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「スティーヴ・ウィンウッド」の版間の差分

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「ヴードゥー・チャイル」のレコーディングに参加
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== 概要 ==
== 概要 ==
兄マフ率いる[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]の一員として「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]]」などで1960年代中盤に人気を博し、グループを脱退後は[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]のメンバーとしても成功を収めた。1970年代後半以降は、ソロ・アーティストとして活動。主なヒット曲に、「[[ハイヤー・ラヴ]]」「ロール・ウィズ・イット」などがある。
兄マフ率いる[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]の一員として「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]](Gimme Some Lovin')」などで1960年代中盤に人気を博し、グループを脱退後は[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]のメンバーとしても成功を収めた。1970年代後半以降は、ソロ・アーティストとして活動。主なヒット曲に、「[[ハイヤー・ラヴ]]」「ロール・ウィズ・イット」などがある。


「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位<ref>{{Cite web |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-singers-of-all-time-19691231/steve-winwood-20101202 |title=100 Greatest Singers: Steve Winwood |author=Rolling Stone |accessdate=2013-05-26}}</ref>。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位<ref>{{Cite web |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-singers-of-all-time-19691231/steve-winwood-20101202 |title=100 Greatest Singers: Steve Winwood |author=Rolling Stone |accessdate=2013-05-26}}</ref>。
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また、[[マディ・ウォーターズ]]、[[ジョン・リー・フッカー]]、[[T-ボーン・ウォーカー]]、[[ハウリン・ウルフ]]、[[B・B・キング]]、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII|サニー・ボーイ・ウィリアムスンII]]、[[エディ・ボイド]]、[[オーティス・スパン]]、[[チャック・ベリー]]、[[ボ・ディドリー]]といった、大御所ミュージシャン達のバックでハモンドオルガンやギターを演奏した。
また、[[マディ・ウォーターズ]]、[[ジョン・リー・フッカー]]、[[T-ボーン・ウォーカー]]、[[ハウリン・ウルフ]]、[[B・B・キング]]、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII|サニー・ボーイ・ウィリアムスンII]]、[[エディ・ボイド]]、[[オーティス・スパン]]、[[チャック・ベリー]]、[[ボ・ディドリー]]といった、大御所ミュージシャン達のバックでハモンドオルガンやギターを演奏した。


15歳の頃、マフと共に[[スペンサー・ディヴィス・グループ]]に参加。[[1964年]]に、[[ジョン・リー・フッカー]]のカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]]」「アイム・ア・マン」を録音した後、彼は[[1967年]]にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、デイヴ・メイソンらと[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]を結成する。
15歳の頃、マフと共に[[スペンサー・ディヴィス・グループ]]に参加。[[1964年]]に、[[ジョン・リー・フッカー]]のカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]]」「[[アイム・ア・マン (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|アイム・ア・マン]]」を録音した後、彼は[[1967年]]にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、デイヴ・メイソンらと[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]を結成する。


[[ファイル:Steve Winwood with Traffic.jpg|thumb|170px|left|トラフィック時代のウィンウッド]]
[[ファイル:Steve Winwood with Traffic.jpg|thumb|170px|left|トラフィック時代のウィンウッド]]

2017年2月21日 (火) 03:47時点における版

スティーヴ・ウィンウッド
2009年8月13日、クロプレディ・フェスティヴァルで演奏中のウィンウッド
基本情報
出生名 Stephen Laurence Winwood
生誕 (1948-05-12) 1948年5月12日(76歳)
出身地 イングランドの旗 イングランドバーミンガム
ジャンル ロック
ブルースロック
ブルー・アイド・ソウル
サイケデリック・ロック
ジャズ
職業 シンガーソングライター
担当楽器 キーボードギター
活動期間 1960年代 -
レーベル アイランド
ヴァージン
コロムビア
共同作業者 スペンサー・デイヴィス・グループ
トラフィック
ブラインド・フェイス
ツトム・ヤマシタ
エリック・クラプトン
デイヴ・メイソン
公式サイト www.stevewinwood.com
該当項目を参照

