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「荒祭宮」の版間の差分

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'''荒祭宮'''(あらまつりのみや)は[[三重県]][[伊勢市]]宇治館町にある[[皇大神宮|内宮(皇大神宮)]]の境内別宮である<ref name="神宮便覧30">[[#神宮便覧(大正14)]]p.30『(宮名)<ruby><rb>荒</rb><rp>(</rp><rt>あら</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>祭</rb><rp>(</rp><rt>まつりの</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>宮</rb><rp>(</rp><rt>みや</rt><rp>)</rp></ruby>|(祭神)天照坐皇大御神荒御魂|(宮號宣下年月及鎮坐地)垂仁天皇二十六年九月皇大神宮域内』</ref>。
'''荒祭宮'''(あらまつりのみや)は[[三重県]][[伊勢市]]宇治館町にある[[皇大神宮|内宮(皇大神宮)]]の境内別宮である<ref name="神宮便覧30">[[#神宮便覧(大正14)]]p.30『(宮名)<ruby><rb>荒</rb><rp>(</rp><rt>あら</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>祭</rb><rp>(</rp><rt>まつりの</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>宮</rb><rp>(</rp><rt>みや</rt><rp>)</rp></ruby>|(祭神)天照坐皇大御神荒御魂|(宮號宣下年月及鎮坐地)垂仁天皇二十六年九月皇大神宮域内』</ref><ref name="神道大辞典1荒祭宮">[[#平凡辞典1937一巻|神道大辞典1巻]]コマ45(原本67頁)『'''アラマツリノミヤ''' 荒祭宮 皇大神宮の別宮。天照坐皇大御神の荒御魂を祀る。皇大神宮の神域内に鎭座。創立は本宮と同時代と傳へられ、『大神宮式』に月次、神嘗、神御衣祭に預かるとあり、皇大神宮別宮の首座たるを以て第一別宮とも稱し、崇敬特に篤く、年中恆例臨時の祭祀凡て本宮に次いで同日に行はれ、其の奉幣には勅使の参向あり、又各大祭には祭主、大少宮司以下奉仕す。尚本宮のみ神事ある場合は必ず宮域内拝所にて遙拝の儀を行ふ。古來當宮の神威靈驗と稱せらるるもの史上に屡〃見ゆ。延暦の頃は正殿に瑞垣、御門が附属し、又宿衛屋も二宇あつたが、宿衛屋は早く絶えた様である。又中古には御倉と忌火屋殿も建てられてゐた。正殿は古來校倉の如くに板を以て組み合せて壁として板倉の神明造であつたが、戰國時代にこの形式は失はれ、江戸時代以降はふつうの柱を持つ神明造となつた。現在では桁行二丈一尺二寸、梁行一丈四寸で、その形式は圖の如くである。 荒祭宮圖(側面)(正面)(平面)』</ref>。
[[祭神]]は[[天照大神|天照坐皇大御神荒御魂]](あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)<ref name="神宮便覧30"/>。
[[祭神]]は[[天照大神|天照坐皇大御神荒御魂]](あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)<ref name="神宮便覧30"/><ref name="矢野杜53荒祭宮">[[#矢野、杜|矢野、伊勢神宮]]53-54頁『荒御魂をまつる荒祭宮と多賀宮』</ref>。


