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「トルコ・クルド紛争」の版間の差分

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トルコ政府に対するクルド人の要求は組織や時期により様々で[[分離主義|分離独立]]<ref name="Freedom Falcons">{{Cite web|last=Brandon |first=James |url=http://www.jamestown.org/single/?no_cache=1&tx_ttnews%5Btt_news%5D=936 |title=The Kurdistan Freedom Falcons Emerges as a Rival to the PKK |publisher=Jamestown.org |accessdate=15 April 2011}}</ref><ref name="security">{{Cite web|title=Partiya Karkeran Kurdistan [PKK]|url=http://www.globalsecurity.org/military/world/para/pkk.htm|publisher=GlobalSecurity.org|accessdate=23 July 2013}}</ref>、自治権の獲得<ref>[[PRESS TV|Press TV]] [http://www.presstv.ir/detail/142279.html 'PKK ready to swap arms for autonomy']{{リンク切れ|date=June 2015}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ekurd.net/mismas/articles/misc2011/1/turkey3107.htm |title=Kurdish PKK leader: We will not withdraw our autonomy demand |publisher=Ekurd.net |accessdate=15 April 2011}}</ref>、またはトルコ国内での政治的、文化的な権利の拡大<ref>{{Cite news|author=David O'Byrne |url=http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-10707935 |title=PKK 'would disarm for Kurdish rights in Turkey' |publisher=Bbc.co.uk |date=21 July 2010 |accessdate=15 April 2011}}</ref>などがあがる。
トルコ政府に対するクルド人の要求は組織や時期により様々で[[分離主義|分離独立]]<ref name="Freedom Falcons">{{Cite web|last=Brandon |first=James |url=http://www.jamestown.org/single/?no_cache=1&tx_ttnews%5Btt_news%5D=936 |title=The Kurdistan Freedom Falcons Emerges as a Rival to the PKK |publisher=Jamestown.org |accessdate=15 April 2011}}</ref><ref name="security">{{Cite web|title=Partiya Karkeran Kurdistan [PKK]|url=http://www.globalsecurity.org/military/world/para/pkk.htm|publisher=GlobalSecurity.org|accessdate=23 July 2013}}</ref>、自治権の獲得<ref>[[PRESS TV|Press TV]] [http://www.presstv.ir/detail/142279.html 'PKK ready to swap arms for autonomy']{{リンク切れ|date=June 2015}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ekurd.net/mismas/articles/misc2011/1/turkey3107.htm |title=Kurdish PKK leader: We will not withdraw our autonomy demand |publisher=Ekurd.net |accessdate=15 April 2011}}</ref>、またはトルコ国内での政治的、文化的な権利の拡大<ref>{{Cite news|author=David O'Byrne |url=http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-10707935 |title=PKK 'would disarm for Kurdish rights in Turkey' |publisher=Bbc.co.uk |date=21 July 2010 |accessdate=15 April 2011}}</ref>などがあがる。


== トルコ共和における一連反乱 ==
==オスマン帝から流れ==
===シェイフ・ウベイドゥッラーの反乱===
{{main|:en:Koçgiri rebellion|:en:Sheikh Said rebellion|:en:Ararat rebellion}}
[[オスマン帝国]]の時代には中央政府は[[トルコ人]]や[[クルド人]]の暮らすいくつかの地域に対し、半ば独立国家のように振舞うことを認めており、名目上オスマン帝国の支配する地域にいくつもの自治を行うクルド候国が存在する状態が保たれていた{{Sfn|中川|2001|p=188}}{{Sfn|White|2000|p=55}}。しかし1837年以降オスマン帝国はこれらの地域での主権を主張するようになり{{Sfn|中川|2001|p=191}}、少なくとも名目上はオスマン帝国支配下でのクルド人の自治は終わりを迎えた{{Sfn|White|2000|p=55}}。その後クルド人のナショナリズムが表面化するようになった時期に関しては議論があるが、多くの学者が[[シェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリー]]の反乱(1879-81)にその時期を求めている{{Sfn|White|2000|p=57}}{{Sfn|中川|2001|p=193}}。
<!--<ref>{{Cite news|url=http://www.hurriyetdailynews.com/how-many-kurdish-uprisings-till-today.aspx?pageID=438&n=how-many-kurdish-uprisings-till-today-2008-01-03|title=How many Kurdish uprisings till today?|work={{仮リンク|Hürriyet Daily News|en|Hürriyet Daily News|label=Hürriyet Daily News}}|accessdate=2008-07-30|date=2008-01-03|first=Mehmet Ali|last=Birand
}} Translated from Turkish by Nuran İnanç.</ref>。---><!--Mehmet Ali Bilandは大言壮語の傾向があり、退役兵が参照したに違いないと言っている参謀本部のアーカイブなど見なくともこうしたリストは出版されている書籍にも書かれています。--->{{要出典範囲|date=2015-11-02|帝国末期、数十年にわたるクルド部族の反乱はオスマン帝国の崩壊の一因となるが}}、{{要出典範囲|date=2015-11-02|今日続いているトルコ・クルド紛争のきっかけは1922年前後、現代の[[トルコ共和国]]の形成の時期に求められる}}。{{要出典範囲|date=2015-11-02|つまり{{仮リンク|クルド人ナショナリズム|en|Kurdish nationalism}}は[[アタテュルク]]によるトルコ共和国の樹立と平行して高まりを見せた}}<ref>[http://uca.edu/politicalscience/dadm-project/middle-eastnorth-africapersian-gulf-region/turkeykurds-1922-present/]</ref>。


ウベイドゥッラーは[[イラク]]の北部、[[モスル]]出身の宗教的指導者であり、[[露土戦争 (1877年-1878年)]]ではオスマン帝国軍のクルド人部隊の司令官を務めた{{Sfn|White|2000|p=58}}。この戦争の結果締結された[[ベルリン条約 (1878年)]]には、オスマン帝国に暮らす[[アルメニア人]]と[[ネストリウス派]]キリスト教徒に一定の権利を認めており、ウベイドゥッラーはこれをアルメニア国家、[[キリスト教]]国家建設の下準備であると考え危機感を強めた{{Sfn|White|2000|p=59}}。ウベイドゥッラーの主導により、クルド人部族の間で政治的、軍事的同盟が組織された{{Sfn|White|2000|p=59}}。この種の同盟としてははじめてのクルド人部族間での同盟となった{{Sfn|White|2000|p=59}}{{Sfn|中川|2001|p=194}}。露土戦争の結果浮上したアルメニア問題に関してはオスマン帝国もクルド人と同様に不満を抱えていたが、帝国は武力での解決は望まなかった{{Sfn|White|2000|p=59}}。結果1879年、クルド人による反乱が発生し、オスマン帝国軍により鎮圧される{{Sfn|White|2000|p=59}}。この時の反乱ではウベイドゥッラーは主導的役割を果たさなかったとして罪を問われることはなかった{{Sfn|White|2000|p=59}}。しかし翌年、ウベイドゥッラーは[[ガージャール朝]]ペルシアに対して攻撃を仕掛ける{{Sfn|中川|2001|p=193}}{{Sfn|White|2000|p=60}}。このペルシアへの侵入は失敗に終わったものの、ウベイドゥッラーは独立クルド国家の建設を目指したものと考えられており{{Sfn|中川|2001|p=192}}、クルド人ナショナリズムの最初の火を灯すことに成功している{{Sfn|White|2000|p=60}}。
1923年にローザンヌ条約が締結された2年後の1925年には{{仮リンク|シェイフ・サイード|en|Shaikh Said}}が{{要出典範囲|date=2015-11-02|クルド独立を目指し}}反乱を起こしたが鎮圧され、サイードと彼に従う36人が処刑された。1930年には[[アララト山]]周辺で、{{要検証範囲|date=2015-11-02|1937年には[[デルスィム]]で大規模な蜂起があった}}<ref>{{Harv|Olson|2000}}</ref><ref name=Olson1989>{{Harv|Olson|1989}}</ref>。{{要出典範囲|date=2015-11-02|デルスィムではクルド人のナショナリズムは[[トルクメン人]]に対する民族浄化へと向かうが、トルコ空軍は空爆によってこれに対抗した。}}トルコ初の女性パイロットであり[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]の養子である[[サビハ・ギョクチェン]]もこのデルスィムでの空爆に参加している<ref>{{Harv|Olson|2000|pp=89,90}}</ref>。


