コンテンツにスキップ

「野狐禅」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Blackhouse (会話 | 投稿記録)
関連項目
Resto1578 (会話 | 投稿記録)
tmp (可読性向上のためにナビゲーションテンプレートを下部貼り付けタイプに変更しました。), +tmp
1行目: 1行目:
{{Otheruses|仏教(禅宗)の野狐禅|フォークバンド|野狐禅 (フォークバンド)}}
{{Otheruses|仏教(禅宗)の野狐禅|フォークバンド|野狐禅 (フォークバンド)}}
{{buddhism}}
'''野狐禅'''(やこぜん)とは、[[禅宗]]において、禅に似て非なる'''邪禅'''のこと。「[[無門関]]」第2則の「[[百丈懐海|百丈]]野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な[[妖狐]]の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また'''生禅'''(なまぜん)ともいう。
'''野狐禅'''(やこぜん)とは、[[禅宗]]において、禅に似て非なる'''邪禅'''のこと。「[[無門関]]」第2則の「[[百丈懐海|百丈]]野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な[[妖狐]]の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また'''生禅'''(なまぜん)ともいう。


11行目: 10行目:
* [[妖狐]]
* [[妖狐]]
* [[百丈懐海]]
* [[百丈懐海]]

{{禅}}
{{Buddhism2}}


{{DEFAULTSORT:やこせん}}
{{DEFAULTSORT:やこせん}}

2015年10月31日 (土) 07:09時点における版

野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。

「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。

「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。

関連項目