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** [[1月31日]] - [[バイエルン・ミュンヘン]]と3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和レッズと業務提携を結ぶ。
** [[1月31日]] - [[バイエルン・ミュンヘン]]と3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和レッズと業務提携を結ぶ。
** [[3月30日]] - 大阪市議会において大阪市によるセレッソ大阪への1千万円の出資が承認。
** [[3月30日]] - 大阪市議会において大阪市によるセレッソ大阪への1千万円の出資が承認。
** [[5月27日]] - [[西澤明訓]]と[[森島寛晃]]の軸を中心に[[西谷正也]]と盧廷潤の強力なサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝というところまでいきながら最終戦で[[川崎フロンターレ]]に[[ゴールデンゴール|Vゴール]]で敗れ優勝を[[横浜F・マリノス]]にステージさらわれる。1stステージの成績は2位に終わった。
** [[5月27日]] - [[西澤明訓]]と[[森島寛晃]]の軸を中心に[[西谷正也]]と盧廷潤の強力なサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝というところまでいきながら最終戦で[[川崎フロンターレ]]に[[ゴールデンゴール|Vゴール]]で敗れステージ優勝を[[横浜F・マリノス]]にさらわれる。1stステージの成績は2位に終わった。
** [[森島寛晃]]がJリーグの[[Jリーグ歴代ベスト11#2000.E5.B9.B4|ベストイレブン]]を獲得。
** [[森島寛晃]]がJリーグの[[Jリーグ歴代ベスト11#2000.E5.B9.B4|ベストイレブン]]を獲得。
* [[2001年]] - 1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格したがその結果は当然の帰結と言えよう。[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]で二度目の決勝進出も[[清水エスパルス]]に延長の末2-3で敗れ、またもや準優勝に終わる。
* [[2001年]] - 1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格したがその結果は当然の帰結と言えよう。[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]で二度目の決勝進出も[[清水エスパルス]]に延長の末2-3で敗れ、またもや準優勝に終わる。

2006年6月24日 (土) 14:13時点における版

セレッソ大阪
原語表記 セレッソ大阪
愛称 セレッソ
クラブカラー ピンク、紺
創設年 1957年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1
ホームタウン 大阪府大阪市
ホームスタジアム 長居スタジアム
収容人数 50,000
代表者 出原弘之
監督 塚田雄二
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

セレッソ大阪(せれっそ おおさか、Cerezo Osaka)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。新聞紙面などの略記では、C大阪セ大阪と記される(大阪を冠したJリーグ球団に「ガンバ大阪」が存在するため。こちらはG大阪・ガ大阪と略記される)。

クラブの概要

ホームタウン大阪府大阪市。ホームスタジアムは長居スタジアムと隣接する長居公園第2陸上競技場。練習は南津守さくら公園スポーツ広場と舞洲スポーツアイランドのセレッソ大阪グラウンド、尼崎市ヤンマーグラウンドが使用される。普段は南津守さくら公園スポーツ広場が練習やサテライトリーグで使用される。チーム名の「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語の意味。桜は大阪市の花でもある。 マスコット愛称はロビー。ロビーの本名はノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ。高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家の"オオカミの息子"という意味。

クラブの歴史

前身

前身はヤンマーディーゼルサッカー部1957年に創部し、JSLの創設とともに関西代表として参加した名門。JSL時代には、釜本邦茂ネルソン吉村らを擁したチームはリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回を獲得し関西の雄として輝いた。

