔵野美術学校を退学し、コマーシャルアーティストとして独立する。[[1967年]]、 大阪万国博覧会準備グループに参加する。

2015年8月18日 (火) 01:44時点における版

長岡 秀星
生誕 1936年11月26日
長崎県長崎市
死没 (2015-06-23) 2015年6月23日(78歳没)
神奈川県小田原市
国籍 日本の旗 日本
職業 イラストレーター画家
活動期間 1958年 - 2015年
ジャンル 商業イラスト
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長岡 秀星(ながおか しゅうせい、1936年11月26日 - 2015年6月23日)は、日本のイラストレーター画家

経歴

1936年長崎市に生まれる。戸籍名は、長岡秀三(ながおか しゅうぞう)。1945年山里国民学校在学中に長崎県壱岐郡郷ノ浦町へ疎開(転校)。中学・高校と壱岐島で暮らす。

1955年壱岐高校3年生の時、小学館発行「中学生の友」の挿絵に送稿し採用される。武蔵野美術学校に入学するが、入学一ヶ月後に雑誌、出版物の仕事を始める。1958年、武蔵野美術学校を退学し、コマーシャルアーティストとして独立する。1967年、 大阪万国博覧会準備グループに参加する。

1970年、アメリカに移住、ハリウッドにアートスタジオを設立する。その後、アルバムカバーや映画広告の仕事を手がける。カーペンターズのレコードジャケットも担当する。1976年、「ローリングストーン」誌最優秀アルバムカバー賞を受賞する。1981年、NHK出版社より画集「長岡秀星の世界 パート1」を出版する。同年11月16日、NHKスペシャルドキュメント「喜多郎&秀星 砂漠幻視行」が放映される。1985年、画集「長岡秀星の世界 パート2」を出版する。つくば科学博覧会の公式ポスターと政府出展館の展示物の制作を行う。故郷の長崎県関連の観光ポスターや壱岐焼酎「壱岐っ娘」(壱岐の蔵酒造)のラベルのイラストも手がけた。

アメリカでの顧客として、ゼネラルモーターズフォードクライスラーフォルクスワーゲンロッキードリーダーズダイジェストNASAなど、大手有名企業の名前が挙がる[1]

2015年6月23日、心筋梗塞のため神奈川県小田原市の病院で死去、78歳没[2]

作品

リトグラフタブローが主流だが、レコードジャケットも、かなり手がけている。

人物や物の描き方は、写実的である。色彩も多様で鮮やかである。

宇宙に関する絵画、サイエンス・フィクションを彷彿させる絵画が多い。

主なレコードジャケット作品

画集

脚注

関連項目

外部リンク