===ハミディイェの組織と影響===
{{要出典範囲|date=2015-11-02|デルスィムの反乱以降はしばらく落ち着きを見せるが、このトルコ建国の時期から続いたクルド人による一連の反乱とトルコ政府の対応は禍根として残った。}}1978年に[[クルディスタン労働者党]](PKK)が設立されると、トルコ・クルド紛争はトルコ政府とPKKによる武力紛争という構図で再燃し、今日に至っている。
オスマン帝国は1891年に[[ハミディイェ]]を組織する{{Sfn|White|2000|p=60}}。このハミディイェはクルド人、[[トルコ人]]、[[トルクメン人]]、[[ヨリュク人]]などで組織された非正規の騎兵部隊で、アナトリアの治安維持を担った。中でもクルド人の占める割合が圧倒的に高く{{Sfn|White|2000|p=60}}、[[スンニー派]]・[[クルマンジー]]語話者・クルド人の参加は、帝国内での彼ら影響力を強めた{{Sfn|White|2000|p=61}}。ハミディイェの主な任務はアルメニア人武装勢力との戦いであったが、民間人への攻撃も報告されており{{Sfn|White|2000|p=61}}、1894年には[[アルメニア人虐殺|ハミディイェ虐殺]]を起こしている。[[大佐]]クラスより上はトルコ人に占められていたが{{Sfn|White|2000|p=60}}、アルメニア人に対する略奪、殺戮にはクルド人も積極的に関わっていたとの報告がある{{Sfn|White|2000|p=61}}。アルメニア人に限らず、スンニー・クルド人の部族であってもハミディイェによる略奪の対象になることがあった{{Sfn|White|2000|p=61}}。ハミディイェの部隊は部族単位で構成されており、ハミディイェを組織していない部族はライバル関係にある部族のハミディイェから乱暴を受けるということがあったようである{{Sfn|White|2000|p=62}}。結果としてこのハミディイェのシステムはクルド人の部族同士の敵愾心、部族主義を煽ることとなり、クルド人のナショナリズムという視点から見るとマイナスの面があった{{Sfn|White|2000|p=62}}。この影響は後のシャイフ・サイードの反乱のときに表面化し、この時[[アレヴィー派]]・クルド人は反乱に参加せず、それどころかトルコ側につくものさえいた{{Sfn|White|2000|p=62}}。一方でこのシステムはスンニー・クルド人の団結をもたらし、若者にはリーダーシップを担う経験と軍事知識を与えた{{Sfn|White|2000|p=61}}。

===トルコ人ナショナリズムの高まりとクルド人に与えた影響===
崩壊寸前のオスマン帝国は、帝国を立て直すべく1820年代から中央集権化、近代化を推進した{{Sfn|中川|2001|p=191}}{{Sfn|White|2000|p=64}}。しかし結局[[タンジマート]]をはじめとしたこれらの改革は実を結ばなかった{{Sfn|White|2000|p=64}}。改革を強く推進していた官僚らはスルタンから支持を失うが、その後は[[青年トルコ人]]として活動を続けた{{Sfn|White|2000|p=65}}。1908年には[[青年トルコ人革命]]が起こり、彼らによる政府が立ち上がる{{Sfn|White|2000|p=65}}。このムーブメントにはクルド人も参加しており、政府の最初のメンバーには2人のクルド人も名を連ねていた{{Sfn|White|2000|p=65}}。

トルコのナショナリズムを掲げた青年トルコ人によるオスマン帝国の改革は、一歩バルカン半島に足を踏み入れると反革命派の抵抗に会うようになりすぐに立ち行かなくなった{{Sfn|White|2000|p=65}}。一方これらトルコ人のナショナリズム、バルカン半島のナショナリズムとの接触はクルド人に刺激を与え、青年トルコ人のムーブメントに並行する形でイスタンブルではクルド人のナショナリズムを掲げた組織がいくつか生まれている{{Sfn|White|2000|p=67}}{{Sfn|White|2000|p=65}}。青年トルコの活動に寄り添ったものの彼らからはあまりいい感触が得られなかったというのも、この時期にクルド人ナショナリズムが盛り上がりを見せた理由の一つに挙げられる{{Sfn|White|2000|p=66}}。あるいは青年トルコ人の政府はイギリスに対抗させるために敢えてクルド人のナショナリズムを煽ったという報告もある{{Sfn|White|2000|p=67}}。

===第一次世界大戦とトルコ革命===
1914年より[[第一次世界大戦]]が始まり、1918年10月30日に[[ムドロス休戦協定]]が結ばれる{{Sfn|White|2000|p=68}}。既に1918年から[[トルコ革命]]へとつながる祖国解放運動が始まっており、クルド人もナショナリズムを掲げた組織を作っている{{Sfn|White|2000|p=68}}{{Sfn|White|2000|p=69}}{{Sfn|中川|2001|p=194}}。この頃の組織には年配のナショナリスト、都市中産階級の若者、部族長といった3要素が見られ、この取り合わせは現代のクルド人ナショナリズムにも見られる{{Sfn|White|2000|p=69}}。青年トルコとともに世俗的な教育を受けたものも多く参加し{{Sfn|White|2000|p=69}}、クルマンジー語話者・クルド人が多かったが後にはアレヴィー派・クルド、[[ザザ語]]話者・クルド人([[ザザ人]])もひきつけた{{Sfn|White|2000|p=70}}{{Refnest|group="注"|クルマンジー・クルドとザザ・クルドの双方にスンニー派とアレヴィー派(シーア派の一派)がいる。}}。

1920年8月にはオスマン帝国は連合国との間で[[セーブル条約]]を締結する{{Sfn|White|2000|p=70}}。このセーブル条約ではクルド人の自治が認められていた{{Sfn|White|2000|p=70}}{{Sfn|中川|2001|p=197}}。あるいはクルドが望めば独立クルディスタンもありえたが{{Sfn|White|2000|p=70}}、部族対立や、都市のエリートと東部の指導者たちとの隔たりがから統一クルディスタンという考え方にはあまり前向きではなかったようである{{Sfn|White|2000|p=68}}。しかし1922年半ば頃までには[[ケマル・アタテュルク]]はアナトリアから占領軍を駆逐しており、1923年に[[ローザンヌ条約]]がケマル・アタテュルクの{{仮リンク|アンカラ政府|en|Government of the Grand National Assembly}}(現代のトルコ共和国)により締結された{{Sfn|White|2000|p=70}}。その結果セーブル条約は反故にされ{{Sfn|中川|2001|p=201}}、クルディスタンはトルコ、イラン、[[イラク]]、[[シリア]]の4カ国と{{Sfn|中川|2001|p=212}}、後の[[USSR]]の間で5分割されてしまう{{Sfn|White|2000|p=70}}。