スティーヴン・ローレンス・ウィンウッド(通称スティーヴ・ウィンウッド、Stephen Laurence "Steve" Winwood, 1948年5月12日 - )は、イギリスバーミンガム出身の音楽家。ウィンウッドの音楽はおおむねロックの範疇に入る。ロック音楽の中でも、ウィンウッドの音楽はリズム・アンド・ブルースソウル・ミュージックなど、元来は黒人市場向けの音楽だった大衆音楽に強い影響を受けている点で特徴的である。もともと主に鍵盤楽器奏者兼歌手として活動していたが、ギターやベースドラムスなど多くの楽器を演奏する。スペンサー・デイヴィス・グループのメンバーとして音楽活動を開始し、トラフィックブラインド・フェイスなどロック音楽史に残る有名グループの中心メンバーとして活動、その後は主にソロ音楽家として活動している。

概要

兄マフ率いるスペンサー・デイヴィス・グループの一員として「愛しておくれ(Gimme Some Lovin')」などで1960年代中盤に人気を博し、グループを脱退後はトラフィックのメンバーとしても成功を収めた。1970年代後半以降は、ソロ・アーティストとして活動。主なヒット曲に、「ハイヤー・ラヴ」「ロール・ウィズ・イット」などがある。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位[1]

経歴

バーミンガム郊外のグレート・バーで生まれる。音楽の才能は幼少時代から卓越したものがあり、10代前半のときには兄マフ・ウィンウッドが結成したジャズ・バンドの看板的存在として君臨していたという。

また、マディ・ウォーターズジョン・リー・フッカーT-ボーン・ウォーカーハウリン・ウルフB・B・キングサニー・ボーイ・ウィリアムスンIIエディ・ボイドオーティス・スパンチャック・ベリーボ・ディドリーといった、大御所ミュージシャン達のバックでハモンドオルガンやギターを演奏した。

15歳の頃、マフと共にスペンサー・ディヴィス・グループに参加。1964年に、ジョン・リー・フッカーのカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「愛しておくれ」「アイム・ア・マン」を録音した後、彼は1967年にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、デイヴ・メイソンらとトラフィックを結成する。

トラフィック時代のウィンウッド

トラフィックで『ミスター・ファンタジー』『トラフィック』など3枚のアルバムをリリース。

1968年、デイヴ・メイソン、クリス・ウッドとともにジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのアルバム『エレクトリック・レディランド』のレコーディングに参加。ウィンウッドは「ヴードゥー・チャイル」でオルガンを弾く。

1969年には一時的にトラフィックとしての活動を休止しエリック・クラプトンらとブラインド・フェイスを結成。しかしながらバンドはアルバム『スーパー・ジャイアンツ』のリリースとアメリカ・ツアー後にあえなく解散する。その後、一度はソロ・アルバム制作を計画し『マッド・シャドウズ』というタイトルでのレコーディングを進めたが、結局トラフィックとしての活動を再開し、『マッド・シャドウズ』は『ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ』として、再開後のトラフィック初のアルバムとなる。グループは1974年に『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』のリリースを最後に終焉を迎えるのだが、その間には腹膜炎を患って危険な状態に陥るというハプニングも起きている。また、1973年には、ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラによるロックオペラアルバム『トミー』にも参加。

その後、日本人パーカッショニストのツトム・ヤマシタによるGOを始めとするいくつかのプロジェクトへの参加を経て、1977年にはセルフ・タイトル・アルバムでソロ・デビューするが、パンクブームの真っ只中にあって、今ひとつ大きな成功には至らなかった。その後、曲作りのパートナーに作詞家のウィル・ジェニングス(後にエリック・クラプトンセリーヌ・ディオンなどにも作品を提供する)を迎え、1980年にシングル「ユー・シー・ア・チャンス」をリリースして、翌1981年ビルボードで最高7位まで上昇するヒットとなる。この曲の成功に煽られる形で同曲が収録されたアルバム『アーク・オブ・ア・ダイヴァー』も全米3位[2]、全世界でのセールスのべ700万枚という大成功を収めた。しかし次作『トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト』はセールス的に今一歩だった。