第62回[[神宮式年遷宮]]([[2013年]])では、他の別宮に先駆けて[[10月10日]]午後8時に[[遷御]]が行われた<ref>{{cite news | url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20131011-OYT8T00088.htm|title=内宮別宮で遷御の儀| publisher=[[読売新聞]] |date=2013年10月11日 | accessdate=2013-10-15|archiveurl=http://megalodon.jp/2013-1015-0127-42/www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20131011-OYT8T00088.htm|archivedate=2013-10-15}}</ref>。
第62回[[神宮式年遷宮]]([[2013年]])では、他の別宮に先駆けて[[10月10日]]午後8時に[[遷御]]が行われた<ref>{{cite news | url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20131011-OYT8T00088.htm|title=内宮別宮で遷御の儀| publisher=[[読売新聞]] |date=2013年10月11日 | accessdate=2013-10-15|archiveurl=http://megalodon.jp/2013-1015-0127-42/www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20131011-OYT8T00088.htm|archivedate=2013-10-15}}</ref>。
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== 概要 ==
== 概要 ==
<!--[[Image:Jingu-sugi(Naiku) 01.JPG|thumb|120px|参道の[[神宮杉]]]]-->
<!--[[Image:Jingu-sugi(Naiku) 01.JPG|thumb|120px|参道の[[神宮杉]]]]-->
荒祭宮は内宮正宮北方にある<ref name="in">三橋(2013):104ページ</ref><ref name="伊勢年鑑22">[[#伊勢年鑑(昭和17)]]p.22『'''荒祭宮''' 荒祭宮は皇大神宮の北方神域内にあつて、天照坐皇大御神の荒御魂を奉斎する皇大神宮第一の別宮で、恒例、臨時の祭祀も亦本宮に引續きて執行せられ、勅使参内の祭典には勅使亦参内して官幣を奉納せらる。五月・十月兩度の神御衣祭の如きは皇大神宮と當宮に限りて行はれる。又神殿の構造・御装束神寶に至る迄本宮に亞いで最も完備して居る。當宮の創立は垂仁天皇二十六年倭姫命神宮を經營せられた時にかゝる。』</ref>。
荒祭宮は内宮正宮北方(御正宮の後方)にある<ref name="矢野杜53荒祭宮"/><ref name="in">三橋(2013):104ページ</ref><ref name="伊勢年鑑22">[[#伊勢年鑑(昭和17)]]p.22『'''荒祭宮''' 荒祭宮は皇大神宮の北方神域内にあつて、天照坐皇大御神の荒御魂を奉斎する皇大神宮第一の別宮で、恒例、臨時の祭祀も亦本宮に引續きて執行せられ、勅使参内の祭典には勅使亦参内して官幣を奉納せらる。五月・十月兩度の神御衣祭の如きは皇大神宮と當宮に限りて行はれる。又神殿の構造・御装束神寶に至る迄本宮に亞いで最も完備して居る。當宮の創立は垂仁天皇二十六年倭姫命神宮を經營せられた時にかゝる。』</ref>。
別宮とは「'''わけみや'''」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる<ref>[[#神宮便覧(大正14)]]p.25『概要 別宮トハ本宮ニ對シテ稱ヘ奉ル稱號ニシテ、神宮ノ格式上本宮ニ亞ギテ崇敬セラルヽ宮社ナリ。皇大神宮所属ノ別宮十所、豊受大神宮所属ノ別宮四所アリ。就中荒祭宮ハ皇大神ノ荒御魂ヲ奉齋シ、多賀宮ハ豊受大神ノ荒御魂ヲ齋キ奉レルヲ以テ特ニ之ヲ重ンジ、本宮ト同日ニ祭儀ヲ行ハレ且ツ直視モ参列セラル。瀧祭神ハ古來別宮ニ準シテ神饌ヲ供進シ奉レルニ依リ本項末ニ加フ。』</ref><ref name="伊勢年鑑22"/>。
別宮とは「'''わけみや'''」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる<ref name="神道大辞典1荒祭宮"/><ref>[[#神宮便覧(大正14)]]p.25『概要 別宮トハ本宮ニ對シテ稱ヘ奉ル稱號ニシテ、神宮ノ格式上本宮ニ亞ギテ崇敬セラルヽ宮社ナリ。皇大神宮所属ノ別宮十所、豊受大神宮所属ノ別宮四所アリ。就中荒祭宮ハ皇大神ノ荒御魂ヲ奉齋シ、多賀宮ハ豊受大神ノ荒御魂ヲ齋キ奉レルヲ以テ特ニ之ヲ重ンジ、本宮ト同日ニ祭儀ヲ行ハレ且ツ直視モ参列セラル。瀧祭神ハ古來別宮ニ準シテ神饌ヲ供進シ奉レルニ依リ本項末ニ加フ。』</ref>
荒祭宮を「[[荒魂]]を祭る宮」の意味とするのが定説である<ref>[[#伊勢参宮案内]]p.30『荒祭宮(あらまつりのみや) 大神様の荒御魂(あらみたま)、正殿の後方の丘にある。』</ref><ref>[[#広池国体|伊勢神宮と我国体]]コマ124(原本77頁)『皇大神宮○別宮九所 荒祭宮 皇大神宮内{大神宮の<ruby><rb>荒魂</rb><rt>アラタマ</rt></ruby>を祀る、荒魂とは<ruby><rb>和魂</rb><rt>ニギタマ</rt></ruby>に對して云ふ語にして、一言に云へば此<ruby><rb>和</rb><rt>ニギ</rt></ruby>と<ruby><rb>荒</rb><rt>アラ</rt></ruby>とは文武を掌るミタマと云ふ如きことなり}』</ref><ref name="高松宮2巻400">[[#高松宮日記2巻]]400頁『九月十七日〇八〇〇出艦。〇八二五ノ予定ガ〇八三五上陸。伊勢両宮に参拝。時節柄、特に荒祭宮に拝せむかと心構へしてゐたるも、入港して見たる新聞に遷坐、宮の屋根を修復する由の記事ありしかば、話しもせずおきたる旨[[慶光院]]に語り〔し〕ところ、まことにおそれある事なりき、表むきはお屋根修理なるも実はお屋根は大していたみたることにあらず、のきの一隅の穴よりコウモリ宮の中に入りて人知らぬ間に巣をつくり三十匹にも余りて汚し居たる様子なりと。二・二六事件にしても、その他の荒々しき曲事のシキリにあることに思ひ合せて、此度は荒みたまに拝せむと秘かに思ひたる心付きに引きかへて、また神秘なる感深きものあり。速かに神主たちが心からみたまつりをすることこそ、かくなりし上は望ましき限りなり。世にもおそろしくおぼへたり。(以下略)』</ref>。
荒祭宮を「[[荒魂]]を祭る宮」の意味とするのが定説である<ref>[[#伊勢参宮案内]]p.30『荒祭宮(あらまつりのみや) 大神様の荒御魂(あらみたま)、正殿の後方の丘にある。』</ref><ref>[[#広池国体|伊勢神宮と我国体]]コマ124(原本77頁)『皇大神宮○別宮九所 荒祭宮 皇大神宮内{大神宮の<ruby><rb>荒魂</rb><rt>アラタマ</rt></ruby>を祀る、荒魂とは<ruby><rb>和魂</rb><rt>ニギタマ</rt></ruby>に對して云ふ語にして、一言に云へば此<ruby><rb>和</rb><rt>ニギ</rt></ruby>と<ruby><rb>荒</rb><rt>アラ</rt></ruby>とは文武を掌るミタマと云ふ如きことなり}』</ref><ref name="高松宮2巻400">[[#高松宮日記2巻]]400頁『九月十七日〇八〇〇出艦。〇八二五ノ予定ガ〇八三五上陸。伊勢両宮に参拝。時節柄、特に荒祭宮に拝せむかと心構へしてゐたるも、入港して見たる新聞に遷坐、宮の屋根を修復する由の記事ありしかば、話しもせずおきたる旨[[慶光院]]に語り〔し〕ところ、まことにおそれある事なりき、表むきはお屋根修理なるも実はお屋根は大していたみたることにあらず、のきの一隅の穴よりコウモリ宮の中に入りて人知らぬ間に巣をつくり三十匹にも余りて汚し居たる様子なりと。二・二六事件にしても、その他の荒々しき曲事のシキリにあることに思ひ合せて、此度は'''荒みたま'''に拝せむと秘かに思ひたる心付きに引きかへて、また神秘なる感深きものあり。速かに神主たちが心からみたまつりをすることこそ、かくなりし上は望ましき限りなり。世にもおそろしくおぼへたり。(以下略)』</ref>。
『神宮雑例集』によると、創建は[[垂仁天皇]]26年10月であり、内宮の正殿と同時に建てられたという<ref name="in"/><ref name="皇大神宮史167荒祭宮">[[#皇大神宮史]]コマ167-168(原本237-238頁)『(皇大神宮別宮)一、<ruby><rb>荒祭宮<rb><rt>あらまつりのみや</rt></ruby> 内宮の宮城にあり、祭神は天照大神の<ruby><rb>荒御魂</rb><rt>あらみたま</rt></ruby>。(略)別宮の第一に擧げたる荒祭宮は、垂仁天皇即位二十六年九月、倭姫命が天照皇大神を奉じて、五十鈴川上に神宮を經營し給へると同時に、皇大神の荒御魂を同じ宮城内に鎭座し奉れるにて、別宮の第一として崇敬せられ、歴代の皇室に於かせられても尊崇最も深く、恒例臨時の祭祀も本宮と同日に行はせられ、五月及十月の<ruby><rb>神御衣祭</rb><rt>かむみやまつり</rt></ruby>の如きは、皇大神宮と當宮とのみ其儀あり、尚ほ勅使差遣に際しては、特に金銀の獅子形を奉納せらるゝの例なりしなり。然るに足利時代に於ける神宮の衰微は申すも畏き極みにして、應仁二年三月、皇大神宮禰宜の注進状に依れば、殿舎悉く退轉し或は巓倒し、別宮攝社末社の神體は皆地上に坐せるの状なり。寶永八年に至り荒祭宮の再興ありしも、未だ古儀に缺く所あるを免れざりしが、明治四十二年、玉垣及玉垣御門の増設ありて、殿舎舊儀に復したるは、流石に昭代の盛事と謂ふべきなり。』</ref>。
『神宮雑例集』によると、創建は[[垂仁天皇]]26年10月であり、内宮の正殿と同時に建てられたという<ref name="in"/><ref name="皇大神宮史167荒祭宮">[[#皇大神宮史]]コマ167-168(原本237-238頁)『(皇大神宮別宮)一、<ruby><rb>荒祭宮<rb><rt>あらまつりのみや</rt></ruby> 内宮の宮城にあり、祭神は天照大神の<ruby><rb>荒御魂</rb><rt>あらみたま</rt></ruby>。(略)別宮の第一に擧げたる荒祭宮は、垂仁天皇即位二十六年九月、倭姫命が天照皇大神を奉じて、五十鈴川上に神宮を經營し給へると同時に、皇大神の荒御魂を同じ宮城内に鎭座し奉れるにて、別宮の第一として崇敬せられ、歴代の皇室に於かせられても尊崇最も深く、恒例臨時の祭祀も本宮と同日に行はせられ、五月及十月の<ruby><rb>神御衣祭</rb><rt>かむみやまつり</rt></ruby>の如きは、皇大神宮と當宮とのみ其儀あり、尚ほ勅使差遣に際しては、特に金銀の獅子形を奉納せらるゝの例なりしなり。然るに足利時代に於ける神宮の衰微は申すも畏き極みにして、應仁二年三月、皇大神宮禰宜の注進状に依れば、殿舎悉く退轉し或は巓倒し、別宮攝社末社の神體は皆地上に坐せるの状なり。寶永八年に至り荒祭宮の再興ありしも、未だ古儀に缺く所あるを免れざりしが、明治四十二年、玉垣及玉垣御門の増設ありて、殿舎舊儀に復したるは、流石に昭代の盛事と謂ふべきなり。』</ref>。


