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「法界寺」の版間の差分

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法界寺は、[[醍醐寺]]の南方、[[宇治市]]との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は、『[[方丈記]]』の著者である[[鴨長明]]の住んだ地であり、[[親鸞]]の生誕地としても知られる。かつて[[山城国]]宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。日野家は[[藤原北家]]の一族で、[[儒学]]や[[歌道]]をよくした家柄である。
法界寺は、[[醍醐寺]]の南方、[[宇治市]]との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は、『[[方丈記]]』の著者である[[鴨長明]]の住んだ地であり、[[親鸞]]の生誕地としても知られる。かつて[[山城国]]宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。日野家は[[藤原北家]]の一族で、[[儒学]]や[[歌道]]をよくした家柄である。


平安時代後期の[[永承]]6年([[1051年]])、もと[[文章博士]]で後に出家した[[藤原資業|日野資業]]が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、日野代々伝わる、伝教大師[[最澄]]自作の三寸の薬師像を納入したという。
平安時代後期の[[永承]]6年([[1051年]])、もと[[文章博士]]で後に出家した[[藤原資業|日野資業]]が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、資業から4代前の祖・[[藤原家宗]]から代々伝わる、伝教大師[[最澄]]自作の三寸の薬師像を納入したという。


寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、日野資業の4代前の[[藤原家宗]]が[[弘仁]]13年([[822年]])、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の[[氏寺]]を建てたとするものである。
寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、家宗が[[弘仁]]13年([[822年]])、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の[[氏寺]]を建てたとするものである。


その後、平安後期の[[阿弥陀信仰]]の高まりや[[末法思想]]の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。
その後、平安後期の[[阿弥陀信仰]]の高まりや[[末法思想]]の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。当時は幾つかお堂があったが、現存するのは阿弥陀堂のみである。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。


なお、[[浄土真宗]]の開祖である[[親鸞]]は、[[承安 (日本)|承安]]3年([[1173年]])に[[日野有範]]の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。
なお、[[浄土真宗]]の開祖である[[親鸞]]は、[[承安 (日本)|承安]]3年([[1173年]])に[[日野有範]]の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。


== 伽藍 ==
== 伽藍 ==
薬師堂(本堂、重文)-1904年(明治37年)、[[奈良県]][[斑鳩町]]竜田にあった伝燈寺の本堂を移築したもの。[[室町時代]]、[[康正]]2年([[1456年]])の建築。上述の伝燈寺は[[龍田神社]]の神宮寺であったが現在は廃絶している。本尊の秘仏・薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作で、この祈願すると女性乳の出がよくなるとされ、「乳薬師」として信仰を集めている。本尊を安置する厨子の左右にはさらに2つの厨子があり、鎌倉時代の十二神将像(重文)が6体ずつ安置されている(本尊、十二神将ともに非公開)。薬師如来立像は秘仏であるが、2016年4月29日 - 同年5月8日まで、「京都非公開文化財特別公開」の一環として開扉された。新聞報道等によれば、半世紀ぶりの公開である<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ4G5648J4GPLZB00S.html 「京都・法界寺、半世紀ぶりの秘仏 文化財特別公開」](朝日新聞、2016年4月26日)</ref>。
薬師堂(本堂、重文)-1904年(明治37年)、[[奈良県]][[斑鳩町]]竜田にあった伝燈寺の本堂を移築したもの。棟札から[[室町時代]]、[[康正]]2年([[1456年]])の建築だと分かる。上述の伝燈寺は[[龍田神社]]の神宮寺であったが現在は廃絶している。本瓦葺寄、内部は内陣が格天井、内陣が折上格天井である。本尊の秘仏・薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作。高さ88cm、桜材の寄木造。右手を施無畏印、左手を右手の高さ近くま持ち上げて薬壺を持つ。秘仏だったため着衣の切金模様がよく残っている。桜材を用いるのはこの時代では珍しい。胎内小像を納めていから、胎児を宿す婦人姿あるとして妊産婦からの信仰を集め安産や授乳のご利益をもつ「乳薬師」として古くから信仰を集めている。現在も薬師堂の格子戸には全国各地の母親から、願い事が書かれたよだれ掛けが奉納され、内側が見えないほどである。脇侍として[[日光菩薩|日光]]・[[月光菩薩]](鎌倉時代の作)が同じ厨子に安置されている。厨子の正面には鏡が貼り付けられているため開かず、拝観は横からのみである。本尊を安置する厨子の左右にはさらに2つの厨子があり、鎌倉時代の十二神将像(重文)が6体ずつ安置されている。像高60cm余りの像であるが躍動感に富み、頭にはそれぞれ十二支のを象った彫り物が付いている(本尊、十二神将ともに非公開)。薬師如来立像は秘仏であるが、2016年4月29日 - 同年5月8日まで、「京都非公開文化財特別公開」の一環として開扉された。新聞報道等によれば、51年ぶりの公開である<ref>[http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai2016haru.pdf 公益財団法人 京都古文化保存協会 平成28年度 春期京都非公開文化財特別公開開催のお知らせ]([[PDF]])</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ4G5648J4GPLZB00S.html 「京都・法界寺、半世紀ぶりの秘仏 文化財特別公開」](朝日新聞、2016年4月26日)</ref>。