===コチギリ反乱===
1920年、[[デルスィム]]地域のコチギリ部族がケマリスト(ケマル・アタテュルク主義派)に対して反乱を起こす。アタテュルクによるローザンヌ条約締結の前であり、この時期ケマリストは占領軍に対抗するためにクルドに協力を求めていた{{Sfn|White|2000|p=70}}。当時クルド人は自治派と独立派に割れており、自治派はケマリストに協力していた{{Sfn|中川|2001|p=195}}。反乱軍は何度かケマリスト軍を打ち破り、1920年11月に領主(agha)達により二度にわたり要求が出された{{Sfn|White|2000|p=71}}。一度目の要求では、クルディスタンの自治に対する態度を明確にすることやクルド人政治犯の釈放など、そして二度目にはクルディスタンの独立を要求している{{Sfn|White|2000|p=71}}。彼らの指すクルディスタンにはスンニー派・クルド、アレヴィー派・クルド、クルマンジー・クルド、ザザ・クルドが全て含まれていたが、他の地域からクルド人の支持は得られなかった{{Sfn|White|2000|p=71}}。スンニー・クルドはこれをアレヴィー派の反乱と見ていたようである{{Sfn|White|2000|p=71}}。また、領主(agha)達の中にはケマリズムを支持する者もいたとされている{{Sfn|White|2000|p=71}}。このコチギリ反乱は翌年にはケマリストにより鎮圧された{{Sfn|中川|2001|p=206}}{{Sfn|White|2000|p=71}}。そして1922年にはスルタン制が廃止され、ケマル・アタテュルクが[[トルコ共和国]]の初代大統領に就任する{{Sfn|White|2000|p=72}}。1924年10月に憲法が公布さると公共の場、学校や出版でのクルド語の使用が禁止された{{Sfn|中川|2001|p=206}}{{Sfn|White|2000|p=72}}。

===シェイフ・サイードの反乱===
1923年のローザンヌ条約の内容に失望したクルド人は{{Sfn|White|2000|p=73}}1924年から連続して反乱を引き起こす{{Sfn|中川|2001|p=206}}。中でもクルディスタンの独立を{{Sfn|中川|2001|p=207}}掲げたシェイフ・サイードの反乱(1925年2月)が最大のものとなった{{Sfn|White|2000|p=73}}。この反乱に関わっていた組織、アザディ(azadi)には軍に仕官している者やハミディイェの軍事学校の出身者が多く参加していた{{Sfn|White|2000|p=73}}。アザディの動機には純粋なナショナリズムがあったとされているが{{Sfn|White|2000|p=73}}、一方でアザディは[[ナクシュバンディー教団]]の[[シャイフ]]であるシェイフ・サイードを担ぎあげ、支持を集めるために宗教を利用し、シェイフ・サイードによる反乱の号令には[[ファトワー]]が用いられている{{Sfn|White|2000|p=74}}{{Sfn|中川|2001|p=207<!--カリフ制の復活という後進的な側面と民族主義的な側面の両方を併せ持っていた-->}}{{Sfn|Forsythe|2009|p=369<!--イスラム主義かつクルド主義-->}}。彼らはすべてのクルド部族に参加を求めたが、実際に参加した部族のほとんどはザザ語話者・クルドの部族に限られていた{{Sfn|White|2000|p=74}}。さらにはアレヴィー派部族の支持も得られなかった{{Sfn|White|2000|p=74}}。[[ジハード]]を用いたことで宗派の対立が一層際立ったという見方もある{{Sfn|White|2000|p=74}}。旗を振るシェイフ・サイードはスンニー・ザザ・クルド、軍事的な主導権を握るハミディイェはスンニー派・クルド{{Sfn|White|2000|p=75}}に占められていた。アレヴィー派にしてみれば彼らの目指す、カリフ政治を掲げる独立スンニー・クルディスタンよりも世俗的なケマリスト・トルコのほうが魅力的に思えたのかもしれない{{Sfn|Olsson|2005|p=189}}{{Sfn|White|2000|p=74}}。アレヴィー・クルドの中にはトルコ側について反乱軍と戦った部族もあった{{Sfn|White|2000|p=74}}。

===アララト反乱===
1927年にシリアでホイブン(Xoybun)という組織が作られた{{Sfn|White|2000|p=76}}{{Sfn|中川|2001|p=209}}。このホイブンがアララト反乱で大きな役割を果たす{{Sfn|White|2000|p=76}}{{Sfn|中川|2001|p=209}}。ホイブンはインテリのみならず、領主(agha)や[[シャイフ]]、[[ベグ]]など幅広く支持を集め、国際的なネットワークも持っていた{{Sfn|White|2000|p=77}}。またかつてクルド人が迫害したアルメニア人とも交渉を持ち、有る程度の協力を確約している{{Sfn|White|2000|p=77}}。この当時デルスィムと[[アララト山]]付近はまだトルコの支配を受けておらず、先の反乱に加わっていたものたちが集まった{{Sfn|White|2000|p=77}}{{Sfn|中川|2001|p=209}}。ホイブンは軍事的な知識をもった人材をアララトに送り込んでいる{{Sfn|White|2000|p=77}}{{Sfn|中川|2001|p=209<!--指揮をとったのはトルコ軍の将軍だった人物達だった-->}}。トルコは反乱軍のリーダーと何度か交渉を持っているが話はまとまらなかった{{Sfn|White|2000|p=78}}。1930年の6月にトルコ軍が攻撃を仕掛けた{{Sfn|White|2000|p=78}}{{Sfn|中川|2001|p=209}}。すぐにホイブンはクルド人部族に支援を求めている{{Sfn|White|2000|p=78}}。ホイブンはこのときにセーブル条約で保証されていた内容を引用し、クルディスタンの団結を呼びかけた{{Sfn|White|2000|p=78}}。クルド人の中でも数の多いクルマンジー・クルドが主体となった反乱であり、戦闘は広い地域にわたった{{Sfn|White|2000|p=78}}。8月、9月にはトルコ軍が攻勢にでて反乱は鎮圧された{{Sfn|White|2000|p=78}}。トルコのとった対応は厳しいもので、場合によってはクルド人の村は爆撃され火をつけられた{{Sfn|White|2000|p=78}}。全てのコミュニティから多くの犠牲が出たと伝えられている{{Sfn|White|2000|p=78}}。この反乱の鎮圧の後、時の首相はトルコ政府の見解を簡潔に述べている{{Sfn|White|2000|p=79}}。曰く、「この国ではトルコ国民だけが民族的権利を要求することができる。他の何者もその権利を持たない」{{Sfn|White|2000|p=79}}{{Sfn|中川|2001|p=209}}。このころからクルド人は「山岳トルコ人」と呼ばれ、存在自体を否定されるようになった{{Sfn|White|2000|p=79}}{{Sfn|中川|2001|p=210}}。

===デルスィムの抵抗===
シェイフ・サイードの反乱、アララトの反乱の後にもクルド人ナショナリズムを掲げた反乱は複数回存在した{{Sfn|White|2000|p=79}}{{Sfn|Ember|2005|p=408}}。中でも重要なものとして1937年から1938年にアレヴィー派の中心地であり{{Sfn|中川|2001|p=211}}、ザザ語話者・クルド人の暮らす{{Sfn|中川|2001|p=211}}デルスィムでの蜂起が挙げられる{{Sfn|White|2000|p=79}}。デルスィムは険しい山に囲まれていて、オスマン帝国の時代より長らく自治を維持してきた{{Sfn|White|2000|p=79}}{{Sfn|中川|2001|p=211}}。ケマル・アタテュルクはこの問題を解決したいと考えていた{{Sfn|White|2000|p=79}}。1926年には内相がデルスィムに関して報告を上げている{{Sfn|White|2000|p=79}}。曰く、「デルスィムはトルコ共和国の腫れ物であり、取り除かなければならない」{{Sfn|White|2000|p=79}}。1936年にはアタテュルクは演説のなかで、内政上の一番の問題はデルスィムであると語っている{{Sfn|White|2000|p=79}}。同年にトルコ政府軍はデルスィムを包囲、武装解除を要求する{{Sfn|中川|2001|p=212}}。そしてデルスィムは1937年に武器を取り抵抗運動を開始、かれらはこれを抵抗反乱と位置づけた{{Sfn|White|2000|p=80}}。1938年5月4日にトルコは攻撃開始の決定を下す{{Sfn|White|2000|p=82}}。抵抗する者に対する処遇も支持されており、家族ごと退去させよ、とも殺せとも取れる遠まわしな表現であった{{Sfn|White|2000|p=82}}。一般的には反乱は1938年に終わったとされている{{Sfn|White|2000|p=82}}。トルコ軍の記録では17日間で7954名のデルスィム人が殺された{{Sfn|White|2000|p=82}}。地上部隊と連携して航空機による爆撃や機銃掃射が行われ、女性や子供を含む無抵抗の村人達にも犠牲者をだしている{{Sfn|White|2000|p=82}}。反乱鎮圧後もトルコ政府により懲罰措置として40,000人が強制移住または殺害{{Sfn|中川|2001|p=212<!--鎮圧後の無差別な虐殺が多く-->}}された{{Sfn|White|2000|p=83}}。このデルスィムのケースにおいてトルコのとった政策は虐殺であったと語られている{{Sfn|Ember|2005|p=408}}{{Sfn|中川|2001|p=212}}。2011年11月23日、エルドアン首相は「デルスィムの悲劇」に対しトルコ政府として謝罪した。