[[Image:Fumanu-ishi(Naiku) 01.JPG|thumb|120px|left|踏まぬ石]]
[[Image:Fumanu-ishi(Naiku) 01.JPG|thumb|120px|left|踏まぬ石]]
天照大神荒魂を祀る内宮の別宮は境外に[[瀧原宮|瀧原竝宮]](たきはらならびのみや)があるが、荒祭宮は内宮に[[月讀宮]]、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮、[[瀧原宮]]、瀧原竝宮、[[伊雑宮]]、[[風日祈宮]]、[[倭姫宮]]と、あわせて10ある別宮の中で第1位とされる<ref>三橋(2013):104 - 105ページ</ref><ref name="大神宮史167荒祭宮"/>。他の別宮よりも社殿が大きく、'''神御衣祭'''(かんみそさい)は[[豊受大神宮|外宮(豊受大神宮)]]では行わないが、内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行なわれる<ref name="皇大神宮史167荒祭宮"/>。
天照大神荒魂を祀る内宮の別宮は境外に[[瀧原宮|瀧原竝宮]](たきはらならびのみや)があるが、荒祭宮は内宮に[[月讀宮]]、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮、[[瀧原宮]]、瀧原竝宮、[[伊雑宮]]、[[風日祈宮]]、[[倭姫宮]]と、あわせて10ある別宮の中で第1位とされる<ref>三橋(2013):104 - 105ページ</ref><ref name="筑摩展開56">[[#筑摩展開|筑摩書房、伊勢大神]]56-59頁『二 荒祭宮の由来』</ref>。他の別宮よりも社殿が大きく、'''神御衣祭'''(かんみそさい)は[[豊受大神宮|外宮(豊受大神宮)]]では行わないが、内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行なわれる<ref name="皇大神宮史167荒祭宮"/><ref>[[#筑摩展開|筑摩書房、伊勢大神]]100-102頁『神御衣祭』</ref>。荒祭宮に対する神衣米物の数量は、大神宮に対して約半数である<ref name="筑摩展開56"/>。


[[Image:Aramatsuri-no-miya-yohai-sho_01.jpg|thumb|left|120px|荒祭宮遥拝所]]
[[Image:Aramatsuri-no-miya-yohai-sho_01.jpg|thumb|left|120px|荒祭宮遥拝所]]
内宮正宮参拝後に参拝するのが正しいとされ、正宮石垣の角の'''籾種石'''(もみだねいし)を右手に見ながら右へ進み、稲を納める'''[[御稲御倉]]'''(みしねのみくら)、古い神宝を納める'''外幣殿'''(げへいでん)を左手に見ながら進んだ先の石段を一度降り、次の石段を上った先に荒祭宮がある。この時に降りる石段には4つに割れ「'''天'''」の字のように見える石がある。この石は'''踏まぬ石'''と呼ばれ避けて通らなければならないとされる。踏まぬ石は天から降って来たと伝えられるが定かではない。
内宮正宮参拝後に参拝するのが正しいとされ、正宮石垣の角の'''籾種石'''(もみだねいし)を右手に見ながら右へ進み、稲を納める'''[[御稲御倉]]'''(みしねのみくら)、古い神宝を納める'''外幣殿'''(げへいでん)を左手に見ながら進んだ先の石段を一度降り、次の石段を上った先に荒祭宮がある。この時に降りる石段(約四十段下がったところ)には4つに割れ「'''天'''」の字のように見える石がある<ref name="矢野杜53荒祭宮"/>。この石は'''踏まぬ石'''と呼ばれ避けて通らなければならないとされ、[[江戸時代]]には既に言及されてい<ref name="矢野杜53荒祭宮"/>踏まぬ石は天から降って来たいう説があるが、[[隕石]]ではなく[[堆積岩|水成岩]]であり、起源は定かではない<ref name="矢野杜53荒祭宮"/>