阿弥陀堂(国宝)- [[鎌倉時代]]初期の建築。[[承久]]3年([[1221年]])の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定される。方五間(間口、奥行ともに柱間の数が5間)の堂の周囲に1間の裳階(もこし)をめぐらした形で、屋根は宝形造(ピラミッド形)で檜皮葺きである。内陣の柱や長押上の小壁には創建当時の絵画が残る。
阿弥陀堂(国宝)- [[鎌倉時代]]初期の建築。[[承久]]3年([[1221年]])の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定される。方五間(間口、奥行ともに柱間の数が5間)の堂の周囲に1間の裳階(もこし)をめぐらした形で、屋根は宝形造(ピラミッド形)で檜皮葺きである。内陣の柱や長押上の小壁には創建当時の絵画が残る。
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== 年中行事 ==
== 年中行事 ==
日野の裸踊り(1月14日) - 京都市登録無形民俗文化財
日野の裸踊り(1月14日) - 京都市登録無形民俗文化財。阿弥陀堂広縁で、少年・青壮年の2組に別れ、裸で両手を合わせて「頂礼、頂礼」ともみ合う奇習。


== 所在地・アクセス ==
== 所在地・アクセス ==

2016年5月4日 (水) 14:42時点における版

法界寺

阿弥陀堂(左手前、国宝)と薬師堂(右手奥)
所在地 京都府京都市伏見区日野西大道町19
位置 北緯34度56分2.96秒 東経135度48分53.7秒 / 北緯34.9341556度 東経135.814917度 / 34.9341556; 135.814917座標: 北緯34度56分2.96秒 東経135度48分53.7秒 / 北緯34.9341556度 東経135.814917度 / 34.9341556; 135.814917
山号 東光山
宗派 真言宗醍醐派
寺格 別格本山
本尊 薬師如来(重要文化財)
創建年 永承6年(1051年
開基 日野資業、最澄
別称 日野薬師乳薬師
札所等 西国薬師四十九霊場38番
通称寺の会
文化財 阿弥陀堂、阿弥陀如来坐像(国宝)
本堂、木造薬師如来立像、木造十二神将立像、阿弥陀堂内装飾画(重要文化財)
法人番号 5130005002164 ウィキデータを編集
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薬師堂
阿弥陀堂
阿弥陀如来坐像

法界寺(ほうかいじ)は、京都市伏見区日野にある真言宗醍醐派別格本山の寺院。山号を東光山と称する。本尊は薬師如来(秘仏)、開基は伝教大師最澄とされている。藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像を有することでも知られる。

歴史

法界寺は、醍醐寺の南方、宇治市との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は、『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。日野家は藤原北家の一族で、儒学歌道をよくした家柄である。

平安時代後期の永承6年(1051年)、もと文章博士で後に出家した日野資業が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、資業から4代前の家祖・藤原家宗から代々伝わる、伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入したという。

寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、家宗が弘仁13年(822年)、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとするものである。

その後、平安後期の阿弥陀信仰の高まりや末法思想の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。当時は幾つかお堂があったが、現存するのは阿弥陀堂のみである。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。

なお、浄土真宗の開祖である親鸞は、承安3年(1173年)に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。

