「長谷信篤」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
→脚注: リンクを追加 タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 |
出典の明記 |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2015年9月}} |
|||
[[File:長谷信篤.gif|thumb|長谷信篤 初代京都府知事]] |
[[File:長谷信篤.gif|thumb|長谷信篤 初代京都府知事]] |
||
'''長谷 信篤'''(ながたに のぶあつ、[[文化 (元号)|文化]]15年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]([[1818年]][[3月30日]]) - [[明治]]35年([[1902年]])[[12月26日]])は、[[幕末]]・[[明治]]期の[[公卿]]・[[華族]]([[子爵]])・政治家。[[京都府知事]](初代)、[[元老院議官]]、[[貴族院議員]]などの要職を歴任した。[[長谷信好]]の子。母は[[猪熊慶礼]]の娘([[正室]])。正室は[[坊城俊政]]の娘。子に[[長谷信成]]がいる。 |
'''長谷 信篤'''(ながたに のぶあつ、[[文化 (元号)|文化]]15年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]([[1818年]][[3月30日]]) - [[明治]]35年([[1902年]])[[12月26日]])は、[[幕末]]・[[明治]]期の[[公卿]]・[[華族]]([[子爵]])・政治家。[[京都府知事]](初代)、[[元老院議官]]、[[貴族院議員]]などの要職を歴任した。[[長谷信好]]の子。母は[[猪熊慶礼]]の娘([[正室]])。正室は[[坊城俊政]]の娘。子に[[長谷信成]]がいる。 |
||
21行目: | 22行目: | ||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{reflist}} |
{{reflist}} |
||
{{-}} |
|||
{{京都府知事|初代:1868-1875}} |
{{京都府知事|初代:1868-1875}} |
||
⚫ | |||
{{DEFAULTSORT:なかたに のふあつ}} |
{{DEFAULTSORT:なかたに のふあつ}} |
||
[[Category:廷臣八十八卿]] |
[[Category:廷臣八十八卿]] |
||
34行目: | 35行目: | ||
[[Category:1818年生]] |
[[Category:1818年生]] |
||
[[Category:1902年没]] |
[[Category:1902年没]] |
||
⚫ |
2015年9月22日 (火) 14:21時点における版
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E7%AF%A4.gif)
長谷 信篤(ながたに のぶあつ、文化15年2月24日(1818年3月30日) - 明治35年(1902年)12月26日)は、幕末・明治期の公卿・華族(子爵)・政治家。京都府知事(初代)、元老院議官、貴族院議員などの要職を歴任した。長谷信好の子。母は猪熊慶礼の娘(正室)。正室は坊城俊政の娘。子に長谷信成がいる。
経歴
安政元年12月18日(1855年2月4日)、従三位に叙される。安政勤王八十八廷臣の一人でもある。
王政復古時には正三位参議。王政復古の大号令に伴い、東久世通禧や岩倉具視らとともに新政府三職のひとつである議定に就任。その後、京都府知事に就任。明治8年(1875年)、京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして権勢を振るった。当時としては非常に長命で、85歳まで生きた。
ほかに、参与、刑法事務総督(現在の法務大臣に相当)などの要職を歴任した。
栄典
関連項目
脚注
- ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
- ^ 『官報』第5848号、1902年12月29日。