「カーナーヴォン城」の版間の差分
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2015年10月21日 (水) 17:56時点における版
カーナーヴォン城 Caernarfon Castle Castell Caernarfon | |
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カーナーヴォン、グウィネズ、ウェールズ | |
夕景 | |
座標 | 北緯53度08分22秒 西経4度16分37秒 / 北緯53.139306度 西経4.276889度 |
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カーナーヴォン城 | |||
英名 | Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd | ||
仏名 | Châteaux forts et enceintes du roi Édouard Ier dans l'ancienne principauté de Gwynedd | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (i) (iii) (iv) | ||
登録年 | 1986年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター | ||
使用方法・表示 |
カーナーヴォン城 (英語:Caernarfon Castle、ウェールズ語:Castell Caernarfon)は、ウェールズ北西グウィネズ州カーナーヴォンにある城。1283年にウェールズを征服したイングランド王エドワード1世によって建設された。
発音
ウェールズ語での発音は、「カイルナーヴォン」に近い。「f」はウェールズ語では「v」と発音するため、これを正しく読めないイングランド人がスペルを英語化してCarnarvonと変えていた例が過去にあるが現在ではウェールズ語のスペルが標準的である。
背景
エドワード1世は、1283年に独立国家ウェールズ公国を征服したのに伴い、この地域を平定するため城を築き城塞都市を建設した。
ウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズは、もしウェールズの独立をあきらめたなら年1,000ポンドの年金とイングランド国内の所領を与えるという賄賂の申し出を拒絶し、1282年12月11日、罠にはまって戦死に追い込まれた。彼の弟ダフィズは兄の後を継いでウェールズ独立の戦いを続行したが、彼もイングランドの策略にはまり1283年6月にGarth Celynの高地ベラ山地で捕らえられた。
エドワード1世はGarth Celynを包囲して保護下におき、イングランド王家の住まいとイングランド支配に対する抵抗を封じ込めるための本拠地としてカーナーヴォン城を築き、さらに現在のスノードニア国立公園を囲むその他の要塞としてコンウィ、ハーレフ、ビューマリスに城を築いていった。これら4つの城がUNESCO世界遺産に「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」の名で登録されている。
カーナーヴォンが城を建てる地として選ばれたのは、メナイ海峡へSeiont川が注ぐ、河岸に位置することから戦略上重要であったためである。かつてこの地には古代ローマ人の砦があり、後にモット・アンド・ベーリー型の城が1090年頃初代チェスター伯ユー・ダヴランシュによって建てられた。当時の城は、両側が水辺であり、他方はカーナーヴォンの城壁に囲まれていた。19世紀、Seiont川に面した地域はカーナーヴォン港拡張のため埋め立てられ、現在はカーナーヴォン城の駐車場の一部となっている。
建設
グウィネズ王国(ウェールズ北部にあった王国)の心臓部スノードニアが強固な軍に侵略された後の1283年に建設が始まり、1323年に現在の様子に似た状態となった。城は未完成のまま、今日でさえ接合部分が、さらなる未完成の壁を擁する内側城壁の数カ所で見られる。城を建設していた時代の記録には、城の建設には22,000ポンドかかったと記録されている。当時としては莫大な金額で、王家の年間収入と同等かそれ以上だった。城のリニア(Linear)設計は初期のイギリスの城と比較して精巧であり、城壁はかつて第8回十字軍に参加したエドワード1世が見たコンスタンティノープル城壁を参考にしたとされる。
歴史
エドワード1世の王子エドワード(のちのエドワード2世)は、城を建設中の1284年に城内で生まれ、彼はエドワード・オブ・カーナーヴォンとも呼ばれていた。
1294年から295年にかけての反乱で、カーナーヴォン城はルウェリン・アプ・グリフィズの遠縁メドック・アプ・ルウェリン軍によって攻略されたが、1295年にイングランド軍が再度攻略した。城の守備は完璧に近くなった。1403年と1404年、オーウェン・グレンダワー軍により包囲されても持ちこたえた。イングランド内戦時代、1646年に王党派の要塞であった城を議会軍が取り囲んだ。
儀式と慣例
- イングランド王家の王太子を示す称号『プリンス・オブ・ウェールズ』は、ウェールズを平定したエドワード1世が1301年に息子エドワードにこの称号を与えたことに始まる。有名な伝説によると、イングランド支配を快く思わないウェールズの首領らを前に赤子のエドワード王子を見せ、『ウェールズで生まれ、英語を話さない王子である』とエドワード1世は言って一同を賛同させたという(同時にウェールズの首領らは悔しい思いをしたという)。しかしこの物語は出所が疑わしく、1301年当時エドワード王子は既に10代後半であったことが矛盾する。16世紀の文献にこの話の記述があるのみである。エドワード2世が、父王のウェールズ遠征中にカーナーヴォン城内で生まれたことは史実であり、全ての赤ん坊がそうであるように、新生児のエドワードは英語を話すことができなかったということは事実である(ちなみに、当時イングランド宮廷で話されていたのはアングロ=ノルマン語であり、英語ではない)。
- 1911年7月13日、カーナーヴォン城はプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典の舞台となった。この時のプリンス・オブ・ウェールズは、のちのエドワード8世である。それまでのプリンス・オブ・ウェールズは、叙位証書一枚で任じられるものに過ぎず、過去に式典が行われたことはなかった。エドワード王子は1910年6月に叙位証書を受け取っており、プリンス・オブ・ウェールズとしての地位になんら問題はなかったが、時の財務大臣を務めていたデビッド・ロイド・ジョージ(ウェールズ出身)がジョージ5世に式典開催を強く進言したことから、実現することとなった。叙位式典の前例がないまま、式典全体を指揮したのは紋章院総裁の第15代ノーフォーク公ヘンリー・フィッツアラン=ハワードである。式典でのエドワード王子の答辞は全てウェールズ語で行われ、それを聞く地元ウェールズ代表らやウェールズ人たちを感動させたという。1969年7月1日、チャールズ皇太子がカーナーヴォン城内で叙位式典を行った(式典を祝してスウォンジが都市の位に格上げされた)。現在のところ、カーナーヴォン城で叙位式典を行ったプリンス・オブ・ウェールズは以上の2人のみである。
現在
城内にはイギリス陸軍の連隊の一つロイヤル・ウェルチ・フュージリヤーズ(Royal Welch Fusiliers、プリンス・オブ・ウェールズ師団の一つ)の連隊博物館がある。また、UNESCO世界遺産の『グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁』として登録されている。
2007年、カーナーヴォン城の『鷲の塔』のサンドアートによる複製が、オランダの町ザンドフォールトの大通りに建てられた。
世界遺産基準
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。