コンテンツにスキップ

「阿蘇惟澄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 自身の編集(2013年2月16日 (土) 19:51)の修正
タグ: コメントアウト
編集の要約なし
2行目: 2行目:


== 出自 ==
== 出自 ==
惟澄の出自に関しては諸説あり、第6代当主・[[阿蘇惟景]]の子とも第7代当主・[[阿蘇惟国]]の子ともいわれる。また、阿蘇氏の支族である[[恵良氏]]の出身であり、第8代当主・[[阿蘇惟時]]の婿養子となって家督を継いだとも言われている'''恵良惟澄'''名乗った。
阿蘇氏の庶家である[[恵良氏]]の出身であり、第8代当主・[[阿蘇惟時]]の娘の婿養子となって家督を継いだ。初期には恵良惟澄と名乗った。惟澄が菊池征西府に宛てて記した『恵良惟澄軍忠状』と推定される軍忠状は、江戸時代に[[群書類従]]に採録されるほど名高い


== 生涯 ==
== 生涯 ==
9行目: 9行目:


=== 阿蘇氏の分裂 ===
=== 阿蘇氏の分裂 ===
[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])、阿蘇氏の当主[[阿蘇惟直|惟直]]に付き従い、九州に落ちてきた[[足利尊氏]]と[[多々良浜の戦い]]にて戦ったが、敗れた。この戦いで当主惟直とその長男[[阿蘇惟成|惟成]]が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は庶流[[坂梨孫熊丸]]を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。翌[[1337年]]、惟澄は[[菊池氏]]と南朝勢力回復のため九州に下向してきた[[懐良親王]]を擁立し、北朝方の[[九州探題]][[一色範氏]]の軍勢と交戦し勝利している。
[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])、阿蘇氏の当主[[阿蘇惟直|惟直]]に付き従い、九州に落ちてきた[[足利尊氏]]と[[多々良浜の戦い]]にて戦ったが、敗れた。この戦いで当主惟直とその長男[[阿蘇惟成|惟成]]が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は阿蘇惟時庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。翌[[1337年]]、惟澄は[[菊池氏]]と南朝勢力回復のため九州に下向してきた[[懐良親王]]を擁立し、北朝方の[[九州探題]][[一色範氏]]の軍勢と交戦し勝利している。


[[興国]]元年/[[暦応]]4年([[1341年]])、惟澄は遂に肥後国[[南郷城 (肥後国)|南郷城]]にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である惟時が[[少弐氏]]らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。[[1347年]]には北朝方の少弐氏・[[大友氏]]の攻撃を受けたが撃退に成功している。
[[興国]]元年/[[暦応]]4年([[1341年]])、惟澄は遂に肥後国[[南郷城 (肥後国)|南郷城]]にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である惟時が[[少弐氏]]らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。[[1347年]]には北朝方の少弐氏・[[大友氏]]の攻撃を受けたが撃退に成功している。

2016年2月18日 (木) 06:22時点における版

阿蘇 惟澄(あそ これずみ、延慶2年(1309年)? - 貞治3年/正平19年9月20日1364年10月15日))は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将阿蘇氏の第10代当主。惟村(第11代当主)、惟武の父。通称は小次郎[1]

出自

阿蘇氏の庶家である恵良氏の出身であり、第8代当主・阿蘇惟時の娘の婿養子となって家督を継いだ。初期には恵良惟澄と名乗った。惟澄が菊池征西府に宛てて記した『恵良惟澄軍忠状』と推定される軍忠状は、江戸時代に群書類従に採録されるほど名高い。

生涯

元弘の乱

元弘3年(1333年)、幕命を受けて楠木正成が立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受けて官軍側に寝返った。

阿蘇氏の分裂

建武3年(1336年)、阿蘇氏の当主惟直に付き従い、九州に落ちてきた足利尊氏多々良浜の戦いにて戦ったが、敗れた。この戦いで当主惟直とその長男惟成が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は阿蘇惟時の庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。翌1337年、惟澄は菊池氏と南朝勢力回復のため九州に下向してきた懐良親王を擁立し、北朝方の九州探題一色範氏の軍勢と交戦し勝利している。

興国元年/暦応4年(1341年)、惟澄は遂に肥後国南郷城にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である惟時が少弐氏らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。1347年には北朝方の少弐氏・大友氏の攻撃を受けたが撃退に成功している。

正平10年/文和4年(1355年)に惟時が死去し、その養子であった惟澄の長男惟村が惟時の立場を引き継いだが、一族の信望は惟澄に集まった。惟澄はその後も北朝方との戦いを優位に進め、正平16年/延文6年(1361年)には菊池武光と協力して大宰府の制圧に成功し、九州における南朝方の勢力は最盛期を迎えた。

正平19年/貞治3年(1364年)、死に臨んだ惟澄は、これまで北朝方として対立してきた長男の惟村に大宮司を譲り、その2ヵ月後に死去した。享年55。

死後

惟澄と行動を共にしてきた次男の惟武が惟村に反発し、また征西府も惟村の相続を認めなかったため、一族内での対立が再燃した。また、惟澄らが築き上げた征西府の勢力も、九州探題今川貞世(了俊)の出現や菊池武光などの死去によって1370年代初頭を境に衰退していくこととなる。

出典

  1. ^ 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年、18頁上段

関連図書

  • 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年、38-39頁
  • 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年