伽藍

薬師堂(本堂、重文)-1904年(明治37年)、奈良県斑鳩町竜田にあった伝燈寺の本堂を移築したもの。棟札から室町時代康正2年(1456年)の建築だと分かる。上述の伝燈寺は龍田神社の神宮寺であったが現在は廃絶している。本瓦葺寄、内部は内陣が格天井、内陣が折上格天井である。本尊の秘仏・薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作。高さ88cm、桜材の寄木造。右手を施無畏印、左手を右手の高さ近くまで持ち上げて薬壺を持つ。秘仏だったため、着衣の切金模様がよく残っている。桜材を用いるのはこの時代では珍しい。胎内に小像を納めていることから、胎児を宿す婦人の姿あるとして妊産婦からの信仰を集め、安産や授乳のご利益をもつ「乳薬師」として古くから信仰を集めている。現在も薬師堂の格子戸には全国各地の母親から、願い事が書かれたよだれ掛けが奉納され、内側が見えないほどである。脇侍として日光月光菩薩(鎌倉時代の作)が同じ厨子に安置されている。厨子の正面には鏡が貼り付けられているため開かず、拝観は横からのみである。本尊を安置する厨子の左右にはさらに2つの厨子があり、鎌倉時代の十二神将像(重文)が6体ずつ安置されている。像高60cm余りの像であるが躍動感に富み、頭にはそれぞれ十二支のを象った彫り物が付いている(本尊、十二神将ともに非公開)。薬師如来立像は秘仏であるが、2016年4月29日 - 同年5月8日まで、「京都非公開文化財特別公開」の一環として開扉された。新聞報道等によれば、51年ぶりの公開である[1][2]

阿弥陀堂(国宝)- 鎌倉時代初期の建築。承久3年(1221年)の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定される。方五間(間口、奥行ともに柱間の数が5間)の堂の周囲に1間の裳階(もこし)をめぐらした形で、屋根は宝形造(ピラミッド形)で檜皮葺きである。内陣の柱や長押上の小壁には創建当時の絵画が残る。

文化財

国宝

  • 阿弥陀堂-既述
  • 木造阿弥陀如来坐像-11世紀末頃の作。阿弥陀堂の本尊。像高2.8メートル。仏師定朝の様式を受けた定朝様(よう)の阿弥陀像の典型的な作品。

重要文化財

  • 本堂
  • 木造薬師如来立像
  • 木造十二神将立像
  • 阿弥陀堂内装飾画[3]
    • 阿弥陀如来並坐像 8面
    • 飛天図 10面
    • 飛行火舎・華盤・楽器図 5面
    • 宝相華文(笈形)24面
      • (以上土壁著色)
    • 金剛界諸尊・十二天・迦陵頻伽像(四天柱)4本
      • (以上板絵著色)
    内陣長押上の小壁に描かれた23面(阿弥陀如来並坐像8面、飛天図10面、飛行火舎・華盤・楽器図5面)と、その上部の壁に描かれた宝相華文24面は、板壁でなく土壁に描かれた壁画として日本における稀少な例の1つである。四天柱(仏壇周囲に立つ4本の柱を指す)にも、金剛界曼荼羅の諸仏や、十二天迦陵頻伽などの絵画が残っているが、剥落・褪色が甚だしい。

札所

年中行事

日野の裸踊り(1月14日) - 京都市登録無形民俗文化財。阿弥陀堂広縁で、少年・青壮年の2組に別れ、裸で両手を合わせて「頂礼、頂礼」ともみ合う奇習。

所在地・アクセス

京都府京都市伏見区日野西大道町19

開門時間
  • 9時~17時(10~3月は、9時~16時)
交通アクセス

脚注

  1. ^ 公益財団法人 京都古文化保存協会 平成28年度 春期京都非公開文化財特別公開開催のお知らせPDF
  2. ^ 「京都・法界寺、半世紀ぶりの秘仏 文化財特別公開」(朝日新聞、2016年4月26日)
  3. ^ 文化庁公式サイトの「国指定文化財等データベース」では本件の名称が「弥陀堂内装飾画(板絵著色)」となっているが、「弥陀堂」は「阿弥陀堂」の誤り。また、「板絵著色」のみでなく「土壁著色」の部分もある。

参考文献

  • 井上靖、塚本善隆監修、山崎正和、岩城秀雄著『古寺巡礼京都29 法界寺』、淡交社、1978
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』73号(三宝院・法界寺・歓喜光寺)、朝日新聞社、1998
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館

周辺情報

関連項目

外部リンク