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「クロタール1世 (フランク王)」の版間の差分

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[[画像:ClotaireIer Jean de Tillet-Recueil des rois de France.jpg|thumb|right|クロタール1世]]
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'''クロタール1世'''('''Clothar I''', [[497年]] - [[561年]][[11月29日]]、在位:511年 - 561年、単独王としての在位:[[558年]] - 561年)は、[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の創始者[[クロヴィス1世]]の息子の一人。4人の息子の中で最も長命であり、クロヴィスの死後に息子たちへ分割相続された王国は、再び彼のもとで統一された。
'''クロタール1世'''('''Clothar I''', [[497年]] - [[561年]][[11月29日]]、在位:511年 - 561年、単独王としての在位:[[558年]] - 561年)は、[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の創始者[[クロヴィス1世]]の息子の一人。4人の息子の中で最も長命であり、クロヴィスの死後に息子たちへ分割相続された王国は、再び彼のもとで統一された。


==生涯==
== 生涯 ==
[[497年]]に[[ソワソン]]にて生まれる。[[511年]]に父王クロヴィスが没すると、フランク王国はクロヴィスの息子である彼の他に、長子[[テウデリク]]、[[クロドメール]]、[[キルデベルト1世|キルデベルト]]によって分割された。その中でクロタールはソワソンを本拠とし、[[ラン (フランス)|ラン]]、[[ノワイヨン]]、[[カンブレー]]、[[マーストリヒト]]および[[マース川]]下流域を抑える。しかしながら野心ある彼は自分の領地の拡大を努める事となる。
[[497年]]に[[ソワソン]]にて生まれる。[[511年]]に父王クロヴィスが没すると、フランク王国はクロヴィスの息子である彼の他に、長子[[テウデリク]]、[[クロドメール]]、[[キルデベルト1世|キルデベルト]]によって分割された。その中でクロタールはソワソンを本拠とし、[[ラン (フランス)|ラン]]、[[ノワイヨン]]、[[カンブレー]]、[[マーストリヒト]]および[[マース川]]下流域を抑える。しかしながら野心ある彼は自分の領地の拡大を努める事となる。


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フランク王となったクロタールはゲルマニアの大部分を支配下におさめ、[[ザクセン州|ザクセン]]へ進攻、[[サクソン人]]に対して年に500頭の牛の上納を要求する。彼の晩年は息子[[クラム]](Chram, Chlam)が幾度も対立するなど、内部の不和に悩まされる。クラムを追撃し[[ブルターニュ]]まで追い詰めたクロタールはクラムを妻子ともども小屋に閉じ込め、火をかけ焼き殺したと言う。しかし息子の殺害に自責の念を駆られたクロタールは贖罪を請うためにトゥールにある[[トゥールのマルティヌス|聖マルタン]]の墓を詣で、ほどなくして没した。
フランク王となったクロタールはゲルマニアの大部分を支配下におさめ、[[ザクセン州|ザクセン]]へ進攻、[[サクソン人]]に対して年に500頭の牛の上納を要求する。彼の晩年は息子[[クラム]](Chram, Chlam)が幾度も対立するなど、内部の不和に悩まされる。クラムを追撃し[[ブルターニュ]]まで追い詰めたクロタールはクラムを妻子ともども小屋に閉じ込め、火をかけ焼き殺したと言う。しかし息子の殺害に自責の念を駆られたクロタールは贖罪を請うためにトゥールにある[[トゥールのマルティヌス|聖マルタン]]の墓を詣で、ほどなくして没した。


==王国の分割==
== 王国の分割 ==
クロタール1世の死後、再び帝国は長子[[カリベルト1世|カリベルト]]、次子[[グントラム (ブルグント王)|グントラム]]、第三子[[シギベルト1世|シギベルト]]、末子[[キルペルク1世|キルペリク]]によって分割された。まもなくカリベルトが死去したことで、その領域は残った3つの分王国によって再分割され、[[アウストラシア]]、[[ネウストリア]]、[[ブルグンディア]]が鼎立する状況が形成された。
クロタール1世の死後、再び帝国は長子[[カリベルト1世|カリベルト]]、次子[[グントラム (ブルグント王)|グントラム]]、第三子[[シギベルト1世|シギベルト]]、末子[[キルペルク1世|キルペリク]]によって分割された。まもなくカリベルトが死去したことで、その領域は残った3つの分王国によって再分割され、[[アウストラシア]]、[[ネウストリア]]、[[ブルグンディア]]が鼎立する状況が形成された。