荒祭宮に参拝できない場合のため、'''荒祭宮遥拝所'''が設けられている<ref>[[#神宮摂末社巡拝下]]p.14『'''荒祭宮遥拝所''' 忌火屋殿前庭の右の注連縄の張つてある外側で、荒祭宮に岐れる参道の入口の所を荒祭宮の遥拝所とする。皇大神宮御正殿を拝し終りて退下するもので、荒祭宮まで参らずして、歸るものは、こゝから同宮の方に向つて遥拝する所である。注連縄の中に、神官の石壺の座が見られる。』</ref>。籾種石の近くに石畳の上に位置する。
荒祭宮に参拝できない場合のため、'''荒祭宮遥拝所'''が設けられている<ref>[[#神宮摂末社巡拝下]]p.14『'''荒祭宮遥拝所''' 忌火屋殿前庭の右の注連縄の張つてある外側で、荒祭宮に岐れる参道の入口の所を荒祭宮の遥拝所とする。皇大神宮御正殿を拝し終りて退下するもので、荒祭宮まで参らずして、歸るものは、こゝから同宮の方に向つて遥拝する所である。注連縄の中に、神官の石壺の座が見られる。』</ref>。籾種石の近くに石畳の上に位置する<ref>[[#淡交社、伊勢神宮]]24-25頁『荒祭宮遙拝所(あらまつりのみやようはいじょ)』</ref>。本来は儀式(祭り)のために用いる<ref name="神道大辞典1荒祭宮"/>


<!--=== 籾種石 ===-->
<!--=== 籾種石 ===-->
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== 祭神 ==
== 祭神 ==
[[天照大神|天照坐皇大御神荒御魂]](あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)<ref name="神宮便覧30"/>。
[[天照大神|天照坐皇大御神荒御魂]](あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)<ref name="神宮便覧30"/><ref name="神道大辞典1荒祭宮"/>。
[[天照大神]]の[[荒魂]]である<ref>[[#神宮摂末社巡拝下]]pp.17-18『'''荒祭宮''' 板垣北御門を退下して、御門の前の石階を北へ下ると、荒祭宮の御社殿を拝することが出来る。皇大神宮に相次ぐ第一の別宮で、天照坐皇大御神荒神魂(あまてらしますおほかみのあらみたま)を御祭り申上げてゐる。荒御魂(あらみたま)といふのは、神の御魂が力強く顕現活動する御力を指したもので、平和な状態にある御魂を和魂(にぎみたま)と稱するのに對してふ御言葉である。主として戦争とか、何か大事變の場合に、天照大神が、この國家を守護し給ふために、特別の御神威を現はし給ふ御神徳に對して、名付け奉つたものである。昔神功皇后の三韓征伐のとき、皇軍を守り給ふて、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と、その御名を現はしたるが如き、又源平合戦のとき、内裏に神劍を奉納したるが如きは、何れも當宮の神慮に由るものであつた。 昔から天照大神の御神徳を仰がんとする特別の祈願のものは、こゝ荒祭宮に参つて祈るものが多かつたといふのは、偏へにこの宮が力強い御魂を祭つてゐることに由るものである。』</ref>。
[[天照大神]]の[[荒魂]]である<ref>[[#神宮摂末社巡拝下]]pp.17-18『'''荒祭宮''' 板垣北御門を退下して、御門の前の石階を北へ下ると、荒祭宮の御社殿を拝することが出来る。皇大神宮に相次ぐ第一の別宮で、天照坐皇大御神荒神魂(あまてらしますおほかみのあらみたま)を御祭り申上げてゐる。荒御魂(あらみたま)といふのは、神の御魂が力強く顕現活動する御力を指したもので、平和な状態にある御魂を和魂(にぎみたま)と稱するのに對してふ御言葉である。主として戦争とか、何か大事變の場合に、天照大神が、この國家を守護し給ふために、特別の御神威を現はし給ふ御神徳に對して、名付け奉つたものである。昔神功皇后の三韓征伐のとき、皇軍を守り給ふて、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と、その御名を現はしたるが如き、又源平合戦のとき、内裏に神劍を奉納したるが如きは、何れも當宮の神慮に由るものであつた。 昔から天照大神の御神徳を仰がんとする特別の祈願のものは、こゝ荒祭宮に参つて祈るものが多かつたといふのは、偏へにこの宮が力強い御魂を祭つてゐることに由るものである。』</ref>。
[[神体]]は[[鏡]]である<ref name="in"/>。[[804年]](延暦23年)の『[[皇太神宮儀式帳]]』において、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う」とあり、また、[[927年]](延長5年)成立の『延喜式』において、「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記載されている。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮祭神の別名として[[瀬織津姫]]、[[八十禍津日神]]を記している。
[[神体]]は[[鏡]]である<ref name="in"/><ref name="国史7巻262荒祭宮">[[#国史大系七|国史大系7巻]]コマ262-263(原本497-498頁)『荒祭宮一座。{{small|皇太神宮荒魂。伊弉那伎大神所生神。名<sub>二</sub>八十枉津日神<sub>一</sub>也。/一名瀨織津比咩神是也。御形鏡座。』</ref>。[[804年]](延暦23年)の『[[皇太神宮儀式帳]]』において、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う」とあり、また、[[927年]](延長5年)成立の『延喜式』において、「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記載されている。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮祭神の別名として[[瀬織津姫]]<ref>[[#平凡辞典1939二巻|神道大辞典2巻]]コマ207(原本353頁)『'''セオリツヒメノカミ''' 瀨織津比咩神 祓戸神四柱の一。禍津日神の別稱といふ。世の中の罪穢を清め、凶事を除き去る神である。瀬織の織は借字で、<ruby><rb>瀬下</rb><rt>せおり</rt></ruby>の義。瀬を下りたところに坐す神である。神典には伊弉諾尊が御禊の時、「上つ瀬は速し、下つ瀬は瀬弱し」とて、始めて中つ瀬に降りて滌がれた時に成れる神を禍津日神と記してゐるが、これ瀬織津比咩神に他ならぬといふのが通説である。祝詞によれば、この神は落湍つ速川の瀬にゐて、諸々の罪穢を大海原に持ち出されるといふ。本居宣長の説に、倭姫命世記に「荒祭宮<sub>ノ</sub>一座、皇大神宮<sub>ノ</sub>荒魂、伊弉那伎<sub>ノ</sub>大神生神、名<sub>ハ</sub>八十枉津日<sub>ノ</sub>神也、一名瀬織津比咩<sub>ノ</sub>神是也」とあるを此の書、凡ては信がたき事のみ多けれども、古書によれりとおぼしき事もまた多し。禍津日<sub>ノ</sub>神の瀬織津姫と申すは、かの伊弉諾<sub>ノ</sub>神、はじめて、中<sub>ツ</sub>瀬に降りかづきたまふ時に、生出る故にて、ここによくかなへりとある。※禍津日神・祓戸神』</ref>、[[八十禍津日神]]を記している<ref name="国史7巻262荒祭宮"/><ref>[[#斎藤読替|読み替えられた日本神話]]127-129頁『祓えと穢れの神として』</ref>
 
