コンテンツにスキップ

「長谷信篤」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cat追加
→‎栄典: 典拠変更
11行目: 11行目:


== 栄典 ==
== 栄典 ==
* [[1899年]](明治32年)[[6月29日]] - [[従一位]]<ref>[http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/cgi-bin/TEIKOKU/swt_dispdoc.cgi?SESSION=6852&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=1&DOC_ID=646&DPAGE=1&DTOTAL=27&DPOS=11&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=1&MODE=0&DMY=6856 帝国議会会議録貴族院議員の異動]</ref>
* [[1899年]](明治32年)[[6月29日]] - [[従一位]]<ref>『官報第4798号、明治32年6月30日。</ref>
* [[1902年]](明治35年)[[12月26日]] - [[勲二等]][[旭日重光章]]<ref>『官報』第5848号、1902年12月29日。</ref>
* [[1902年]](明治35年)[[12月26日]] - [[勲二等]][[旭日重光章]]<ref>『官報』第5848号、1902年12月29日。</ref>



2015年10月5日 (月) 07:08時点における版

長谷信篤 初代京都府知事

長谷 信篤(ながたに のぶあつ、文化15年2月24日1818年3月30日) - 明治35年(1902年12月26日)は、幕末明治期の公卿華族子爵)・政治家。京都府知事(初代)、元老院議官貴族院議員などの要職を歴任した。長谷信好の子。母は猪熊慶礼の娘(正室)。正室は坊城俊政の娘。子に長谷信成がいる。

経歴

安政元年12月18日1855年2月4日)、従三位に叙される。安政勤王八十八廷臣の一人でもある。

王政復古時には正三位参議王政復古の大号令に伴い、東久世通禧岩倉具視らとともに新政府三職のひとつである議定に就任。その後、京都府知事に就任。明治8年(1875年)、京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして権勢を振るった。当時としては非常に長命で、85歳まで生きた。

ほかに、参与刑法事務総督(現在の法務大臣に相当)などの要職を歴任した。

栄典

関連項目

脚注

  1. ^ 『官報』第4798号、明治32年6月30日。
  2. ^ 『官報』第5848号、1902年12月29日。