デルスィムの陥落以降、1980年前後までトルコでは本格的なクルド人民族運動は見られない{{Sfn|中川|2001|p=213}}{{Sfn|White|2000|p=83}}。クルド人ナショナリズムがなりを潜めた理由にはトルコ政府による徹底したクルド人の存在否定があるとも言われる{{Sfn|中川|2001|p=213}}。トルコ政府の同化政策の下ではクルド人は山岳トルコ人というトルコ人として扱われた{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}。そしてクルド語の使用は禁止され、地名や、子にクルドの名前を与えることも禁止された{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}。クルド語での教育も禁止され、歴史に登場するクルド人の学者や[[ウラマー]]までもがトルコ人とされ、文献からクルド、クルディスタンという言葉は消された{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}。一方で政府の政策を受けいけれたクルド人は優遇された{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}。

===左派組織の発達===
1946年には[[複数政党制]]が導入され、1961年には、実際には左翼組織とクルド主義組織には厳しかったが、憲法の上では結党の自由が認められた{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}{{Sfn|Olsson|2005|p=189}}。すぐに{{仮リンク|トルコ労働者党|en|Workers Party of Turkey}}が結党され、1960年代の終わり頃にはクルド人とアレヴィー派がこの政党の支持母体となった{{Sfn|Olsson|2005|p=189}}。多くのものは土地の所有権に関する不満から、または部族長(agha)の影響力からトルコ労働者党(TWP)を支持していた{{Sfn|Olsson|2005|p=189}}。

一口にクルド人といっても、アレヴィー派・ザザ語話者・クルド人とクルマンジー語話者・クルド人とトルコ語話者・クルド人はそれぞれ明確に違う感覚を持っている{{Sfn|White|2000|p=81}}。アレヴィー・クルドの政治的スタンスは、スンニー・クルドのそれよりもむしろ地元のアレヴィー・トルコ人に寄っていた{{Sfn|Ember|2005|p=406}}。また多くのスンニー・クルドも、アレヴィー・クルドよりはスンニー・トルコを身近に感じていた{{Sfn|Olsson|2005|p=189}}。アレヴィー・クルドの持つマルキスト組織に対する興味は、ブルジョワの主導するクルド人ナショナリズムに対する無関心であり、ともすれば反発であった{{Sfn|Ember|2005|p=405}}。しかしこのアレヴィー・クルドの複雑な思いはクルド人としての共感が育ってゆく中で自制されるようになり、クルド人の問題がスンニー・クルドとアレヴィー・クルドで共有されるようになった{{Sfn|Ember|2005|p=405}}。こうしてクルド人の差別問題はTWPにより議題に挙げられるようになるが、1971年にこの政党は分離主義組織として違法とされた{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}{{Sfn|Olsson|2005|p=189}}。

1970年代にはマルクス主義組織、[[クルディスタン労働者党]](PKK)が作られ、トルコ政府とクルド人地主に対する武力闘争と社会主義クルディスタンの建国が掲げられた{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}。彼らはシリアで軍事訓練を行い、1984年からトルコ南東部に展開するトルコ軍の駐屯地に対する攻撃を開始した{{Sfn|Forsythe|2009|p=369}}{{Sfn|Olsson|2005|p=190}}。

1985年、政府はPKKに対抗するためにクルド人を武装させた{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。1987年には非常事態が宣言され、東部のいくつかの県には独裁的な執行力が与えられた{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}{{Sfn|Ember|2005|p=408<!--90年に権限が強化されている-->}}。地域住民は敵を援助したと曰くつけられてはPKKと軍の双方から抑圧を受けるようになった{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。1990年代になると治安維持軍はPKKに対抗するためにスンニー派イスラム主義クルド人組織、[[ヒズボラ]]をカウンターゲリラとして投入した{{Sfn|Forsythe|2009|p=370<!--ヒズボラがスンニーと書いてあったが気になる-->}}。ヒズボラとPKKの双方による処刑、放火、強襲は住民を危険に陥れた{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。政府はPKKへの間接的支援を絶つために住人の立ち退きを強制したり、または村を焼くなどといった措置をとった{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}{{Sfn|Ember|2005|p=408}}。1999年までに2500の村が焼かれ{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}、トルコ発表では36万人が{{Sfn|Forsythe|2009|p=370<!--30万となってる-->}}{{Sfn|Ember|2005|p=408<!--36,4742となっている-->}}移住を余儀なくされた。一方でいくつかの人権団体は1993年以降10年間で移住を強要された人々の数を250万人から300万人と見積もっている{{Sfn|Ember|2005|p=408}}。1999年の[[アブドゥッラー・オジャラン]](当時のPKKのリーダー)の逮捕までに4万人が犠牲になったとされている{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。

PKKはシリア政府と国外のクルド人指導者の支援を享受したが、クルド人の統一的な意見を代弁する組織ではなかった{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。例えばイラクの[[クルディスタン地域|クルド人自治区]]では、[[クルディスタン愛国同盟]]と議長の[[ジャラル・タラバニ]]はPKkを支持したが、[[クルディスタン民主党]]の[[ムスタファ・バルザーニー]]はトルコと協力しPKKに対抗した{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。

===海外のクルド人活動家===
1970年から1980年代にかけて、抑圧により多くの反体制活動家がシリアや[[ヨーロッパ]]へと渡った{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。彼らは[[クルディスタン労働者党]](PKK)に参加するものもいれば、ヨーロッパの支援を求める活動を行うものもいた{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。そして彼らのヨーロッパでの活動はトルコの望む[[EU]]への加盟の妨げとなった{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。トルコ政府はEU加盟をにらんで態度を軟化させた{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。2002年にはラジオやテレビなどで小数民族の言語を使用することが合法化された{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。一方で公的教育機関でのクルド語による教育は禁止されたままとなった{{Sfn|Forsythe|2009|p=370}}。