 
== 祭事 ==
== 祭事 ==
皇大神宮に準じた祭事が行われ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である<ref name="in2">三橋(2013):105ページ</ref>。祈年祭、月次祭、[[神嘗祭]]、[[新嘗祭]]の諸祭には[[皇室]]からの[[幣帛]](へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する<ref name="伊勢年鑑22"/>。また、[[神宮式年遷宮]]の際は、内宮別宮のうちでは荒祭宮だけが正宮とほぼ同時期に遷宮を行う。なお、外宮別宮も本宮の荒魂を祀る[[多賀宮]]だけが同様の扱いを受けている。
皇大神宮に準じた祭事が行われ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である<ref name="in2">三橋(2013):105ページ</ref>。祈年祭、月次祭、[[神嘗祭]]、[[新嘗祭]]の諸祭には[[皇室]]からの[[幣帛]](へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する<ref name="神道大辞典1荒祭宮"/><ref name="伊勢年鑑22"/>。また、[[神宮式年遷宮]]の際は、内宮別宮のうちでは荒祭宮だけが正宮とほぼ同時期に遷宮を行う。なお、外宮別宮も本宮の荒魂を祀る[[多賀宮]]だけが同様の扱いを受けている。


== 社殿 ==
== 社殿 ==
[[File:Aramatsuri-no-Miya 001.jpg|thumb|250px|遷宮直前に新旧の社殿が並んでいる]]
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荒祭宮の社殿は内宮に準じ[[千木・鰹木|内削ぎの千木と、6本で偶数の鰹木]]を持つ萱葺の[[神明造]]で南面している。遷宮のための古殿地(新御敷地)は、東西に隣接している。幅6.42m(行2丈1尺2寸)、奥行4.24m(妻1丈4尺)、高さ4.48m(1丈4尺8寸)と、他の別宮よりも大きく定められている。
荒祭宮(天照大御神荒魂)・多賀宮(豊受大神荒魂)とも[[鳥居]]が存在しないが、その理由は不明<ref name="矢野杜53荒祭宮"/><ref>[[#斎藤読替|読み替えられた日本神話]]125-126頁『パワースポットとしての荒祭宮』</ref>。荒祭宮の社殿は内宮に準じ[[千木・鰹木|内削ぎの千木と、6本で偶数の鰹木]]を持つ萱葺の[[神明造]]で南面している<ref name="神道大辞典1荒祭宮"/>。遷宮のための古殿地(新御敷地)は、東西に隣接している。幅6.42m(行2丈1尺2寸)、奥行4.24m(妻1丈4尺)、高さ4.48m(1丈4尺8寸)と、他の別宮よりも大きく定められている。


[[室町時代]]には困窮していたが、[[江戸時代]]になり状況は若干改善<ref name="皇大神宮史167荒祭宮"/>。その後1909年(明治42年)に至り、完全な状態になった<ref name="皇大神宮史167荒祭宮"/>。
当初は神垣・[[忌火|忌火殿]]・御倉等も揃っていたが、いつしか失われた<ref name="神道大辞典1荒祭宮"/>。[[室町時代]]には困窮していたが、[[江戸時代]]になり状況は若干改善<ref name="皇大神宮史167荒祭宮"/>。その後1909年(明治42年)に至り、完全な状態になった<ref name="皇大神宮史167荒祭宮"/>。
[[1936年]](昭和11年)には荒祭宮社殿に[[コウモリ]]が巣食って遷座を余儀なくされ、[[二・二六事件]](同年2月26日)など凶事続きのため荒祭宮に参拝しようとしていた[[高松宮宣仁親王]](海軍軍人、[[昭和天皇]]弟)は「世にもおそろしく覚えたり」と著述している<ref name="高松宮2巻400"/>。
[[1936年]](昭和11年)には荒祭宮社殿に[[コウモリ]]が巣食って遷座を余儀なくされ、[[二・二六事件]](同年2月26日)など凶事続きのため荒祭宮に参拝しようとしていた[[高松宮宣仁親王]](海軍軍人、[[昭和天皇]]弟)は「世にもおそろしく覚えたり」と著述している<ref name="高松宮2巻400"/>。

荒祭宮の前の石段中程には杉の木が聳えている。荒祭宮の石段は[[天明|天明年間]]([[江戸時代]])につくられ、1909年(明治42年)に位置を若干かえた<ref name="矢野杜57">[[#矢野、杜|矢野、伊勢神宮]]57-58頁</ref>。この時期に「杉をそのまま残す」という決定がされたという<ref name="矢野杜57"/>。


