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「烏雅束」の版間の差分

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『[[遼史]]』、『[[金史]]』によると、[[1103年]](乾統3年)の冬10月29日に叔父の穆宗・[[盈歌]](インコ、字は烏魯完。烏古廼の五男)が51歳で没すると、その跡を継いで首長となった。彼は、弟の阿骨打と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。[[1113年]]に53歳で病没し、弟の阿骨打が後を継いだ。
『[[遼史]]』、『[[金史]]』によると、[[1103年]](乾統3年)の冬10月29日に叔父の穆宗・[[盈歌]](インコ、字は烏魯完。烏古廼の五男)が51歳で没すると、その跡を継いで首長となった。彼は、弟の阿骨打と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。[[1113年]]に53歳で病没し、弟の阿骨打が後を継いだ。


また、『金史』によると、女真完顔部の先祖は[[朝鮮]]北部から移住して来た黒水[[靺鞨]]の一部族長であった函普(諡号は始祖)だったという。やがて、烏魯(ウル、諡号は徳帝)・跋海(諡号は安帝)・綏可(諡号は献祖)・石魯(諡号は昭祖)…そして祖父・烏古廼まで父子相続が世襲されたという。あとは父の劾里鉢(烏古廼の次男)、叔父の頗剌淑(諡号は肅宗、烏古廼の四男)、盈歌まで続き、烏雅束に首長の座が回って来たのである。
また、『金史』によると、女真完顔部の先祖は[[朝鮮]]北部から移住して来た黒水[[靺鞨]]の一部族長であった[[函普]](諡号は始祖)だったという。やがて、烏魯(ウル、諡号は徳帝)・跋海(諡号は安帝)・綏可(諡号は献祖)・石魯(諡号は昭祖)…そして祖父・烏古廼まで父子相続が世襲されたという。あとは父の劾里鉢(烏古廼の次男)、叔父の頗剌淑(諡号は肅宗、烏古廼の四男)、盈歌まで続き、烏雅束に首長の座が回って来たのである。


[[1144年]]([[皇統 (金)|皇統]]4年)に[[熙宗 (金)|熙宗]]から'''献敏恭簡皇帝'''の[[諡号]]を贈られ、翌[[1145年]](皇統5年)に改めて喬陵に厚葬されたという。
[[1144年]]([[皇統 (金)|皇統]]4年)に[[熙宗 (金)|熙宗]]から'''献敏恭簡皇帝'''の[[諡号]]を贈られ、翌[[1145年]](皇統5年)に改めて喬陵に厚葬されたという。

2016年11月30日 (水) 08:28時点における版

烏雅束(うがそく、女真音;ウヤス、清寧7年(1061年) - 天慶3年(1113年))は、女真完顔(ジュルチン・ワンヤン)部の10代目の首長。中国名は不明。毛路完廟号康宗

金の初代皇帝、太祖・阿骨打の長兄で、景祖・烏古廼の孫、世祖・劾里鉢(ガリベチ)の長男。

遼史』、『金史』によると、1103年(乾統3年)の冬10月29日に叔父の穆宗・盈歌(インコ、字は烏魯完。烏古廼の五男)が51歳で没すると、その跡を継いで首長となった。彼は、弟の阿骨打と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。1113年に53歳で病没し、弟の阿骨打が後を継いだ。

また、『金史』によると、女真完顔部の先祖は朝鮮北部から移住して来た黒水靺鞨の一部族長であった函普(諡号は始祖)だったという。やがて、烏魯(ウル、諡号は徳帝)・跋海(諡号は安帝)・綏可(諡号は献祖)・石魯(諡号は昭祖)…そして祖父・烏古廼まで父子相続が世襲されたという。あとは父の劾里鉢(烏古廼の次男)、叔父の頗剌淑(諡号は肅宗、烏古廼の四男)、盈歌まで続き、烏雅束に首長の座が回って来たのである。

1144年皇統4年)に熙宗から献敏恭簡皇帝諡号を贈られ、翌1145年(皇統5年)に改めて喬陵に厚葬されたという。

なお、金の最後の皇帝である末帝・承麟(女真名は呼敦)は烏雅束の後裔と伝わる[1]

脚注

  1. ^ 続資治通鑑』より。