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「沼田多稼蔵」の版間の差分

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[[1920年]](大正9年)4月、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]勤務となり、[[関東軍]]幕僚付、参謀本部員(内国戦史課)、[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]課員などを経て[[イタリア]]駐在となり、[[1927年]](昭和2年)7月、歩兵[[少佐]]に昇進。[[1928年]](昭和3年)8月、[[陸軍省#整備局|整備局]]課員(動員課)となり、[[1931年]](昭和6年)8月、歩兵[[中佐]]に進級。[[1932年]](昭和7年)12月、関東軍[[参謀]](特務部)に就任し、イタリア大使館付[[駐在武官|武官]]を経て、[[1935年]](昭和10年)8月、歩兵[[大佐]]に昇進した。[[1936年]](昭和11年)8月、参謀本部付となり、[[日中戦争]]に[[歩兵第39連隊]]長として出征し[[徐州会戦]]などに参加。[[1938年]](昭和13年)6月、[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]参謀副長に転じ、[[1938年]](昭和13年)7月、陸軍[[少将]]に進級した。
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[[1939年]](昭和14年)1月、第11軍参謀長に着任し、[[企画院]]第1部長に転じ、第1部長任期中に[[総力戦研究所]]構想案を練ったとされている。[[1941年]](昭和16年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、[[第3軍 (日本軍)|第3軍]]参謀長に就任し[[満州]]に赴任。[[1942年]](昭和17年)8月、[[第12師団 (日本軍)|第12師団]]長に親補された。[[1943年]](昭和18年)10月、[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]参謀長となり、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀長として終戦を迎えた。[[1947年]](昭和22年)11月、戦犯容疑により[[巣鴨プリズン]]に収容された。[[1948年]](昭和23年)4月、[[橘丸事件]]で重労働7年の判決が言い渡されたが、[[1950年]](昭和25年)12月に仮釈放された。
[[1939年]](昭和14年)1月、第11軍参謀長に着任し、[[企画院]]第1部長に転じ、第1部長任期中に[[総力戦研究所]]構想案を練ったとされている。[[1941年]](昭和16年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、[[第3軍 (日本軍)|第3軍]]参謀長に就任し[[満州]]に赴任。[[1942年]](昭和17年)8月、[[第12師団 (日本軍)|第12師団]]長に親補された。[[1943年]](昭和18年)10月、[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]参謀長となり、昭和19年5月、ビアク島を視察中に米軍の上陸に遭遇し、臨時に防戦の指揮を執ったが、玉砕寸前に同島を脱出した。[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀長として終戦を迎えた。[[1947年]](昭和22年)11月、戦犯容疑により[[巣鴨プリズン]]に収容された。[[1948年]](昭和23年)4月、[[橘丸事件]]で重労働7年の判決が言い渡されたが、[[1950年]](昭和25年)12月に仮釈放された。


== 親族 ==
== 親族 ==

2016年3月8日 (火) 00:04時点における版

沼田 多稼蔵
1955年
生誕 1892年(明治25年)4月18日
日本の旗 日本 広島県
死没 1961年(昭和36年)11月15日
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912年(明治45年) - 1945年(昭和20年)
最終階級 陸軍中将
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1945年、ラングーンにて英印軍に投降する沼田(左)

沼田 多稼蔵(ぬまだ たかぞう、1892年(明治25年)4月18日 - 1961年(昭和36年)11月15日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

広島県出身。漢学者・沼田良蔵の二男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業。

1920年(大正9年)4月、参謀本部勤務となり、関東軍幕僚付、参謀本部員(内国戦史課)、陸軍省軍務局課員などを経てイタリア駐在となり、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、整備局課員(動員課)となり、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級。1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀(特務部)に就任し、イタリア大使館付武官を経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進した。1936年(昭和11年)8月、参謀本部付となり、日中戦争歩兵第39連隊長として出征し徐州会戦などに参加。1938年(昭和13年)6月、第11軍参謀副長に転じ、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。

1939年(昭和14年)1月、第11軍参謀長に着任し、企画院第1部長に転じ、第1部長任期中に総力戦研究所構想案を練ったとされている。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、第3軍参謀長に就任し満州に赴任。1942年(昭和17年)8月、第12師団長に親補された。1943年(昭和18年)10月、第2方面軍参謀長となり、昭和19年5月、ビアク島を視察中に米軍の上陸に遭遇し、臨時に防戦の指揮を執ったが、玉砕寸前に同島を脱出した。南方軍総参謀長として終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月、戦犯容疑により巣鴨プリズンに収容された。1948年(昭和23年)4月、橘丸事件で重労働7年の判決が言い渡されたが、1950年(昭和25年)12月に仮釈放された。

親族

著書

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。]