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「グレゴリウス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''グレゴリウス1世'''(Gregorius I, [[540年]]? - [[604年]][[3月12日]])は、[[ローマ教皇]](在位:[[590年]][[9月3日]] - [[604年]][[3月12日]])。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。
'''グレゴリウス1世'''(Gregorius I, [[540年]]? - [[604年]][[3月12日]])は、[[ローマ教皇]](在位:[[590年]][[9月3日]] - [[604年]][[3月12日]])。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、[[中世]]初期を代表する教皇である。四大[[ラテン教父]]の一人。[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]では[[聖人]]、[[教会博士]]であり、祝日は[[9月3日]]

典礼の整備、教会改革で知られ、[[中世]]初期を代表する教皇である。四大[[ラテン教父]]の一人。[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]では[[聖人]]、[[教会博士]]であり、祝日は[[9月3日]]。


[[東方正教会]]でも[[聖人]]で[[記憶日]]は[[3月25日]]。[[日本ハリストス正教会]]では'''[[先備聖体礼儀]]の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ'''(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる<ref>日本ハリストス正教会『正教会暦』2008年版</ref>。
[[東方正教会]]でも[[聖人]]で[[記憶日]]は[[3月25日]]。[[日本ハリストス正教会]]では'''[[先備聖体礼儀]]の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ'''(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる<ref>日本ハリストス正教会『正教会暦』2008年版</ref>。


== 概説 ==
== 経歴 ==
グレゴリウスはローマの貴族の家庭で生まれ、政治家としてのキャリアを積んでいたが、思うところがあって修道院に入り、[[590年]]に教皇に選ばれた。グレゴリウスは教皇に選ばれると精力的に教会改革に乗り出し、[[三章問題]]の解決をはかったり、[[カンタベリーのアウグスティヌス]]をイングランド宣教に派遣するなどした。グレゴリウスは西方だけでなく東方においても著名な存在であり、ローマ[[司教]]の域を出なかった教皇職の権威を高めることになった。
グレゴリウスはローマの貴族の家庭で生まれ、政治家としてのキャリアを積んでいたが、思うところがあって修道院に入り、[[590年]]に教皇に選ばれた。グレゴリウスは教皇に選ばれると精力的に教会改革に乗り出し、[[三章問題]]の解決をはかったり、[[カンタベリーのアウグスティヌス]]をイングランド宣教に派遣するなどした。グレゴリウスは西方だけでなく東方においても著名な存在であり、ローマ[[司教]]の域を出なかった教皇職の権威を高めることになった。


==教皇権==
グレゴリウスは同時に[[ヌルシアのベネディクトゥス|聖ベネディクトゥス]]の伝記を含む多くの著作を残したことで知られ、教皇として書いた多くの書簡が残されている。[[グレゴリオ聖歌]]の名は彼に由来しており、伝承では彼自身多くの聖歌を作曲したとされている。また、東方正教会でも[[大斎_(東方正教会)|大斎]]中の平日の[[奉神礼]]に用いられる[[先備聖体礼儀]]の祈祷文はグレゴリウス1世が編纂したものとされる。
[[File:Gregorythegreat.jpg|150px|right|thumb|[[グレゴリウス1世_(ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]]]
グレゴリウス1世は、東帝国に近い知識人の代表で、[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]による再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っている[[ローマ]]に生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きた。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとし、教皇の優位性は必要であった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は[[異端]]の[[アリウス派]]を信仰していた。一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけたともいわれる{{Sfn|M・パコー|1985|pp=26-27}}。

グレゴリウスは教皇[[ゲラシウス1世_(ローマ教皇)|ゲラシウス1世]]の[[両剣論]]を根拠に、宗教的裁治の管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、[[マウリキウス]]帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた{{Sfn|M・パコー|1985|pp=27-30}}。

グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった{{Sfn|M・パコー|1985|pp=30-32}}。

==著作 ==
グレゴリウスは同時に[[ヌルシアのベネディクトゥス|聖ベネディクトゥス]]の伝記を含む多くの著作を残したことで知られ、教皇として書いた多くの書簡が残されている。また、東方正教会でも[[大斎_(東方正教会)|大斎]]中の平日の[[奉神礼]]に用いられる[[先備聖体礼儀]]の祈祷文はグレゴリウス1世が編纂したものとされる。

[[グレゴリオ聖歌]]の名は彼に由来しており、伝承では彼自身多くの聖歌を作曲したとされている。

==脚注==
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{{教父}}
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{{ローマ教皇|64代:590年 - 604年}}
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==脚注==
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[[Category:教会博士]]
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[[Category:ローマ出身の人物]]
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===グレゴリウス1世の教皇権===
[[File:Gregorythegreat.jpg|150px|right|thumb|[[グレゴリウス1世_(ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]]]
[[6世紀]]の教皇[[グレゴリウス1世_(ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]は、東帝国に近い知識人の代表で、[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]による再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っている[[ローマ]]に生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きた。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとし、教皇の優位性は必要であった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は[[異端]]の[[アリウス派]]を信仰していた。一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけたともいわれる{{Sfn|M・パコー|1985|pp=26-27}}。

