「桂米團治」の版間の差分
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== 初代 == |
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'''初代 桂米團治'''([[1847年]][[4月15日]] - [[1928年]][[9月18日]])は、後の[[桂文治 (7代目)|7代目桂文治]]。本名: 平野次郎兵衛。[[享年]]81。 |
'''初代 桂米團治'''([[1847年]][[4月15日]] - [[1928年]][[9月18日]])は、後の[[桂文治 (7代目)|7代目桂文治]]。本名: '''平野 次郎兵衛'''。[[享年]]81。 |
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初代[[桂文團治]]の門下で初代桂米團治、1885年秋に桂順枝、1886年に初代[[桂米喬|桂亭米喬]]を経て、1887年、2代目文團治襲名。1908年11月、7代目文治襲名。 |
初代[[桂文團治]]の門下で初代桂米團治、1885年秋に桂順枝、1886年に初代[[桂米喬|桂亭米喬]]を経て、1887年、2代目文團治襲名。1908年11月、7代目文治襲名。 |
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== 2代目 == |
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'''2代目 桂米團治'''([[1856年]] - [[1924年]][[4月9日]])は、後の3代目[[桂文團治]]。本名: 前田七三郎。享年68。 |
'''2代目 桂米團治'''([[1856年]] - [[1924年]][[4月9日]])は、後の3代目[[桂文團治]]。本名: '''前田 七三郎'''。享年68。 |
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23歳の時、立川三玉齋の門下に入門し、三吉を名乗る。三玉齋の死後、1879年頃に2代目[[桂文枝]](後の[[桂文左衛門]]) の門下に移り文朝。更に3代目林家菊枝(後の4代目林家正三?)の門下で菊松。その後、初代文團治の門下に移り初代[[桂米朝|米朝]]、1885年に順朝、1886年に再度米朝となるが、1887年に2代目文團治(後7代目文治)門下に移り、2代目米團治を経て、1908年11月に3代目文團治を襲名。 |
23歳の時、立川三玉齋の門下に入門し、三吉を名乗る。三玉齋の死後、1879年頃に2代目[[桂文枝]](後の[[桂文左衛門]]) の門下に移り文朝。更に3代目林家菊枝(後の4代目林家正三?)の門下で菊松。その後、初代文團治の門下に移り初代[[桂米朝|米朝]]、1885年に順朝、1886年に再度米朝となるが、1887年に2代目文團治(後7代目文治)門下に移り、2代目米團治を経て、1908年11月に3代目文團治を襲名。 |
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== 3代目 == |
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'''[[桂米團治 (3代目)|3代目 桂米團治]]'''([[1869年]] - [[1943年]][[10月29日]])は、本名: 早田福松。享年75。 |
'''[[桂米團治 (3代目)|3代目 桂米團治]]'''([[1869年]] - [[1943年]][[10月29日]])は、本名: '''早田 福松'''。享年75。 |
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2代目米團治の門下で、初代[[桂べかこ|米歌子]](べかこ)、初代[[桂米之助|米之助]]、2代目[[桂米朝|米朝]]を経て、[[1910年]]3月、3代目米團治を襲名。 |
2代目米團治の門下で、初代[[桂べかこ|米歌子]](べかこ)、初代[[桂米之助|米之助]]、2代目[[桂米朝|米朝]]を経て、[[1910年]]3月、3代目米團治を襲名。 |
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== 4代目 == |
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'''[[桂米團治 (4代目)|4代目 桂米團治]]'''([[1896年]][[9月3日]] - [[1951年]][[10月23日]])は、本名: 中濱賢三。享年56。 |
'''[[桂米團治 (4代目)|4代目 桂米團治]]'''([[1896年]][[9月3日]] - [[1951年]][[10月23日]])は、本名: '''中濱 賢三'''。享年56。 |
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3代目米團治の門下。2代目米之助を経て、4代目米團治を襲名。「[[代書]]」(または「代書屋」)を創作。弟子に「四天王」の一人、[[桂米朝 (3代目)|3代目米朝]]らがいる。 |
3代目米團治の門下。2代目米之助を経て、4代目米團治を襲名。「[[代書]]」(または「代書屋」)を創作。弟子に「四天王」の一人、[[桂米朝 (3代目)|3代目米朝]]らがいる。 |
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== 5代目 == |
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'''[[桂米團治 (5代目)|5代目 桂米團治]]'''([[1958年]][[12月20日]] -)は、本名: 中川明。[[2008年]][[10月4日]]に3代目桂小米朝が襲名。57年ぶりに復活、米朝一門では初めての名前に○○團治の付く噺家の誕生。本来なら上方落語のホープで米朝の後継者とされていた[[桂吉朝]]が継ぐはずであったが死去したため急遽、小米朝が継ぐこととなった。 |
'''[[桂米團治 (5代目)|5代目 桂米團治]]'''([[1958年]][[12月20日]] -)は、本名: '''中川 明'''。[[2008年]][[10月4日]]に3代目桂小米朝が襲名。57年ぶりに復活、米朝一門では初めての名前に○○團治の付く噺家の誕生。本来なら上方落語のホープで米朝の後継者とされていた[[桂吉朝]]が継ぐはずであったが死去したため急遽、小米朝が継ぐこととなった。 |
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== 出典 == |
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2016年1月14日 (木) 13:45時点における版
桂 米團治(かつら よねだんじ)は、上方落語の名跡。米団治とも表記される。
現在は米朝一門(米朝事務所)の事実上の止め名。なお、4代目の弟子である3代目桂米朝は5代目を継がず、50年以上途絶えていたのを4代目の孫弟子に当たる3代目桂小米朝(3代目桂米朝の弟子、実子)が継いだ。
初代
初代 桂米團治(1847年4月15日 - 1928年9月18日)は、後の7代目桂文治。本名: 平野 次郎兵衛。享年81。
初代桂文團治の門下で初代桂米團治、1885年秋に桂順枝、1886年に初代桂亭米喬を経て、1887年、2代目文團治襲名。1908年11月、7代目文治襲名。
2代目
2代目 桂米團治(1856年 - 1924年4月9日)は、後の3代目桂文團治。本名: 前田 七三郎。享年68。
23歳の時、立川三玉齋の門下に入門し、三吉を名乗る。三玉齋の死後、1879年頃に2代目桂文枝(後の桂文左衛門) の門下に移り文朝。更に3代目林家菊枝(後の4代目林家正三?)の門下で菊松。その後、初代文團治の門下に移り初代米朝、1885年に順朝、1886年に再度米朝となるが、1887年に2代目文團治(後7代目文治)門下に移り、2代目米團治を経て、1908年11月に3代目文團治を襲名。
3代目
3代目 桂米團治(1869年 - 1943年10月29日)は、本名: 早田 福松。享年75。
2代目米團治の門下で、初代米歌子(べかこ)、初代米之助、2代目米朝を経て、1910年3月、3代目米團治を襲名。
4代目
4代目 桂米團治(1896年9月3日 - 1951年10月23日)は、本名: 中濱 賢三。享年56。
3代目米團治の門下。2代目米之助を経て、4代目米團治を襲名。「代書」(または「代書屋」)を創作。弟子に「四天王」の一人、3代目米朝らがいる。
5代目
5代目 桂米團治(1958年12月20日 -)は、本名: 中川 明。2008年10月4日に3代目桂小米朝が襲名。57年ぶりに復活、米朝一門では初めての名前に○○團治の付く噺家の誕生。本来なら上方落語のホープで米朝の後継者とされていた桂吉朝が継ぐはずであったが死去したため急遽、小米朝が継ぐこととなった。
出典
- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)