== トルコ・PKK紛争 ==
== トルコ・PKK紛争 ==
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イラク北部の[[クルディスタン地域|クルド人自治区]](すなわちトルコのすぐ隣)にはPKKの部隊が存在しており、彼らは隣国イラクからトルコへ攻撃を仕掛けている。そのためトルコ軍はしばしば地上部隊をイラク領内に越境させ空爆を行っており、クルド人自治区やイラクから中止要請を受け<ref>http://www.basnews.com/en/news/2015/07/25/barzani-calls-on-turkey-to-stop-attacks-on-pkk/</ref>、アメリカや国連から自制を促されている<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/7260478.stm |title=Iraq warns Turkey over incursion |publisher=BBC News |date=23 February 2008 |accessdate=15 April 2011}}</ref>。この紛争はトルコの観光産業に大きく影を落としており<ref>[http://www.fas.org/irp/world/para/docs/studies4.htm PKK: Targets and activities], {{仮リンク|Ministry of Foreign Affairs (Turkey)|en|Ministry of Foreign Affairs (Turkey)|label=Ministry of Foreign Affairs (Turkey)}}, {{仮リンク|Federation of American Scientists|en|Federation of American Scientists|label=Federation of American Scientists}}.</ref>、また軍事費など経済的損失は3000から4500億ドルに上ると試算されている<ref name="Turkey's safety">http://www.21yuzyildergisi.com/assets/uploads/files/87.pdf</ref><ref name="crisis">[http://www.crisisgroup.org/~/media/Files/europe/turkey-cyprus/turkey/219-turkey-the-pkk-and-a-kurdish-settlement Turkey: The PKK and a Kurdish settlement], 11 September 2012</ref>。
イラク北部の[[クルディスタン地域|クルド人自治区]](すなわちトルコのすぐ隣)にはPKKの部隊が存在しており、彼らは隣国イラクからトルコへ攻撃を仕掛けている。そのためトルコ軍はしばしば地上部隊をイラク領内に越境させ空爆を行っており、クルド人自治区やイラクから中止要請を受け<ref>http://www.basnews.com/en/news/2015/07/25/barzani-calls-on-turkey-to-stop-attacks-on-pkk/</ref>、アメリカや国連から自制を促されている<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/7260478.stm |title=Iraq warns Turkey over incursion |publisher=BBC News |date=23 February 2008 |accessdate=15 April 2011}}</ref>。この紛争はトルコの観光産業に大きく影を落としており<ref>[http://www.fas.org/irp/world/para/docs/studies4.htm PKK: Targets and activities], {{仮リンク|Ministry of Foreign Affairs (Turkey)|en|Ministry of Foreign Affairs (Turkey)|label=Ministry of Foreign Affairs (Turkey)}}, {{仮リンク|Federation of American Scientists|en|Federation of American Scientists|label=Federation of American Scientists}}.</ref>、また軍事費など経済的損失は3000から4500億ドルに上ると試算されている<ref name="Turkey's safety">http://www.21yuzyildergisi.com/assets/uploads/files/87.pdf</ref><ref name="crisis">[http://www.crisisgroup.org/~/media/Files/europe/turkey-cyprus/turkey/219-turkey-the-pkk-and-a-kurdish-settlement Turkey: The PKK and a Kurdish settlement], 11 September 2012</ref>。


1980年代から1990年代にかけて、トルコとクルディスタン労働者党(PKK)との間で繰り広げられた武力紛争では37,000名の死者を出している。{{要出典範囲|date=2015-11-02|紛争の激化を受けてトルコ政府はクルド人の権利、自由を制限している。クルド語のメディアやクルド語での教育は禁止され}}、クルド人の政治家や活動家達は政府からの圧力に直面している<ref>{{Cite news|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/02/23/AR2007022301909.html|title=Turks Charge Kurd With Inciting Hatred|work=Washington Post|date=2007-02-23|accessdate=2008-08-01|author=Associated Press|pages=A12}}</ref>
1980年代から1990年代にかけて、トルコとクルディスタン労働者党(PKK)との間で繰り広げられた武力紛争では37,000名の死者を出している。


==日本への影響==
==日本への影響==
[[2015年]][[10月25日]]、[[在外投票]]が行われた在日本トルコ[[大使館]]でトルコ人とクルド人の間で騒乱が起き、[[警視庁]][[機動隊]]が出動して鎮定したが[[警察官]]を含む12名の負傷者を出す事件となった<ref>{{Cite web|title=トルコ大使館前で乱闘 警察官含む12人けが|url=http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00306618.html|date=2015-10-25|publisher=[[FNN]]|language=日本語|accessdate=2015-11-04}}</ref>。[[金高雅仁]][[警察庁長官]]は「機動隊を緊急に配備し事態の沈静化に努めたが、ほかの国の紛争や対立を背景とした[[外国人]]どうしの大規模な集団暴行事件は、これまでに見られなかった」と語り大使館等との連携を強めることを明らかにした<ref>{{Cite web|title=警察庁長官「大使館連携強化」 |url=http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151029/5252391.html|publisher=[[NHK]]|date=2015-10-29|language=日本語|accessdate=2015-11-04}}</ref>。
[[2015年]][[10月25日]]、[[在外投票]]が行われた在日本トルコ[[大使館]]でトルコ人とクルド人の間で騒乱が起き、[[警視庁]][[機動隊]]が出動して鎮定したが[[警察官]]を含む12名の負傷者を出す事件となった<ref>{{Cite web|title=トルコ大使館前で乱闘 警察官含む12人けが|url=http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00306618.html|date=2015-10-25|publisher=[[FNN]]|language=日本語|accessdate=2015-11-04}}</ref>。[[金高雅仁]][[警察庁長官]]は「機動隊を緊急に配備し事態の沈静化に努めたが、ほかの国の紛争や対立を背景とした[[外国人]]どうしの大規模な集団暴行事件は、これまでに見られなかった」と語り大使館等との連携を強めることを明らかにした<ref>{{Cite web|title=警察庁長官「大使館連携強化」 |url=http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151029/5252391.html|publisher=[[NHK]]|date=2015-10-29|language=日本語|accessdate=2015-11-04}}</ref>。


==注釈==
{{Reflist|2|group="注"}}
==脚注==
==脚注==
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}} (also London: Zed Books, 1992)
}} (also London: Zed Books, 1992)
* {{Cite book|last = Tucker|first = Spencer C|authorlink=|title = Encyclopedia of Middle East Wars, The: The United States in the Persian Gulf, Afghanistan, and Iraq Conflicts: The United States in the Persian Gulf, Afghanistan, and Iraq Conflicts |publisher = ABC-CLIO |year = 2010|isbn= 9781851099481
* {{Cite book|last = Tucker|first = Spencer C|authorlink=|title = Encyclopedia of Middle East Wars, The: The United States in the Persian Gulf, Afghanistan, and Iraq Conflicts: The United States in the Persian Gulf, Afghanistan, and Iraq Conflicts |publisher = ABC-CLIO |year = 2010|isbn= 9781851099481
}}

* {{Cite book
| last = White
| first = Paul J
| title = Primitive Rebels Or Revolutionary Modernizers?: The Kurdish National Movement in Turkey
| publisher = Zed Books
| year = 2000
| isbn= 9781856498227
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* {{Cite book
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| title = Alevi Identity: Cultural, Religious and Social Perspectives
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| year = 2005
| isbn= 9781135797256
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| first = 喜与志
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| title = クルド人とクルディスタン: 拒絶される民族クルド学序説
| publisher = 図書出版 南方新社
| year = 2001
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| publisher = Oxford University Press
| year = 2009
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}}
}}



2015年11月16日 (月) 22:23時点における版

CIAの発表したクルド人居住地域の地図

トルコ・クルド紛争(トルコ・クルドふんそう)とは主にトルコ国内において見られるトルコ政府とクルド人の武力を伴う紛争である。この紛争はトルコ独立戦争後、すなわちオスマン帝国から現代のトルコへの過渡期に始まり今日まで続いている。根底にはトルコ人に対するマイノリティであるクルド人のナショナリズムがあり、場合によってはこれはクルド人によるトルコに対するテロであると表現され[1][2][3]、また時にはトルコの内戦であるとされる[4][5][6][7][8]

背景と要求

第一次大戦後の1920年8月、オスマン帝国は連合国との間にセーヴル条約を締結した[9]。この条約ではトルコ領内でのクルド人の自治権とアルメニアの独立が謳われていた[9]。しかしこの当時すでにオスマン帝国は内戦状態にあり、オスマン帝国のイスタンブール政府に対立する形で1920年の4月に発足したムスタファ・ケマルアンカラ政府(現代のトルコ共和国)はセーヴル条約を認めず、1923年にヨーロッパ諸国とローザンヌ条約を締結し[9]、オスマン帝国に代わる主権国家としてのアンカラ政府を認めさせた。これによりトルコ領内のクルド人地域はトルコに内包された。