== 交通 ==
== 交通 ==
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* 最寄インターチェンジ:[[伊勢自動車道]][[伊勢インターチェンジ]]から約2.1km。
* 最寄インターチェンジ:[[伊勢自動車道]][[伊勢インターチェンジ]]から約2.1km。
* 駐車場:内宮前に駐車場があるが、正月などは利用できない。
* 駐車場:内宮前に駐車場があるが、正月などは利用できない。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア推奨スタイル 著者五十音順 -->
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* 『お伊勢まいり』(発行:伊勢神宮崇敬会)
* 『お伊勢まいり』(発行:伊勢神宮崇敬会)
*{{Cite book|和書|author=[[上田正昭]]ほか|editor=|year=1988|month=11|chapter=別宮の祭祀|title={{small|神宮の展開}} 伊勢の大神|publisher=筑摩書房|series=|isbn=4-480-85469-x|ref=筑摩展開}}
* [[桜井勝之進]]『伊勢の大神の宮』堀書店、昭和48年3月25日発行
* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮記 第二巻 {{small|昭和八年年一月一日~昭和十二年九月二十六日}}|publisher=中央公論社|year=1995|month=6|ISBN=4-12-403392-3|ref=高松宮日記2巻}}
*{{Cite book|和書|author=[[斎藤英喜]]著|editor=|year=2006|month=12|chapter=|title=読み替えられた本神話|publisher=講談社|series=講談社現代新書1871|isbn=4-06-149871-1|ref=斎藤読替}}
* [[三橋健 (神道学者)|三橋健]]『伊勢神宮 日本人は何を祈ってきたのか』[[朝日新書]]416、[[朝日新聞出版]]、2013年8月30日、230p. ISBN 978-4-02-273516-4


*[[桜井勝之進]]『伊勢の大神の宮』堀書店、昭和48年3月25日発行
*{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第二巻 {{small|昭和八年年一月一日~昭和十二年九月二十六日}}|publisher=中央公論社|year=1995|month=6|ISBN=4-12-403392-3|ref=高松宮日記2巻}}
*{{Cite book|和書|author=[[南里空海]]著|coauthors=|title={{small|決定版}} 伊勢の神宮|publisher=世界文化社|year=2014|month=12|ISBN=978-4-418-14238-5|ref=決定版伊勢の神宮}}
*{{Cite book|和書|author=[[三好和義]]・[[岡野弘彦]]ほか|editor=|year=2003|month=12|chapter=|title={{small|日本の古社}} 伊勢神宮|publisher=淡交社|series=日本の古社|isbn=4-473-03108-x|ref=淡交社、伊勢神宮}}
*[[三橋健 (神道学者)|三橋健]]『伊勢神宮 日本人は何を祈ってきたのか』[[朝日新書]]416、[[朝日新聞出版]]、2013年8月30日、230p. ISBN 978-4-02-273516-4
*{{Cite book|和書|author=[[矢野憲一]]著|editor=|year=2006|month=11|chapter=|title=伊勢神宮 {{small|知られざる杜のうち}}|publisher=角川書店|series=角川選書402|isbn=4-04-703402-9|ref=矢野、杜}}


*[http://dl.ndl.go.jp/  国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
*[http://dl.ndl.go.jp/  国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
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**{{Cite book|和書|author=神宮司庁編|coauthors=|title=大神宮叢書. 第3 後篇|publisher=西濃印刷岐阜支店|year=1936|month=11|url={{NDLDC|1239755}}|ref=大神宮叢書.第3後篇}}
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[天照大神]]
* [[天照大神]]
* [[皇大神宮]]
* [[皇大神宮]]
* [[荒魂・和魂]]
* [[神宮125社の一覧]]
* [[神宮125社の一覧]]
* [[伊勢市]]
* [[伊勢市]]
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{{Commonscat|Aramatsuri-no-miya}}
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* [http://www.isejingu.or.jp/naiku_2.html 荒祭宮 - 伊勢神宮]
* [http://www.isejingu.or.jp/naiku_2.html 荒祭宮 - 伊勢神宮]
* [http://www.hirotahonsya.or.jp/index.html 廣田神社 - 天照大神荒魂]


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{{神宮125社}}

2017年2月9日 (木) 13:39時点における版

荒祭宮
所在地 三重県伊勢市宇治館町
位置 北緯34度27分22秒 東経136度43分30秒 / 北緯34.45611度 東経136.72500度 / 34.45611; 136.72500 (荒祭宮)座標: 北緯34度27分22秒 東経136度43分30秒 / 北緯34.45611度 東経136.72500度 / 34.45611; 136.72500 (荒祭宮)
主祭神 天照大神荒魂
社格 式内社
皇大神宮別宮
創建 804年以前
本殿の様式 神明造
地図
荒祭宮の位置(三重県内)
荒祭宮
荒祭宮
テンプレートを表示

荒祭宮(あらまつりのみや)は三重県伊勢市宇治館町にある内宮(皇大神宮)の境内別宮である[1][2]祭神天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)[1][3]

第62回神宮式年遷宮2013年)では、他の別宮に先駆けて10月10日午後8時に遷御が行われた[4]

概要

荒祭宮は内宮正宮北方(御正宮の後方)にある[3][5][6]。 別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる[2][7] 荒祭宮を「荒魂を祭る宮」の意味とするのが定説である[8][9][10]。 『神宮雑例集』によると、創建は垂仁天皇26年10月であり、内宮の正殿と同時に建てられたという[5][11]

踏まぬ石

天照大神荒魂を祀る内宮の別宮は境外に瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があるが、荒祭宮は内宮に月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮、瀧原宮、瀧原竝宮、伊雑宮風日祈宮倭姫宮と、あわせて10ある別宮の中で第1位とされる[12][13]。他の別宮よりも社殿が大きく、神御衣祭(かんみそさい)は外宮(豊受大神宮)では行わないが、内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行なわれる[11][14]。荒祭宮に対する神衣米物の数量は、大神宮に対して約半数である[13]

荒祭宮遥拝所

内宮正宮参拝後に参拝するのが正しいとされ、正宮石垣の角の籾種石(もみだねいし)を右手に見ながら右へ進み、稲を納める御稲御倉(みしねのみくら)、古い神宝を納める外幣殿(げへいでん)を左手に見ながら進んだ先の石段を一度降り、次の石段を上った先に荒祭宮がある。この時に降りる石段(約四十段下がったところ)には4つに割れ「」の字のように見える石がある[3]。この石は踏まぬ石と呼ばれ避けて通らなければならないとされ、江戸時代には既に言及されている[3]。「踏まぬ石は天から降って来た」という伝説があるが、隕石ではなく水成岩であり、起源は定かではない[3]

荒祭宮に参拝できない場合のため、荒祭宮遥拝所が設けられている[15]。籾種石の近くに石畳の上に位置する[16]。本来は儀式(祭り)のために用いる[2]


