「ゲンリフ・ネイガウス」の版間の差分
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2016年7月18日 (月) 09:45時点における版
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ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス(Heinrich Gustavovich Neuhaus(z), ロシア語:Генрих Густавович Нейгауз, 1888年4月12日 - 1964年10月10日)はソ連のピアニスト・音楽教師。
ウクライナのドイツ系(またはスウェーデン系)の家庭に生まれる。ドイツ語風の氏名ハインリヒ・ノイハウス/ネイガウス(Heinrich Neuhaus)をキリル文字に綴り換えて文字通りに読むと、ヘンリフ・ネイハウス、ゲンリフ・ネイガウスとなる。英語圏ではHenry Neighausと表記される場合もある。
経歴
ウクライナのエリザヴェトグラード(現キロヴォフラード)出身。両親ともにピアノ教師であったが、ほとんど独学であった。早期の芸術的な発展において、又従兄カロル・シマノフスキや、叔父のフェリックス・ブルーメンフェルトから最も影響を受けた。1902年にエリザヴェトグラードにおいて、11歳のミッシャ・エルマンと共演してリサイタルを行い、1904年にドイツに行き、ドルトムントやボン、ケルン、ベルリンなどで演奏旅行を行なった。その後ベルリンでレオポルト・ゴドフスキーに入門し、1909年から第一次世界大戦の勃発まで、ウィーン音楽院のマスタークラスに参加した。
1914年にエリザヴェトグラードで指導を開始し、後にティフリスやキエフでも教鞭を執った。この頃に、教育活動への興味から演奏活動を止める。1922年にモスクワ音楽院教授となり1935年から1937年まで院長も務めた。1956年にロシア人民芸術家に選ばれた。門人にヤコフ・ザーク、エミール・ギレリス、アナトリー・ヴェデルニコフ、スヴャトスラフ・リヒテル、スタニスラフ・ネイガウス、ラドゥ・ルプー、アントン・ギンスブルクがいる。
ネイガウスは、詩的な魅力を湛えた演奏や、芸術的な洗練、該博な教養ゆえに幅広く称賛されてきた。著書『ピアノ奏法論』(1958年)は、この問題を扱った本の中で最もよく読まれ、かつ重用されている。
関連項目
- グスタフ・ネイガウス - 父。カロル・シマノフスキの恩師。
- マリア・ネイガウス - 母。カロル・シマノフスキの父スタニスワフ・シマノフスキの従姉妹。
- スタニスラフ・ネイガウス - 息子。
- スタニスラフ・ブーニン - 孫。