1923年にトルコ共和国の初代大統領に就任したムスタファ・ケマルは国の不可分の統一性を保つためには、トルコ国民であるという一元的な政治的アイデンティティの共有が不可欠であると考えており、それぞれの民族の持つ文化的なバックグラウンドを個人のアイデンティティの領域へと押しやった。例えばアタテュルクによる改革ではイスラム教を政治から分離し、トルコ語の表記にはラテン文字の使用が義務付けられた。また、新聞などのメディアでのクルド語などの使用が制限された。1960年代に始まった経済的変化は、同化した少数派のクルド人とクルドのアイデンティティを保持した多数派との乖離を助長した[10]

トルコ政府に対するクルド人の要求は組織や時期により様々で分離独立[11][1]、自治権の獲得[12][13]、またはトルコ国内での政治的、文化的な権利の拡大[14]などがあがる。

オスマン帝国末期からの流れ

シェイフ・ウベイドゥッラーの反乱

オスマン帝国の時代には中央政府はトルコ人クルド人の暮らすいくつかの地域に対し、半ば独立国家のように振舞うことを認めており、名目上オスマン帝国の支配する地域にいくつもの自治を行うクルド候国が存在する状態が保たれていた[15][16]。しかし1837年以降オスマン帝国はこれらの地域での主権を主張するようになり[17]、少なくとも名目上はオスマン帝国支配下でのクルド人の自治は終わりを迎えた[16]。その後クルド人のナショナリズムが表面化するようになった時期に関しては議論があるが、多くの学者がシェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリーの反乱(1879-81)にその時期を求めている[18][19]

ウベイドゥッラーはイラクの北部、モスル出身の宗教的指導者であり、露土戦争 (1877年-1878年)ではオスマン帝国軍のクルド人部隊の司令官を務めた[20]。この戦争の結果締結されたベルリン条約 (1878年)には、オスマン帝国に暮らすアルメニア人ネストリウス派キリスト教徒に一定の権利を認めており、ウベイドゥッラーはこれをアルメニア国家、キリスト教国家建設の下準備であると考え危機感を強めた[21]。ウベイドゥッラーの主導により、クルド人部族の間で政治的、軍事的同盟が組織された[21]。この種の同盟としてははじめてのクルド人部族間での同盟となった[21][22]。露土戦争の結果浮上したアルメニア問題に関してはオスマン帝国もクルド人と同様に不満を抱えていたが、帝国は武力での解決は望まなかった[21]。結果1879年、クルド人による反乱が発生し、オスマン帝国軍により鎮圧される[21]。この時の反乱ではウベイドゥッラーは主導的役割を果たさなかったとして罪を問われることはなかった[21]。しかし翌年、ウベイドゥッラーはガージャール朝ペルシアに対して攻撃を仕掛ける[19][23]。このペルシアへの侵入は失敗に終わったものの、ウベイドゥッラーは独立クルド国家の建設を目指したものと考えられており[24]、クルド人ナショナリズムの最初の火を灯すことに成功している[23]

ハミディイェの組織と影響

オスマン帝国は1891年にハミディイェを組織する[23]。このハミディイェはクルド人、トルコ人トルクメン人ヨリュク人などで組織された非正規の騎兵部隊で、アナトリアの治安維持を担った。中でもクルド人の占める割合が圧倒的に高く[23]スンニー派クルマンジー語話者・クルド人の参加は、帝国内での彼ら影響力を強めた[25]。ハミディイェの主な任務はアルメニア人武装勢力との戦いであったが、民間人への攻撃も報告されており[25]、1894年にはハミディイェ虐殺を起こしている。大佐クラスより上はトルコ人に占められていたが[23]、アルメニア人に対する略奪、殺戮にはクルド人も積極的に関わっていたとの報告がある[25]。アルメニア人に限らず、スンニー・クルド人の部族であってもハミディイェによる略奪の対象になることがあった[25]。ハミディイェの部隊は部族単位で構成されており、ハミディイェを組織していない部族はライバル関係にある部族のハミディイェから乱暴を受けるということがあったようである[26]。結果としてこのハミディイェのシステムはクルド人の部族同士の敵愾心、部族主義を煽ることとなり、クルド人のナショナリズムという視点から見るとマイナスの面があった[26]。この影響は後のシャイフ・サイードの反乱のときに表面化し、この時アレヴィー派・クルド人は反乱に参加せず、それどころかトルコ側につくものさえいた[26]。一方でこのシステムはスンニー・クルド人の団結をもたらし、若者にはリーダーシップを担う経験と軍事知識を与えた[25]

トルコ人ナショナリズムの高まりとクルド人に与えた影響

崩壊寸前のオスマン帝国は、帝国を立て直すべく1820年代から中央集権化、近代化を推進した[17][27]。しかし結局タンジマートをはじめとしたこれらの改革は実を結ばなかった[27]。改革を強く推進していた官僚らはスルタンから支持を失うが、その後は青年トルコ人として活動を続けた[28]。1908年には青年トルコ人革命が起こり、彼らによる政府が立ち上がる[28]。このムーブメントにはクルド人も参加しており、政府の最初のメンバーには2人のクルド人も名を連ねていた[28]

トルコのナショナリズムを掲げた青年トルコ人によるオスマン帝国の改革は、一歩バルカン半島に足を踏み入れると反革命派の抵抗に会うようになりすぐに立ち行かなくなった[28]。一方これらトルコ人のナショナリズム、バルカン半島のナショナリズムとの接触はクルド人に刺激を与え、青年トルコ人のムーブメントに並行する形でイスタンブルではクルド人のナショナリズムを掲げた組織がいくつか生まれている[29][28]。青年トルコの活動に寄り添ったものの彼らからはあまりいい感触が得られなかったというのも、この時期にクルド人ナショナリズムが盛り上がりを見せた理由の一つに挙げられる[30]。あるいは青年トルコ人の政府はイギリスに対抗させるために敢えてクルド人のナショナリズムを煽ったという報告もある[29]

第一次世界大戦とトルコ革命

1914年より第一次世界大戦が始まり、1918年10月30日にムドロス休戦協定が結ばれる[31]。既に1918年からトルコ革命へとつながる祖国解放運動が始まっており、クルド人もナショナリズムを掲げた組織を作っている[31][32][22]。この頃の組織には年配のナショナリスト、都市中産階級の若者、部族長といった3要素が見られ、この取り合わせは現代のクルド人ナショナリズムにも見られる[32]。青年トルコとともに世俗的な教育を受けたものも多く参加し[32]、クルマンジー語話者・クルド人が多かったが後にはアレヴィー派・クルド、ザザ語話者・クルド人(ザザ人)もひきつけた[33][注 1]

1920年8月にはオスマン帝国は連合国との間でセーブル条約を締結する[33]。このセーブル条約ではクルド人の自治が認められていた[33][34]。あるいはクルドが望めば独立クルディスタンもありえたが[33]、部族対立や、都市のエリートと東部の指導者たちとの隔たりがから統一クルディスタンという考え方にはあまり前向きではなかったようである[31]。しかし1922年半ば頃までにはケマル・アタテュルクはアナトリアから占領軍を駆逐しており、1923年にローザンヌ条約がケマル・アタテュルクのアンカラ政府(現代のトルコ共和国)により締結された[33]。その結果セーブル条約は反故にされ[35]、クルディスタンはトルコ、イラン、イラクシリアの4カ国と[36]、後のUSSRの間で5分割されてしまう[33]

