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「ふそう銀行」の版間の差分

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== 沿革 ==
== 沿革 ==
* 1942年 共済無尽(1913年に共済金融として設立)と相愛無尽(1914年に雲拍無尽として[[島根県]]で設立され、1921年に鳥取県内に移転し山陰共栄無尽に、1926年に相愛無尽にそれぞれ改称)が合併し、鳥取無尽を設立。本店は倉吉町(現:倉吉市)に置く。
* [[1942年]] - 共済無尽(1913年に共済金融として設立)と相愛無尽(1914年に雲拍無尽として[[島根県]]で設立され、1921年に鳥取県内に移転し山陰共栄無尽に、1926年に相愛無尽にそれぞれ改称)が合併し、鳥取無尽を設立。本店は倉吉町(現:倉吉市)に置く。
* 1951年10月 相互銀行転換に伴い扶桑相互銀行に改称。
* [[1951年]]10月 - 相互銀行転換に伴い扶桑相互銀行に改称。
* 1989年4月 普通銀行転換に伴いふそう銀行に改称。
* [[1989年]]4月 - 普通銀行転換に伴いふそう銀行に改称。
* 1991年4月 山陰合同銀行に吸収合併。
* [[1991年]]4月 - 山陰合同銀行に吸収合併。


== 合併後の店舗の処遇 ==
== 合併後の店舗の処遇 ==
ここでは単なる支店同士の統合(合併以前からの山陰合同銀行店舗との統合)は記述しない<ref>山陰合同銀行50年史より。</ref>。
ここでは単なる支店同士の統合(合併以前からの山陰合同銀行店舗との統合)は記述しない<ref>山陰合同銀行五十年史より。</ref>。
* 本店は合併から1998年ごろまで山陰合同銀行ふそう営業部(後の鳥取中央営業部)となるが、近隣に存在した鳥取支店と統合し鳥取営業部となった。
本店は合併から1998年ごろまで山陰合同銀行ふそう営業部(後の鳥取中央営業部)となるが、近隣に存在した鳥取支店と統合し鳥取営業部となった。

* 鳥取駅前支店など11店舗は住友銀行[[岡山市|岡山支店]]傘下の出張所になっ。また同様の手法で旧店舗を他の近隣の店舗に統合せずに都市銀行へ営業譲渡した事例は全国的に存在する
鳥取駅前支店など11店舗は住友銀行[[岡山市|岡山支店]]傘下の出張所とされが、地銀や相銀店舗の廃止等を進める場合、近隣の店舗に統合せずに、[[都市銀行]][[営業譲渡]]した事例は、当時、全国的にまま見られた
* 山陰合同銀が合併によって鳥取県において、高シェアを握ることになるため[[公正取引委員会]]の措置に基づき、[[三朝町|三朝]]支店や田園町支店などは[[鳥取銀行]]に譲渡した。

* 1990年代後半から2000年代中盤まで存在した店舗外ATMコーナー扱いであるアミィ○○出張所は、かつてのふそう銀行店舗跡にあったATMコーナーのことである。
山陰合同銀が合併によって鳥取県において[[寡占]]化が進むため、[[大蔵省]]や[[公正取引委員会]]からの指導によって、合併後の[[1991年]]9月から同年11月にかけ、ふそう銀の田園町、御来屋、[[三朝町|三朝]]の各支店は[[鳥取銀行]]に譲渡され、順次、同行の田園町、[[名和町|名和]]、三朝各支店として営業を開始した<ref>「山陰合同銀行が鳥取銀行に3支店を譲渡 寡占化解消へ」『読売新聞大阪本社朝刊』 1991年7月23日</ref>。また、1990年代後半から2000年代中盤まで存在した店舗外ATMコーナー扱いであるアミィ○○出張所は、かつてのふそう銀行店舗跡にあったATMコーナーのことである。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 山陰合同銀行五十年史編纂室編 『山陰合同銀行五十年史』山陰合同銀行、1992年。
* 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514
* 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514



2016年12月28日 (水) 12:19時点における版

ふそう銀行(ふそうぎんこう)は、鳥取県鳥取市に本店を置いていた第二地方銀行である。統一金融機関コードは0563であった。 1991年4月山陰合同銀行に吸収合併された。

住友銀行の親密第二地銀であった。

概要

1942年、共済無尽と相愛無尽の合併によって鳥取無尽として発足。県当局や社内では鳥取市に本店を設ける声が大勢を占めたが、当初本店は倉吉町(現:倉吉市)に置かれ、1944年、鳥取市に移転した。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い扶桑相互銀行に商号を変更した。

1958年、住友銀行からの支援を受けつつ、膨大な不良債権の処理にあたり、組織風土の改革に取り組み、岡山のほか、大阪、姫路、広島、神戸などに店舗網を広げ、業容の伸長を希求した[1]。しかし、金融の自由化が進展する中において、資金調達力が弱く、預金調達コストが他行より高かったため、多極分散型の経営は足かせとなり、さらに融資先の経営破綻や株式や債券市場の暴落によって含み損も増加した。それでも1989年4月には、普銀転換に漕ぎつけ、ふそう銀行として出発するが、1990年9月、親密先であった住友銀が山陰合同銀に合併を申し入れ[1]1991年4月、同行に吸収合併された。

沿革

  • 1942年 - 共済無尽(1913年に共済金融として設立)と相愛無尽(1914年に雲拍無尽として島根県で設立され、1921年に鳥取県内に移転し山陰共栄無尽に、1926年に相愛無尽にそれぞれ改称)が合併し、鳥取無尽を設立。本店は倉吉町(現:倉吉市)に置く。
  • 1951年10月 - 相互銀行転換に伴い扶桑相互銀行に改称。
  • 1989年4月 - 普通銀行転換に伴いふそう銀行に改称。
  • 1991年4月 - 山陰合同銀行に吸収合併。

合併後の店舗の処遇

ここでは単なる支店同士の統合(合併以前からの山陰合同銀行店舗との統合)は記述しない[2]。 本店は合併から1998年ごろまで山陰合同銀行ふそう営業部(後の鳥取中央営業部)となるが、近隣に存在した鳥取支店と統合し鳥取営業部となった。

鳥取駅前支店など11店舗は住友銀行岡山支店傘下の出張所とされたが、地銀や相銀が店舗の廃止等を進める場合、近隣の店舗に統合せずに、都市銀行営業譲渡した事例は、当時、全国的にまま見られた。

山陰合同銀が合併によって鳥取県において寡占化が進むため、大蔵省公正取引委員会からの指導によって、合併後の1991年9月から同年11月にかけ、ふそう銀の田園町、御来屋、三朝の各支店は鳥取銀行に譲渡され、順次、同行の田園町、名和、三朝各支店として営業を開始した[3]。また、1990年代後半から2000年代中盤まで存在した店舗外ATMコーナー扱いであるアミィ○○出張所は、かつてのふそう銀行店舗跡にあったATMコーナーのことである。

脚注

  1. ^ a b 『日本地方金融史』P 295
  2. ^ 『山陰合同銀行五十年史』より。
  3. ^ 「山陰合同銀行が鳥取銀行に3支店を譲渡 寡占化解消へ」『読売新聞大阪本社朝刊』 1991年7月23日

参考文献

  • 山陰合同銀行五十年史編纂室編 『山陰合同銀行五十年史』山陰合同銀行、1992年。
  • 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514

外部リンク