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『[[平家物語]]』劒の巻では平安時代に[[源満仲]]の命令で「[[筑前国]]三笠郡の出山というところに住む唐国の鉄細工」が[[八幡大菩薩]]の加護を得て[[髭切]]と揃いで作った二尺七寸の太刀とされているが、文献により諸説ある。罪人を試し切りした際、膝まで切れたというのがこの名の由来である<ref>一般的には『平家物語』剣巻を史実として捉えてはいけない、とも見識されている。</ref>。
『[[平家物語]]』劒の巻では平安時代に[[源満仲]]の命令で「[[筑前国]]三笠郡の出山というところに住む唐国の鉄細工」が[[八幡大菩薩]]の加護を得て[[髭切]]と揃いで作った二尺七寸の太刀とされているが、文献により諸説ある。罪人を試し切りした際、膝まで切れたというのがこの名の由来である<ref>一般的には『平家物語』剣巻を史実として捉えてはいけない、とも見識されている。</ref>。


この刀はその後次々と名を変えており、[[源頼光]]の代、[[源頼光]]が己を熱病に苦しめた山蜘蛛([[土蜘蛛]]と同一視される)を切ったとされ、その際名を'''蜘蛛切'''と改めた。[[源頼基]]、[[源頼義]]、[[源義家]]を経て[[源為義]]の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので'''吠丸'''と名を改めた。その後、為義の娘婿である[[熊野別当]]教真に引出物として譲られたが、教真は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え[[熊野権現]]に奉納した。後に子息の[[熊野別当]][[湛増]]から[[源義経]]に吠丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を'''薄緑'''と改めた。その名は[[熊野]]の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と[[源頼朝]]が仲違いし、義経は[[腰越状]]を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を[[箱根権現]]に奉納した。だが薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。
この刀はその後次々と名を変えており、[[源頼光]]の代、[[源頼光]]が己を熱病に苦しめた山蜘蛛([[土蜘蛛]]と同一視される)を切名を'''蜘蛛切'''と改めた。[[源頼基]]、[[源頼義]]、[[源義家]]を経て[[源為義]]の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので'''吠丸'''と名を改めた。その後、為義の娘婿である[[熊野別当]]教真に引出物として譲られたが、教真は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え[[熊野権現]]に奉納した。後に子息の[[熊野別当]][[湛増]]から[[源義経]]に吠丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を'''薄緑'''と改めた。その名は[[熊野]]の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と[[源頼朝]]が仲違いし、義経は[[腰越状]]を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を[[箱根権現]]に奉納した。だが薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。


薄緑はその後、箱根[[別当]]から[[曽我五郎]]に渡され、[[曾我兄弟の仇討ち]]を経て[[源頼朝]]のもとに渡りそこで[[髭切]]と一具に戻った、と劔の巻では語られる。
薄緑はその後、箱根[[別当]]から[[曽我五郎]]に渡され、[[曾我兄弟の仇討ち]]を経て[[源頼朝]]のもとに渡りそこで[[髭切]]と一具に戻った。以上ように剣巻では語られる。


金刀比羅本『[[平治物語]]』では'''薄緑'''は[[源朝長]]の太刀として登場する。'''膝丸'''という刀は登場せず[[髭切]]だけが源家重代の刀として語られる。(膝丸という鎧は登場する→[[源氏八領]])
金刀比羅本『[[平治物語]]』では'''薄緑'''は[[源朝長]]の太刀として登場する。'''膝丸'''という刀は登場せず[[髭切]]だけが源家重代の刀として語られる。(膝丸という鎧は登場する→[[源氏八領]])


『能阿弥銘尽』や『佐々木本銘尽』などの刀剣伝書では、長円作の'''薄緑'''を[[源義経]]が平家追討に西国へ行く際に[[箱根権現]]に納め、後に別当から[[曾我五郎]]に渡り仇を討ったと書かれている。
『能阿弥銘尽』や『佐々木本銘尽』などの刀剣伝書では、長円作の'''薄緑'''を[[源義経]]が平家追討に西国へ行く際に[[箱根権現]]に納め、後に別当から[[曾我五郎]]に渡り仇を討ったと書かれている。刀剣伝書には他にも様々な刀工の説が収録されている。


『[[吾妻鏡]]』では文治元年(1185年)十月十九日の記録で、かつて[[源義朝]]が[[後白河法皇]]に'''吠丸'''という御護りの御剣を献上したが二年前に紛失していたのを[[大江公朝]]が探し出して献上した、と記載がある。また翌日二十日の記録では、寿永二年(1183年)に[[平清経]]が吠丸と一緒に奪った鵜丸という御剣を[[源範頼]]が取り戻して献上した、とある。
『[[吾妻鏡]]』では文治元年(1185年)十月十九日の記録で、かつて[[源義朝]]が[[後白河法皇]]に'''吠丸'''という御護りの御剣を献上したが二年前に紛失していたのを[[大江公朝]]が探し出して献上した、と記載がある。また翌日二十日の記録では、寿永二年(1183年)に[[平清経]]が吠丸と一緒に奪った鵜丸という御剣を[[源範頼]]が取り戻して献上した、とある。

2016年3月11日 (金) 17:04時点における版

膝丸(ひざまる)は髭切とともに源氏重代の太刀として伝えられている日本刀源義経曽我兄弟の仇討ちと縁が深い。 膝丸とされる刀は現在各地にあり、有名なものは大覚寺所蔵の重要文化財薄緑(刃長2尺7寸:約81cm)[1]箱根神社所蔵の薄緑丸などがある。