コチギリ反乱

1920年、デルスィム地域のコチギリ部族がケマリスト(ケマル・アタテュルク主義派)に対して反乱を起こす。アタテュルクによるローザンヌ条約締結の前であり、この時期ケマリストは占領軍に対抗するためにクルドに協力を求めていた[33]。当時クルド人は自治派と独立派に割れており、自治派はケマリストに協力していた[37]。反乱軍は何度かケマリスト軍を打ち破り、1920年11月に領主(agha)達により二度にわたり要求が出された[38]。一度目の要求では、クルディスタンの自治に対する態度を明確にすることやクルド人政治犯の釈放など、そして二度目にはクルディスタンの独立を要求している[38]。彼らの指すクルディスタンにはスンニー派・クルド、アレヴィー派・クルド、クルマンジー・クルド、ザザ・クルドが全て含まれていたが、他の地域からクルド人の支持は得られなかった[38]。スンニー・クルドはこれをアレヴィー派の反乱と見ていたようである[38]。また、領主(agha)達の中にはケマリズムを支持する者もいたとされている[38]。このコチギリ反乱は翌年にはケマリストにより鎮圧された[39][38]。そして1922年にはスルタン制が廃止され、ケマル・アタテュルクがトルコ共和国の初代大統領に就任する[40]。1924年10月に憲法が公布さると公共の場、学校や出版でのクルド語の使用が禁止された[39][40]

シェイフ・サイードの反乱

1923年のローザンヌ条約の内容に失望したクルド人は[41]1924年から連続して反乱を引き起こす[39]。中でもクルディスタンの独立を[42]掲げたシェイフ・サイードの反乱(1925年2月)が最大のものとなった[41]。この反乱に関わっていた組織、アザディ(azadi)には軍に仕官している者やハミディイェの軍事学校の出身者が多く参加していた[41]。アザディの動機には純粋なナショナリズムがあったとされているが[41]、一方でアザディはナクシュバンディー教団シャイフであるシェイフ・サイードを担ぎあげ、支持を集めるために宗教を利用し、シェイフ・サイードによる反乱の号令にはファトワーが用いられている[43][42][44]。彼らはすべてのクルド部族に参加を求めたが、実際に参加した部族のほとんどはザザ語話者・クルドの部族に限られていた[43]。さらにはアレヴィー派部族の支持も得られなかった[43]ジハードを用いたことで宗派の対立が一層際立ったという見方もある[43]。旗を振るシェイフ・サイードはスンニー・ザザ・クルド、軍事的な主導権を握るハミディイェはスンニー派・クルド[45]に占められていた。アレヴィー派にしてみれば彼らの目指す、カリフ政治を掲げる独立スンニー・クルディスタンよりも世俗的なケマリスト・トルコのほうが魅力的に思えたのかもしれない[46][43]。アレヴィー・クルドの中にはトルコ側について反乱軍と戦った部族もあった[43]

アララト反乱

1927年にシリアでホイブン(Xoybun)という組織が作られた[47][48]。このホイブンがアララト反乱で大きな役割を果たす[47][48]。ホイブンはインテリのみならず、領主(agha)やシャイフベグなど幅広く支持を集め、国際的なネットワークも持っていた[49]。またかつてクルド人が迫害したアルメニア人とも交渉を持ち、有る程度の協力を確約している[49]。この当時デルスィムとアララト山付近はまだトルコの支配を受けておらず、先の反乱に加わっていたものたちが集まった[49][48]。ホイブンは軍事的な知識をもった人材をアララトに送り込んでいる[49][48]。トルコは反乱軍のリーダーと何度か交渉を持っているが話はまとまらなかった[50]。1930年の6月にトルコ軍が攻撃を仕掛けた[50][48]。すぐにホイブンはクルド人部族に支援を求めている[50]。ホイブンはこのときにセーブル条約で保証されていた内容を引用し、クルディスタンの団結を呼びかけた[50]。クルド人の中でも数の多いクルマンジー・クルドが主体となった反乱であり、戦闘は広い地域にわたった[50]。8月、9月にはトルコ軍が攻勢にでて反乱は鎮圧された[50]。トルコのとった対応は厳しいもので、場合によってはクルド人の村は爆撃され火をつけられた[50]。全てのコミュニティから多くの犠牲が出たと伝えられている[50]。この反乱の鎮圧の後、時の首相はトルコ政府の見解を簡潔に述べている[51]。曰く、「この国ではトルコ国民だけが民族的権利を要求することができる。他の何者もその権利を持たない」[51][48]。このころからクルド人は「山岳トルコ人」と呼ばれ、存在自体を否定されるようになった[51][52]

デルスィムの抵抗

シェイフ・サイードの反乱、アララトの反乱の後にもクルド人ナショナリズムを掲げた反乱は複数回存在した[51][53]。中でも重要なものとして1937年から1938年にアレヴィー派の中心地であり[54]、ザザ語話者・クルド人の暮らす[54]デルスィムでの蜂起が挙げられる[51]。デルスィムは険しい山に囲まれていて、オスマン帝国の時代より長らく自治を維持してきた[51][54]。ケマル・アタテュルクはこの問題を解決したいと考えていた[51]。1926年には内相がデルスィムに関して報告を上げている[51]。曰く、「デルスィムはトルコ共和国の腫れ物であり、取り除かなければならない」[51]。1936年にはアタテュルクは演説のなかで、内政上の一番の問題はデルスィムであると語っている[51]。同年にトルコ政府軍はデルスィムを包囲、武装解除を要求する[36]。そしてデルスィムは1937年に武器を取り抵抗運動を開始、かれらはこれを抵抗反乱と位置づけた[55]。1938年5月4日にトルコは攻撃開始の決定を下す[56]。抵抗する者に対する処遇も支持されており、家族ごと退去させよ、とも殺せとも取れる遠まわしな表現であった[56]。一般的には反乱は1938年に終わったとされている[56]。トルコ軍の記録では17日間で7954名のデルスィム人が殺された[56]。地上部隊と連携して航空機による爆撃や機銃掃射が行われ、女性や子供を含む無抵抗の村人達にも犠牲者をだしている[56]。反乱鎮圧後もトルコ政府により懲罰措置として40,000人が強制移住または殺害[36]された[57]。このデルスィムのケースにおいてトルコのとった政策は虐殺であったと語られている[53][36]。2011年11月23日、エルドアン首相は「デルスィムの悲劇」に対しトルコ政府として謝罪した。

デルスィムの陥落以降、1980年前後までトルコでは本格的なクルド人民族運動は見られない[58][57]。クルド人ナショナリズムがなりを潜めた理由にはトルコ政府による徹底したクルド人の存在否定があるとも言われる[58]。トルコ政府の同化政策の下ではクルド人は山岳トルコ人というトルコ人として扱われた[44]。そしてクルド語の使用は禁止され、地名や、子にクルドの名前を与えることも禁止された[44]。クルド語での教育も禁止され、歴史に登場するクルド人の学者やウラマーまでもがトルコ人とされ、文献からクルド、クルディスタンという言葉は消された[44]。一方で政府の政策を受けいけれたクルド人は優遇された[44]

左派組織の発達

1946年には複数政党制が導入され、1961年には、実際には左翼組織とクルド主義組織には厳しかったが、憲法の上では結党の自由が認められた[44][46]。すぐにトルコ労働者党英語版が結党され、1960年代の終わり頃にはクルド人とアレヴィー派がこの政党の支持母体となった[46]。多くのものは土地の所有権に関する不満から、または部族長(agha)の影響力からトルコ労働者党(TWP)を支持していた[46]