グレゴリウスは教皇[[ゲラシウス1世_(ローマ教皇)|ゲラシウス1世]]の[[両剣論]]を根拠に、宗教的裁治の管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、[[マウリキウス]]帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた{{Sfn|M・パコー|1985|pp=27-30}}。

グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった{{Sfn|M・パコー|1985|pp=30-32}}。

====ゲルマン人の集団改宗====
メロヴィング朝と西ゴート王国のカトリックへの改宗は集団改宗という形式で行われた{{Sfn|阪西紀子|2004}}。クローヴィスの改宗は明確に集団改宗である。[[587年]]の[[レカレド王]]の改宗は個人的なものとも集団的ともとれるが{{Sfn|橋本龍幸|1988}}、[[589年]]のトレド公会議は西ゴート王国を公式にカトリック改宗へと導いた{{Sfn|Roger Collins|2004|p=67}}{{Sfn|橋本龍幸|1988}}。ただし、このような集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできない{{Sfn|阪西紀子|2004}}。[[3世紀]]までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていた。それに対し[[4世紀]]以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われるようになった。{{Sfn|保坂高殿|2008|pp=339-340}}。ゲルマンの王は集団の支持を必要としており、彼らの改宗は、個人的な内面性より集団に重点が置かれていた{{Sfn|阪西紀子|2004}}。改宗が直接的に国王個人や住民の生活習慣を変えるようなものではなかったことからも明白である。たとえばクローヴィスは[[洗礼]]を受けたにも関わらず、その後の有様は蛮族の王そのままであった{{Sfn|阪西紀子|2004}}し、そもそもメロヴィング王国住民も表面的にしかキリスト教化されていなかった{{Sfn|レジーヌ・ル・ジャン|2009|pp=86-87}}。

ロジャー・コリンズによれば、西ゴート王国は改宗以前、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族は[[アリウス派]]からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった{{Sfn|Roger Collins|2004|pp=64-65}}。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある{{Sfn|橋本龍幸|1988}}。メロヴィング朝では7世紀[[クロタール2世]]の統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教が王権に王国を守るという崇高な任務を与え、聖性を付与し、その意義を高めたからである{{Sfn|レジーヌ・ル・ジャン|2009|pp=54-55}}。

2016年2月15日 (月) 15:20時点における版

グレゴリウス1世
第64代 ローマ教皇
教皇就任 590年9月3日
教皇離任 604年3月12日
先代 ペラギウス2世
次代 サビニアヌス
個人情報
出生 540年?
東ゴート王国ローマ
死去 604年3月12日
東ローマ帝国ローマ
その他のグレゴリウス
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グレゴリウス1世
グレゴリウス1世

グレゴリウス1世(Gregorius I, 540年? - 604年3月12日)は、ローマ教皇(在位:590年9月3日 - 604年3月12日)。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人教会博士であり、祝日は9月3日

東方正教会でも聖人記憶日3月25日日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる[1]

経歴

グレゴリウスはローマの貴族の家庭で生まれ、政治家としてのキャリアを積んでいたが、思うところがあって修道院に入り、590年に教皇に選ばれた。グレゴリウスは教皇に選ばれると精力的に教会改革に乗り出し、三章問題の解決をはかったり、カンタベリーのアウグスティヌスをイングランド宣教に派遣するなどした。グレゴリウスは西方だけでなく東方においても著名な存在であり、ローマ司教の域を出なかった教皇職の権威を高めることになった。

教皇権

グレゴリウス1世

グレゴリウス1世は、東帝国に近い知識人の代表で、ユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っているローマに生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きた。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとし、教皇の優位性は必要であった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は異端アリウス派を信仰していた。一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけたともいわれる[2]

グレゴリウスは教皇ゲラシウス1世両剣論を根拠に、宗教的裁治の管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた[3]

グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった[4]

著作

グレゴリウスは同時に聖ベネディクトゥスの伝記を含む多くの著作を残したことで知られ、教皇として書いた多くの書簡が残されている。また、東方正教会でも大斎中の平日の奉神礼に用いられる先備聖体礼儀の祈祷文はグレゴリウス1世が編纂したものとされる。

グレゴリオ聖歌の名は彼に由来しており、伝承では彼自身多くの聖歌を作曲したとされている。

脚注

  1. ^ 日本ハリストス正教会『正教会暦』2008年版
  2. ^ M・パコー 1985, pp. 26–27.
  3. ^ M・パコー 1985, pp. 27–30.
  4. ^ M・パコー 1985, pp. 30–32.