「稲葉紀通」の版間の差分
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田丸藩初代藩主[[稲葉道通]]の次男。慶長12年([[1607年]])、父の死去により家督を継ぎ田丸藩主となる。慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]で初陣した。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])、摂津中島4万5700石へ移封される。[[寛永]]元年([[1624年]])には丹波福知山へ移封された。しかし福知山では、狩りの獲物が得られなかったとして近隣の村民60人を殺害するなど、幕閣にも狂気の行いが知られるようになった。さらに福知山城の空堀に水を満たすなど、様々な不調法があったとして、[[慶安]]元年(1648年)8月18日には江戸に参府して弁明を行うよう命ずる奉書が出された。幕府は近隣大名に動員準備を命ずるなど緊迫する中、紀通は8月20日に[[福知山城]]中にて自殺して果てた。享年46。福知山藩稲葉家も改易となった。 |
田丸藩初代藩主[[稲葉道通]]の次男。慶長12年([[1607年]])、父の死去により家督を継ぎ田丸藩主となる。慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]で初陣した。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])、摂津中島4万5700石へ移封される。[[寛永]]元年([[1624年]])には丹波福知山へ移封された。しかし福知山では、狩りの獲物が得られなかったとして近隣の村民60人を殺害するなど、幕閣にも狂気の行いが知られるようになった。さらに福知山城の空堀に水を満たすなど、様々な不調法があったとして、[[慶安]]元年(1648年)8月18日には江戸に参府して弁明を行うよう命ずる奉書が出された。幕府は近隣大名に動員準備を命ずるなど緊迫する中、紀通は8月20日に[[福知山城]]中にて自殺して果てた。享年46。福知山藩稲葉家も改易となった。 |
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[[徳川実紀]]や[[寛政重修諸家譜]]では、紀通に謀叛の疑いがあると近隣の大名が江戸に急報し、藩境や城下に他家の兵が配備される騒ぎとなったことを記している。[[藩翰譜]]では、 |
[[徳川実紀]]や[[寛政重修諸家譜]]では、紀通に謀叛の疑いがあると近隣の大名が江戸に急報し、藩境や城下に他家の兵が配備される騒ぎとなったことを記している。[[藩翰譜]]では、移封直後に殺害した家臣2名の家族がこれを恨みに思い、謀叛を訴え出たことや、[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]主[[京極高広]]との鰤をめぐる争いなどを記している。この中では紀通自身が京極家の飛脚を狙撃しようとし、誤って他家の飛脚を殺害したことが謀叛騒ぎの原因であったという説を記している。紀通の死因は徳川実紀などでは[[切腹]]であるとされているが、[[土佐藩]]主[[山内忠豊]]が家臣に送った書状では、鉄砲自殺となっている。 |
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なお、嫡男の[[稲葉大助]]は8月25日に[[稲葉正則]]に預けられた。翌年3月6日に許され、稲葉家の財産を受け継いだが、慶安4年([[1651年]])に[[疱瘡]]で4歳で没し、家名断絶となった。 |
なお、嫡男の[[稲葉大助]]は8月25日に[[稲葉正則]]に預けられた。翌年3月6日に許され、稲葉家の財産を受け継いだが、慶安4年([[1651年]])に[[疱瘡]]で4歳で没し、家名断絶となった。 |
2016年7月20日 (水) 08:28時点における版
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長8年(1603年) |
死没 | 慶安元年8月20日(1648年10月6日) |
戒名 | 顕竜院殿胸雲詐晴大居士 |
墓所 | 京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺雑華院 |
官位 | 従五位下、淡路守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢田丸藩主→摂津中島藩主→丹波福知山藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 父:稲葉道通、母:日根野盛就の娘 |
子 | 稲葉大助、娘(松平勝則正室)、娘(稲葉通任正室) |
稲葉 紀通(いなば のりみち)は、伊勢田丸藩の第2代藩主。摂津中島藩主。丹波福知山藩主。
生涯
田丸藩初代藩主稲葉道通の次男。慶長12年(1607年)、父の死去により家督を継ぎ田丸藩主となる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣した。元和2年(1616年)、摂津中島4万5700石へ移封される。寛永元年(1624年)には丹波福知山へ移封された。しかし福知山では、狩りの獲物が得られなかったとして近隣の村民60人を殺害するなど、幕閣にも狂気の行いが知られるようになった。さらに福知山城の空堀に水を満たすなど、様々な不調法があったとして、慶安元年(1648年)8月18日には江戸に参府して弁明を行うよう命ずる奉書が出された。幕府は近隣大名に動員準備を命ずるなど緊迫する中、紀通は8月20日に福知山城中にて自殺して果てた。享年46。福知山藩稲葉家も改易となった。
徳川実紀や寛政重修諸家譜では、紀通に謀叛の疑いがあると近隣の大名が江戸に急報し、藩境や城下に他家の兵が配備される騒ぎとなったことを記している。藩翰譜では、移封直後に殺害した家臣2名の家族がこれを恨みに思い、謀叛を訴え出たことや、丹後宮津藩主京極高広との鰤をめぐる争いなどを記している。この中では紀通自身が京極家の飛脚を狙撃しようとし、誤って他家の飛脚を殺害したことが謀叛騒ぎの原因であったという説を記している。紀通の死因は徳川実紀などでは切腹であるとされているが、土佐藩主山内忠豊が家臣に送った書状では、鉄砲自殺となっている。
なお、嫡男の稲葉大助は8月25日に稲葉正則に預けられた。翌年3月6日に許され、稲葉家の財産を受け継いだが、慶安4年(1651年)に疱瘡で4歳で没し、家名断絶となった。
参考文献
関連項目