一口にクルド人といっても、アレヴィー派・ザザ語話者・クルド人とクルマンジー語話者・クルド人とトルコ語話者・クルド人はそれぞれ明確に違う感覚を持っている[59]。アレヴィー・クルドの政治的スタンスは、スンニー・クルドのそれよりもむしろ地元のアレヴィー・トルコ人に寄っていた[60]。また多くのスンニー・クルドも、アレヴィー・クルドよりはスンニー・トルコを身近に感じていた[46]。アレヴィー・クルドの持つマルキスト組織に対する興味は、ブルジョワの主導するクルド人ナショナリズムに対する無関心であり、ともすれば反発であった[61]。しかしこのアレヴィー・クルドの複雑な思いはクルド人としての共感が育ってゆく中で自制されるようになり、クルド人の問題がスンニー・クルドとアレヴィー・クルドで共有されるようになった[61]。こうしてクルド人の差別問題はTWPにより議題に挙げられるようになるが、1971年にこの政党は分離主義組織として違法とされた[44][46]

1970年代にはマルクス主義組織、クルディスタン労働者党(PKK)が作られ、トルコ政府とクルド人地主に対する武力闘争と社会主義クルディスタンの建国が掲げられた[44]。彼らはシリアで軍事訓練を行い、1984年からトルコ南東部に展開するトルコ軍の駐屯地に対する攻撃を開始した[44][62]

1985年、政府はPKKに対抗するためにクルド人を武装させた[63]。1987年には非常事態が宣言され、東部のいくつかの県には独裁的な執行力が与えられた[63][53]。地域住民は敵を援助したと曰くつけられてはPKKと軍の双方から抑圧を受けるようになった[63]。1990年代になると治安維持軍はPKKに対抗するためにスンニー派イスラム主義クルド人組織、ヒズボラをカウンターゲリラとして投入した[63]。ヒズボラとPKKの双方による処刑、放火、強襲は住民を危険に陥れた[63]。政府はPKKへの間接的支援を絶つために住人の立ち退きを強制したり、または村を焼くなどといった措置をとった[63][53]。1999年までに2500の村が焼かれ[63]、トルコ発表では36万人が[63][53]移住を余儀なくされた。一方でいくつかの人権団体は1993年以降10年間で移住を強要された人々の数を250万人から300万人と見積もっている[53]。1999年のアブドゥッラー・オジャラン(当時のPKKのリーダー)の逮捕までに4万人が犠牲になったとされている[63]

PKKはシリア政府と国外のクルド人指導者の支援を享受したが、クルド人の統一的な意見を代弁する組織ではなかった[63]。例えばイラクのクルド人自治区では、クルディスタン愛国同盟と議長のジャラル・タラバニはPKkを支持したが、クルディスタン民主党ムスタファ・バルザーニーはトルコと協力しPKKに対抗した[63]

海外のクルド人活動家

1970年から1980年代にかけて、抑圧により多くの反体制活動家がシリアやヨーロッパへと渡った[63]。彼らはクルディスタン労働者党(PKK)に参加するものもいれば、ヨーロッパの支援を求める活動を行うものもいた[63]。そして彼らのヨーロッパでの活動はトルコの望むEUへの加盟の妨げとなった[63]。トルコ政府はEU加盟をにらんで態度を軟化させた[63]。2002年にはラジオやテレビなどで小数民族の言語を使用することが合法化された[63]。一方で公的教育機関でのクルド語による教育は禁止されたままとなった[63]

トルコ・PKK紛争

クルディスタン労働者党(PKK)は1974年にアブドゥッラー・オジャランにより設立され、1978年に現在の組織名になった。PKKの設立以降はこの組織が主な反乱組織となった[64]。当初PKKはマルクス・レーニン主義を掲げていたが、後にはこの伝統的な共産主義を捨て、クルド人の政治的な権利の拡大と文化面での自治の要求へと綱領を変化させた。

PKKの設立以降、トルコの治安部隊とPKKの間で市街での武力衝突が繰り返されるようになる。しかし本格的な反乱は1984年8月15日にPKKがクルド人の蜂起を宣言したことで始まった[65]。この最初の反乱は1999年にPKKのリーダーのアブドゥッラー・オジャランがケニアにて拘束されるまで続く。1999年9月1日、PKKは一方的に休戦を宣言した[1][66]

しかし2004年、トルコ軍の攻勢によりPKKは再び武力紛争へと身を投じることを余儀なくされる[65]。2004年1月にはPKKは休戦の終結を宣言し再び武力紛争が始まった[67][68]。2011年の夏以降はクルド人の不満の高まりを受けて武力紛争は暴力性を増した[69]。2013年、トルコ政府とPKKの指導者であり服役中のアブドゥッラー・オジャランはクルド問題の解決に向け交渉に入った。2013年3月21日、オジャランは武力闘争の終了を宣言し、和平会談を伴う休戦に入った[70][71]。2015年7月25日、PKKは最終的に2013年の休戦協定を覆した。すなわちトルコ軍がISISとの戦いの中で、北イラクにあるPKKのキャンプを空爆したことにより軋轢を生んでいた[72]

バックグラウンド

1974年の設立以来、PKKは状況と時代に合わせて組織構造や思想を変化させてきた[73]。その柔軟性は組織の存続に大きく寄与し、わずかな学生からなるだけの組織が少しずつ成長を続け、大きな影響力を持つ組織へと変容をとげ、ついには対テロ戦争のターゲットとされるまでになった。

1991年、湾岸戦争の直後。イラク北部のクルド人地区(南クルディスタン)において当時のフセイン政権に対する反乱(1991 uprisings)が起きる。この反乱は失敗に終わるものの大量の難民を生み出し、国連はフセイン政権に対し北部での飛行禁止空域を設けさせ、人道支援を行った。この国連の措置は南クルディスタンを実質的にイラクから独立した状態に置いた[74]。すぐにPKKはこの地に安全地帯を見出し、イラクを拠点にしてトルコに対する攻撃を行うようになった。これに対してトルコはオペレーション・スチール英語版(1995)とオペレーション・ハンマー英語版(1997)を展開した[75]

イラク戦争の嚆矢となった2003年のイラク侵攻の影響で当時のイラク軍が保有していた武器の多くがペシュメルガ(クルド人の武装勢力)の手に渡った[76]。当時ペシュメルガは実質的にイラク北部にてクルド人の軍隊としての役割を担っており、トルコによればこれら多くの武器がPKKやPJAK(PKKのイラン支部)をはじめとしたクルド人勢力に渡っていた[77]。このことが、トルコによるイラク北部に対する攻撃の口実になっている。

2007年7月、トルコはイラクのクルディスタン地域に3,000名の戦闘員が居ると推測している[78]。PKKのリーダー、ムラト・カラユランMurat Karayılan)は組織には7,000から8,000人の戦闘員がおり、そのうちの30から40パーセントがイラクで活動しているとしている[79]。最大で10,000名と見積もっている報告も存在する[80]

経済や外交に与える影響

イラク北部のクルド人自治区(すなわちトルコのすぐ隣)にはPKKの部隊が存在しており、彼らは隣国イラクからトルコへ攻撃を仕掛けている。そのためトルコ軍はしばしば地上部隊をイラク領内に越境させ空爆を行っており、クルド人自治区やイラクから中止要請を受け[81]、アメリカや国連から自制を促されている[82]。この紛争はトルコの観光産業に大きく影を落としており[83]、また軍事費など経済的損失は3000から4500億ドルに上ると試算されている[84][69]

1980年代から1990年代にかけて、トルコとクルディスタン労働者党(PKK)との間で繰り広げられた武力紛争では37,000名の死者を出している。

日本への影響

2015年10月25日在外投票が行われた在日本トルコ大使館でトルコ人とクルド人の間で騒乱が起き、警視庁機動隊が出動して鎮定したが警察官を含む12名の負傷者を出す事件となった[85]金高雅仁警察庁長官は「機動隊を緊急に配備し事態の沈静化に努めたが、ほかの国の紛争や対立を背景とした外国人どうしの大規模な集団暴行事件は、これまでに見られなかった」と語り大使館等との連携を強めることを明らかにした[86]

注釈

  1. ^ クルマンジー・クルドとザザ・クルドの双方にスンニー派とアレヴィー派(シーア派の一派)がいる。

脚注

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関連項目