祭神

天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)[1][2]天照大神荒魂である[17]神体である[5][18]804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』において、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う」とあり、また、927年(延長5年)成立の『延喜式』において、「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記載されている。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫[19]八十禍津日神を記している[18][20]。  

祭事

皇大神宮に準じた祭事が行われ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である[21]。祈年祭、月次祭、神嘗祭新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する[2][6]。また、神宮式年遷宮の際は、内宮別宮のうちでは荒祭宮だけが正宮とほぼ同時期に遷宮を行う。なお、外宮別宮も本宮の荒魂を祀る多賀宮だけが同様の扱いを受けている。

社殿

遷宮直前に新旧の社殿が並んでいる

荒祭宮(天照大御神荒魂)・多賀宮(豊受大神荒魂)とも鳥居が存在しないが、その理由は不明[3][22]。荒祭宮の社殿は内宮に準じ、内削ぎの千木と、6本で偶数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面している[2]。遷宮のための古殿地(新御敷地)は、東西に隣接している。幅6.42m(行2丈1尺2寸)、奥行4.24m(妻1丈4尺)、高さ4.48m(1丈4尺8寸)と、他の別宮よりも大きく定められている。

当初は神垣・忌火殿・御倉等も揃っていたが、いつしか失われた[2]室町時代には困窮していたが、江戸時代になり状況は若干改善[11]。その後1909年(明治42年)に至り、完全な状態になった[11]1936年(昭和11年)には荒祭宮社殿にコウモリが巣食って遷座を余儀なくされ、二・二六事件(同年2月26日)など凶事続きのため荒祭宮に参拝しようとしていた高松宮宣仁親王(海軍軍人、昭和天皇弟宮)は「世にもおそろしく覚えたり」と著述している[10]

荒祭宮の前の石段中程には杉の木が聳えている。荒祭宮の石段は天明年間江戸時代)につくられ、1909年(明治42年)に位置を若干かえた[23]。この時期に「杉をそのまま残す」という決定がされたという[23]

交通

参考文献

  • 『お伊勢まいり』(発行:伊勢神宮崇敬会)
  • 上田正昭ほか「別宮の祭祀」『神宮の展開 伊勢の大神』筑摩書房、1988年11月。ISBN 4-480-85469-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 斎藤英喜著『読み替えられた日本神話』講談社〈講談社現代新書1871〉、2006年12月。ISBN 4-06-149871-1 