==子女==
== 子女 ==
最初に、ブルグンド王ゴドマール2世の娘で兄[[クロドメール]]の寡婦グンテウカと結婚、子供はなかった。
最初に、ブルグンド王ゴドマール2世の娘で兄[[クロドメール]]の寡婦グンテウカと結婚、子供はなかった。


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五度目に、クンジナと結婚、1男をもうけた。
五度目に、クンジナと結婚、1男をもうけた。
* クラム(? - 561年) - アキテーヌ公
* クラム(? - 561年) - アキテーヌ公

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==

== 関連項目 ==
*[[フランク王の一覧]]


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2016年10月28日 (金) 16:29時点における版

クロタール1世

クロタール1世Clothar I, 497年 - 561年11月29日、在位:511年 - 561年、単独王としての在位:558年 - 561年)は、メロヴィング朝フランク王国の創始者クロヴィス1世の息子の一人。4人の息子の中で最も長命であり、クロヴィスの死後に息子たちへ分割相続された王国は、再び彼のもとで統一された。

生涯

497年ソワソンにて生まれる。511年に父王クロヴィスが没すると、フランク王国はクロヴィスの息子である彼の他に、長子テウデリククロドメールキルデベルトによって分割された。その中でクロタールはソワソンを本拠とし、ランノワイヨンカンブレーマーストリヒトおよびマース川下流域を抑える。しかしながら野心ある彼は自分の領地の拡大を努める事となる。

524年、彼は自分の兄弟クロドメールの息子を殺害させるよう扇動しトゥールポワティエを奪取、そしてブルグンドへ数々の侵攻を試みる。534年にブルグンドを滅亡させ、グルノーブルディ周辺の地域を支配下におさめる。

東ゴート王国よりプロヴァンス地方の割譲を受けると彼はその割譲分の中からオランジュカルパントラギャップを勢力下にする。531年に自らの甥テウデベルトとともにテューリンゲンに遠征、542年には兄キルデベルトとともに西ゴート王国へと侵攻する。そして555年甥の息子テオデバルドの死去にともなってクロタールはその領地を併合、558年に兄キルデベルトが没するとフランク王国を再併合、単独のフランク王となった。

フランク王となったクロタールはゲルマニアの大部分を支配下におさめ、ザクセンへ進攻、サクソン人に対して年に500頭の牛の上納を要求する。彼の晩年は息子クラム(Chram, Chlam)が幾度も対立するなど、内部の不和に悩まされる。クラムを追撃しブルターニュまで追い詰めたクロタールはクラムを妻子ともども小屋に閉じ込め、火をかけ焼き殺したと言う。しかし息子の殺害に自責の念を駆られたクロタールは贖罪を請うためにトゥールにある聖マルタンの墓を詣で、ほどなくして没した。

王国の分割

クロタール1世の死後、再び帝国は長子カリベルト、次子グントラム、第三子シギベルト、末子キルペリクによって分割された。まもなくカリベルトが死去したことで、その領域は残った3つの分王国によって再分割され、アウストラシアネウストリアブルグンディアが鼎立する状況が形成された。

子女

最初に、ブルグンド王ゴドマール2世の娘で兄クロドメールの寡婦グンテウカと結婚、子供はなかった。

二度目に、チューリンゲン王ベルタカリウスの娘ラデグンドと結婚(のち離婚、修道女となる)、子供はなかった。

三度目に、チューリンゲン王女イングンドと結婚、5男2女が生まれた。

四度目に、イングンドの妹アレグンドと結婚、1男をもうけた。

五度目に、クンジナと結婚、1男をもうけた。

  • クラム(? - 561年) - アキテーヌ公

脚注

参考文献

関連項目

先代
クロヴィス1世
フランク
2代
558 - 561
次代
クロタール2世