1986年には、傑作と名高い『バック・イン・ザ・ハイ・ライフ』を発表。ポール・サイモンジェイムズ・テイラージョージ・ハリスンなどのアルバムを手がけたことで知られるラス・タイトルマンをプロデューサーに迎え制作されたこのアルバムは、全米3位まで上昇し、グラミー賞を3部門受賞した。また、リカット・シングル「ハイヤー・ラヴ」は、自身初の全米No.1ヒットとなり、ここに至って音楽家としての活動は頂点に達した。この勢いを受け、1988年にリリースされた『ロール・ウィズ・イット』では、シングル・カットされた同名曲が再び全米1位を獲得、アルバムも初の全米1位を記録した。また、1989年1991年には来日公演も行われた。

1990年代は、3作のスタジオ・アルバムを、1994年にはジム・キャパルディとの共作による、トラフィックとして久々のアルバム『ファー・フロム・ホーム』を発表。

2003年には、自ら立ち上げたレーベル、ウィンクラフトから『アバウト・タイム』を発表。7月にはフジロック・フェスティバルへの参加で、3度目の来日公演が実現した。また、翌2004年の3月には、トラフィックとしてロックの殿堂入りを果たし、これを機に復活も予定されていたといわれているが、2005年1月にキャパルディが胃癌により亡くなったことから、この話は立ち消えになっている。

2007年7月、クロスロード・ギター・フェスティバルでエリック・クラプトンと共演し、ブラインド・フェイス時代の3曲などを演奏。さらに2008年2月には、マディソン・スクエア・ガーデンでクラプトンと3日間の共演コンサートを実現させて、この公演の模様は後に、クラプトンと連名のライヴ・アルバム『ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン』としてリリースされる。4月に、5年ぶりのアルバム『ナイン・ライヴズ』を、コロンビア・レコードよりリリースした。

2011年11月から12月に掛けて、エリック・クラプトンとともに来日し、全国8会場、計13回のコンサートを行った。マディソン・スクエア・ガーデンでの公演と重複する曲以外にも、ウィンウッドのソロのヒット曲が演奏され、「ユー・シー・ア・チャンス」では、オリジナルのシンセのソロのパートをエリック・クラプトンがギターで演奏した。「マイ・ウェイ・ホーム」は、2人が揃ってアコースティック・ギターで演奏するコーナーで演奏された。

ディスコグラフィ

アルバム

Singles

  • "While You See A Chance" (1981) #7 US
  • "Arc Of A Diver" (1981) #48 US
  • "Still In The Game" (1982) #47 US
  • "Valerie" (1982) #70 US
  • "Higher Love" (1986) #1 US - 1 week, #13 UK
  • "Freedom Overspill" (1986) #20 US
  • "The Finer Things" (1987) #8 US
  • "Back In The High Life Again" (1987) #13 US
  • "Valerie" (remix) (1987) #9 US, #19 UK
  • "Roll With It" (1988) #1 US - 4 weeks
  • "Don't You Know What The Night Can Do?" (1988) #6 US
  • "Holding On" (1988) #11 US
  • "Hearts On Fire" (1989) #53 US
  • "One And Only Man" (1990) #18 US

日本公演

3月27日,28日 大阪城ホール、30日 名古屋レインボーホール、4月1日,4日,5日 国立代々木競技場第一体育館、7日 横浜アリーナ
3月22日 横浜アリーナ
7月27日 苗場スキー場
11月17日 北海きたえーる、19日 横浜アリーナ、21日,22日 大阪城ホール、24日 マリンメッセ福岡、26日 広島グリーンアリーナ、28日 いしかわ総合スポーツセンター、30日 日本ガイシホール、12月2日,3日,6日,7日,10日 日本武道館

脚注

外部リンク