脚注

  1. ^ a b c #神宮便覧(大正14)p.30『(宮名)あらまつりのみや|(祭神)天照坐皇大御神荒御魂|(宮號宣下年月及鎮坐地)垂仁天皇二十六年九月皇大神宮域内』
  2. ^ a b c d e f g 神道大辞典1巻コマ45(原本67頁)『アラマツリノミヤ 荒祭宮 皇大神宮の別宮。天照坐皇大御神の荒御魂を祀る。皇大神宮の神域内に鎭座。創立は本宮と同時代と傳へられ、『大神宮式』に月次、神嘗、神御衣祭に預かるとあり、皇大神宮別宮の首座たるを以て第一別宮とも稱し、崇敬特に篤く、年中恆例臨時の祭祀凡て本宮に次いで同日に行はれ、其の奉幣には勅使の参向あり、又各大祭には祭主、大少宮司以下奉仕す。尚本宮のみ神事ある場合は必ず宮域内拝所にて遙拝の儀を行ふ。古來當宮の神威靈驗と稱せらるるもの史上に屡〃見ゆ。延暦の頃は正殿に瑞垣、御門が附属し、又宿衛屋も二宇あつたが、宿衛屋は早く絶えた様である。又中古には御倉と忌火屋殿も建てられてゐた。正殿は古來校倉の如くに板を以て組み合せて壁として板倉の神明造であつたが、戰國時代にこの形式は失はれ、江戸時代以降はふつうの柱を持つ神明造となつた。現在では桁行二丈一尺二寸、梁行一丈四寸で、その形式は圖の如くである。 荒祭宮圖(側面)(正面)(平面)』
  3. ^ a b c d e f 矢野、伊勢神宮53-54頁『荒御魂をまつる荒祭宮と多賀宮』
  4. ^ “内宮別宮で遷御の儀”. 読売新聞. (2013年10月11日). オリジナルの2013年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-1015-0127-42/www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20131011-OYT8T00088.htm 2013年10月15日閲覧。 
  5. ^ a b c 三橋(2013):104ページ
  6. ^ a b #伊勢年鑑(昭和17)p.22『荒祭宮 荒祭宮は皇大神宮の北方神域内にあつて、天照坐皇大御神の荒御魂を奉斎する皇大神宮第一の別宮で、恒例、臨時の祭祀も亦本宮に引續きて執行せられ、勅使参内の祭典には勅使亦参内して官幣を奉納せらる。五月・十月兩度の神御衣祭の如きは皇大神宮と當宮に限りて行はれる。又神殿の構造・御装束神寶に至る迄本宮に亞いで最も完備して居る。當宮の創立は垂仁天皇二十六年倭姫命神宮を經營せられた時にかゝる。』
  7. ^ #神宮便覧(大正14)p.25『概要 別宮トハ本宮ニ對シテ稱ヘ奉ル稱號ニシテ、神宮ノ格式上本宮ニ亞ギテ崇敬セラルヽ宮社ナリ。皇大神宮所属ノ別宮十所、豊受大神宮所属ノ別宮四所アリ。就中荒祭宮ハ皇大神ノ荒御魂ヲ奉齋シ、多賀宮ハ豊受大神ノ荒御魂ヲ齋キ奉レルヲ以テ特ニ之ヲ重ンジ、本宮ト同日ニ祭儀ヲ行ハレ且ツ直視モ参列セラル。瀧祭神ハ古來別宮ニ準シテ神饌ヲ供進シ奉レルニ依リ本項末ニ加フ。』
  8. ^ #伊勢参宮案内p.30『荒祭宮(あらまつりのみや) 大神様の荒御魂(あらみたま)、正殿の後方の丘にある。』
  9. ^ 伊勢神宮と我国体コマ124(原本77頁)『皇大神宮○別宮九所 荒祭宮 皇大神宮内{大神宮の荒魂アラタマを祀る、荒魂とは和魂ニギタマに對して云ふ語にして、一言に云へば此ニギアラとは文武を掌るミタマと云ふ如きことなり}』
  10. ^ a b #高松宮日記2巻400頁『九月十七日〇八〇〇出艦。〇八二五ノ予定ガ〇八三五上陸。伊勢両宮に参拝。時節柄、特に荒祭宮に拝せむかと心構へしてゐたるも、入港して見たる新聞に遷坐、宮の屋根を修復する由の記事ありしかば、話しもせずおきたる旨慶光院に語り〔し〕ところ、まことにおそれある事なりき、表むきはお屋根修理なるも実はお屋根は大していたみたることにあらず、のきの一隅の穴よりコウモリ宮の中に入りて人知らぬ間に巣をつくり三十匹にも余りて汚し居たる様子なりと。二・二六事件にしても、その他の荒々しき曲事のシキリにあることに思ひ合せて、此度は荒みたまに拝せむと秘かに思ひたる心付きに引きかへて、また神秘なる感深きものあり。速かに神主たちが心からみたまつりをすることこそ、かくなりし上は望ましき限りなり。世にもおそろしくおぼへたり。(以下略)』
  11. ^ a b c d #皇大神宮史コマ167-168(原本237-238頁)『(皇大神宮別宮)一、荒祭宮あらまつりのみや 内宮の宮城にあり、祭神は天照大神の荒御魂あらみたま。(略)別宮の第一に擧げたる荒祭宮は、垂仁天皇即位二十六年九月、倭姫命が天照皇大神を奉じて、五十鈴川上に神宮を經營し給へると同時に、皇大神の荒御魂を同じ宮城内に鎭座し奉れるにて、別宮の第一として崇敬せられ、歴代の皇室に於かせられても尊崇最も深く、恒例臨時の祭祀も本宮と同日に行はせられ、五月及十月の神御衣祭かむみやまつりの如きは、皇大神宮と當宮とのみ其儀あり、尚ほ勅使差遣に際しては、特に金銀の獅子形を奉納せらるゝの例なりしなり。然るに足利時代に於ける神宮の衰微は申すも畏き極みにして、應仁二年三月、皇大神宮禰宜の注進状に依れば、殿舎悉く退轉し或は巓倒し、別宮攝社末社の神體は皆地上に坐せるの状なり。寶永八年に至り荒祭宮の再興ありしも、未だ古儀に缺く所あるを免れざりしが、明治四十二年、玉垣及玉垣御門の増設ありて、殿舎舊儀に復したるは、流石に昭代の盛事と謂ふべきなり。』
  12. ^ 三橋(2013):104 - 105ページ
  13. ^ a b 筑摩書房、伊勢大神56-59頁『二 荒祭宮の由来』
  14. ^ 筑摩書房、伊勢大神100-102頁『神御衣祭』
  15. ^ #神宮摂末社巡拝下p.14『荒祭宮遥拝所 忌火屋殿前庭の右の注連縄の張つてある外側で、荒祭宮に岐れる参道の入口の所を荒祭宮の遥拝所とする。皇大神宮御正殿を拝し終りて退下するもので、荒祭宮まで参らずして、歸るものは、こゝから同宮の方に向つて遥拝する所である。注連縄の中に、神官の石壺の座が見られる。』
  16. ^ #淡交社、伊勢神宮24-25頁『荒祭宮遙拝所(あらまつりのみやようはいじょ)』
  17. ^ #神宮摂末社巡拝下pp.17-18『荒祭宮 板垣北御門を退下して、御門の前の石階を北へ下ると、荒祭宮の御社殿を拝することが出来る。皇大神宮に相次ぐ第一の別宮で、天照坐皇大御神荒神魂(あまてらしますおほかみのあらみたま)を御祭り申上げてゐる。荒御魂(あらみたま)といふのは、神の御魂が力強く顕現活動する御力を指したもので、平和な状態にある御魂を和魂(にぎみたま)と稱するのに對してふ御言葉である。主として戦争とか、何か大事變の場合に、天照大神が、この國家を守護し給ふために、特別の御神威を現はし給ふ御神徳に對して、名付け奉つたものである。昔神功皇后の三韓征伐のとき、皇軍を守り給ふて、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と、その御名を現はしたるが如き、又源平合戦のとき、内裏に神劍を奉納したるが如きは、何れも當宮の神慮に由るものであつた。 昔から天照大神の御神徳を仰がんとする特別の祈願のものは、こゝ荒祭宮に参つて祈るものが多かつたといふのは、偏へにこの宮が力強い御魂を祭つてゐることに由るものである。』
  18. ^ a b 国史大系7巻コマ262-263(原本497-498頁)『荒祭宮一座。{{small|皇太神宮荒魂。伊弉那伎大神所生神。名八十枉津日神也。/一名瀨織津比咩神是也。御形鏡座。』
  19. ^ 神道大辞典2巻コマ207(原本353頁)『セオリツヒメノカミ 瀨織津比咩神 祓戸神四柱の一。禍津日神の別稱といふ。世の中の罪穢を清め、凶事を除き去る神である。瀬織の織は借字で、瀬下せおりの義。瀬を下りたところに坐す神である。神典には伊弉諾尊が御禊の時、「上つ瀬は速し、下つ瀬は瀬弱し」とて、始めて中つ瀬に降りて滌がれた時に成れる神を禍津日神と記してゐるが、これ瀬織津比咩神に他ならぬといふのが通説である。祝詞によれば、この神は落湍つ速川の瀬にゐて、諸々の罪穢を大海原に持ち出されるといふ。本居宣長の説に、倭姫命世記に「荒祭宮一座、皇大神宮荒魂、伊弉那伎大神生神、名八十枉津日神也、一名瀬織津比咩神是也」とあるを此の書、凡ては信がたき事のみ多けれども、古書によれりとおぼしき事もまた多し。禍津日神の瀬織津姫と申すは、かの伊弉諾神、はじめて、中瀬に降りかづきたまふ時に、生出る故にて、ここによくかなへりとある。※禍津日神・祓戸神』
  20. ^ 読み替えられた日本神話127-129頁『祓えと穢れの神として』
  21. ^ 三橋(2013):105ページ
  22. ^ 読み替えられた日本神話125-126頁『パワースポットとしての荒祭宮』
  23. ^ a b 矢野、伊勢神宮57-58頁

関連項目

外部リンク