概要

平家物語』劒の巻では平安時代に源満仲の命令で「筑前国三笠郡の出山というところに住む唐国の鉄細工」が八幡大菩薩の加護を得て髭切と揃いで作った二尺七寸の太刀とされているが、文献により諸説ある。罪人を試し切りした際、膝まで切れたというのがこの名の由来である[2]

この刀はその後次々と名を変えており、源頼光の代、源頼光が己を熱病に苦しめた山蜘蛛(土蜘蛛と同一視される)を切り名を蜘蛛切と改めた。源頼基源頼義源義家を経て源為義の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので吠丸と名を改めた。その後、為義の娘婿である熊野別当教真に引出物として譲られたが、教真は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え熊野権現に奉納した。後に子息の熊野別当湛増から源義経に吠丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改めた。その名は熊野の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と源頼朝が仲違いし、義経は腰越状を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納した。だが薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。

薄緑はその後、箱根別当から曽我五郎に渡され、曾我兄弟の仇討ちを経て源頼朝のもとに渡りそこで髭切と一具に戻った。以上のように剣巻では語られる。

金刀比羅本『平治物語』では薄緑源朝長の太刀として登場する。膝丸という刀は登場せず髭切だけが源家重代の刀として語られる。(膝丸という鎧は登場する→源氏八領

『能阿弥銘尽』や『佐々木本銘尽』などの刀剣伝書では、長円作の薄緑源義経が平家追討に西国へ行く際に箱根権現に納め、後に別当から曾我五郎に渡り仇を討ったと書かれている。刀剣伝書には他にも様々な刀工の説が収録されている。

吾妻鏡』では文治元年(1185年)十月十九日の記録で、かつて源義朝後白河法皇吠丸という御護りの御剣を献上したが二年前に紛失していたのを大江公朝が探し出して献上した、と記載がある。また翌日二十日の記録では、寿永二年(1183年)に平清経が吠丸と一緒に奪った鵜丸という御剣を源範頼が取り戻して献上した、とある。

他の物語における義経の刀

曽我物語』では義経は鞍馬寺毘沙門天に祈り、源義朝平治の乱の戦勝祈願に鞍馬に納めた二尺八寸の源氏重代の太刀を授けられた。この物語では義経が箱根権現に刀を奉納するのは平家征伐や木曽義仲討伐の戦勝祈願とされる。後に箱根別当から兵庫鎖の太刀として曽我五郎に餞別に贈られ仇の工藤祐経を討ち、源頼朝の手に渡った。『曽我物語』や能・人形浄瑠璃・歌舞伎の曽我物では義経が使っていた太刀の名前は友切(剣巻では髭切の別名)とされることが多く、源氏重代の太刀はこの一振のみである。仮名本『曽我物語』では「てうか、虫ばみ、毒蛇、姫切、友切」と名を変えた話が語られる。

義経記』では義経は鞍馬寺で別当東光坊の阿闍梨から守刀として今剣を授けられ最期はこれで自害した。義経はまた(剣巻の膝丸と同じく)熊野別当より受け取った二尺七寸の黄金造りの太刀(こがねつくりのたち)も持っており、これは兄の頼朝に追われる途中の吉野の山中で一人残る佐藤忠信に餞けに贈られた。忠信は追っ手の軍勢と奮戦するが最期は自らの刀で切腹した後にこの義経より賜った太刀で喉を貫いて自害した。義経は牛若時代に貴船で修行する時や五条で弁慶に出会った時も黄金造りの太刀を帯びており、千本目の太刀として求める弁慶に「是は重代の太刀にて叶うまじ」と断る場面もあるが、これらが全て同一の太刀かははっきりしない。(忠信に太刀を与えた後にも義経が黄金造りの太刀を帯びている描写がある)

幸若舞『剣讃談』(大頭左兵衛本、他の本では剣賛嘆や剣讃嘆とも)は曽我物の一つ。天竺より伝わった長刀を二つに分け、三条宗近と奥の舞房がそれぞれに太刀を打ったが、宗近の方が遅くできた上に出来た太刀が二尺七寸で舞房の太刀より三寸短かったので鉄を盗んだ疑いで捕まった。舞房の太刀を枕神(枕上)と名付けて一段上に置き、宗近の太刀をすなし(寸なし)と名付けて一段下に置いた。宗近が無念を晴らしてくれと神仏に祈ると、刀が一人でに舞い上がって斬り合い、すなしが枕神の切っ先を三寸ほど切り落としてしまった。すなしは友切と改名され、二振揃って多田満仲に下賜された。友切は髭切鬼切と改名され、枕神は膝切に改名されさらにちちう切(蜘蛛切)と改名された。二振は源氏に相伝し、ちちう切は源為義から熊野別当に渡り源義経に伝えられ、義経は兄との不和解消を祈ってこれを箱根権現に納めた。箱根別当から曽我五郎に渡される時にこの経歴が語られる。

参考文献

渡瀬 淳子: 曽我五郎仇討ちの太刀. 早稲田大学教育学部学術研究. 国語・国文学編 55: 27-37, 2006.

脚注

  1. ^ 諸説あり。大覚寺へ膝丸が渡ったとされる由来や経緯は寺に伝わる縁起を参照のこと
  2. ^ 一般的には『平家物語』剣巻を史実として捉えてはいけない、とも見識されている。

関連項目