1993年~現在

  • 1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪を立ち上げる。
  • 1994年 - 早期Jリーグ昇格を見据え選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオをセレッソ大阪初代監督として迎える。JFLで優勝。天皇杯ではJFL所属ながらもヴェルディ川崎浦和レッズ横浜マリノスらJリーグ勢を次々と破り決勝進出。タイトルを狙うもベルマーレ平塚に 0-2 で敗れ準優勝に終った。1995年からJリーグ昇格。
  • 1995年 - Jリーグ加盟。
  • 1996年 - 成績不振によりエミリオが監督が辞任。後任はコーチだった楚輪博が監督に昇格。
    • 7月3日 - ナビスコカップのアビスパ福岡戦で8得点。チーム最多得点記録
    • 7月27日 - 長居スタジアムが改修終了。それにともないセレッソ大阪のホームスタジアムも長居第2競技場から長居スタジアムへと変更。こけら落しとしてブラジルの名門ボタフォゴを招き国際親善試合を行う。結果は 1-3 でセレッソの敗戦。
    • 5月11日から10月2日 - リーグ戦で5ヶ月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録
  • 1997年 - 監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。
  • 1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では 34試合中 13試合が 3失点以上という異様な失点のシーズンとなった。韓国代表選手の黄善洪が入団。
    • 4月15日 - 長居でのジュビロ磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録
    • 8月8日 - 長居での柏レイソル戦で 7-5 の敗戦。試合辺りのJリーグ最多得点記録
  • 1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。
    • 5月8日 - 対名古屋グランパスエイト戦は、長居スタジアム・長居公園第2陸上競技場ともに「国際グランプリ陸上・大阪大会」に使用する関係で使えず、会場を近鉄花園ラグビー場に変えて行った。これには当時関西にJリーグの公式戦基準のサッカー専用グラウンドがなかった(神戸中央球技場が改修工事中だった)ことから、関西のファンに球技専用グラウンドでサッカーを楽しんでもらいたいという趣旨があるといわれている。
    • 黄善洪がJリーグの得点王ベストイレブンを獲得。
    • 12月 - 天皇杯を前にレネ監督が辞任。辞任の理由はレネ監督のプライベートなトラブルといわれている。後任は戦術面を担当していた副島コーチが監督代行としてチームを指揮。
  • 2000年 - 前年に監督代行として天皇杯の指揮をとった副島博志が監督に就任。
    • 1月29日 - 大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の鬼武健二から藤井純一に交代。鬼武健二は会長に就任。
    • 1月31日 - バイエルン・ミュンヘンと3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和レッズと業務提携を結ぶ。
    • 3月30日 - 大阪市議会において大阪市によるセレッソ大阪への1千万円の出資が承認。
    • 5月27日 - 西澤明訓森島寛晃の軸を中心に西谷正也と盧廷潤の強力なサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝というところまでいきながら最終戦で川崎フロンターレVゴールで敗れステージ優勝を横浜F・マリノスにさらわれる。1stステージの成績は2位に終わった。
    • 森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。
  • 2001年 - 1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格したがその結果は当然の帰結と言えよう。天皇杯で二度目の決勝進出も清水エスパルスに延長の末2-3で敗れ、またもや準優勝に終わる。
    • 7月27日 - 強化担当だった大西忠生副社長が成績不振を理由に辞任退職。
    • 8月20日 - 監督の副島博志が成績不振を理由に辞任。後任はジョアン・カルロスが就任。
    • 11月3日 - 対FC東京戦の敗戦によりJ2降格が決定。監督のジョアン・カルロスがこれを受けて辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。
  • 2002年 - J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮がまったく行われず、森島西澤尹晶煥ら各国の代表選手不在という苦しいチーム編成で日程をこなす事となった。ただし代表選手不在により大久保嘉人の出場機会が増え、彼の大きな成長を促すシーズンともなった。
    • 2月25日 - 未明に大阪ミナミで眞中靖夫が暴漢に襲われ頭蓋骨前頭部にひびのはいる重症を負う。
    • 3月21日 - この日の昼間には長居第2競技場でJ2のセレッソ大阪と川崎フロンターレとの試合を行い、夜には隣接する長居スタジアムで日本代表ウクライナ代表との試合が行われたため、セレッソとしては選手・ホームスタジアム・関心など全て日本代表に奪い取られる最悪の日程となった。
    • 11月16日 - 最終節の一つ手前の43節でJ1昇格を争い、そのシーズンで一度もセレッソが勝てなかったアルビレックス新潟との直接対決。1994年Jリーグ昇格の藤枝戦と同じく勝てばJ1昇格が決定だが負ければ自力昇格が無くなる試合にセレッソが 3-0 と勝利しJ1昇格を決めた。
  • 2003年 - 1stステージは健闘したが、2ndステージに入ると勝てなくなり、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村昭宏監督はシーズン途中で解任となったが、ここから監督交替のオンパレードとなる(詳しくは「歴代監督」の項を参照のこと)。また三度目の天皇杯決勝に進むもジュビロ磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝に終わる。
  • 2004年 -1stステージは相次ぐ監督交替もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分トリニータで監督を務めた小林伸二が監督に就任したが、西村から数えてわずか9ヶ月ほどで6人が監督を務める異常事態となった。しかし、一丸となったチームは12位に、年間順位でも最終節で柏レイソルに逆転し15位となんとか残留に成功した。
  • 2005年 - 当初9位を目標としていたが、積極的な補強と守備の立て直しが奏功し快進撃を続け、第33節でガンバ大阪を抜いて首位に立ったが、勝てば優勝が決まる最終節のFC東京戦で後半44分の失点によって引き分け、またも優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節~最終節)に限れば10勝1敗6分け、第18節のG大阪戦の敗戦を最後に16試合を負け知らず(Jリーグ無敗最長記録)で乗り切った。天皇杯も含めれば、準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。
  • 2006年-開幕から不振が続き、小林伸二監督を4月18日付で解任し、塚田雄二を新監督に就任して巻き返しを図る。

獲得タイトル

  • 1994年旧JFL(ジャパンフットボールリーグ)優勝

チームカラー

  • チームカラーはピンク色、紺色
ユニフォームの色
カラー 上衣 パンツ ストッキング
フィールドプレーヤー(正) ピンク×紺
フィールドプレーヤー(副) グレー グレー グレー
ゴールキーパー(正)
ゴールキーパー(副)

ユニホームスポンサー

過去のユニホームスポンサー

  • カプコン(1994年-1996年 - 94年前半のみ胸、94年後半から日本ハムとのスポンサー交換で背番号に)
  • 大阪オリンピック招致委員会(袖 1998年ごろ)
  • 2005年からは、背番号がヤンマーディーゼル、胸番号が日本ハムとなった。

ユニホームサプライの遍歴

  • 1994年(Jリーグ準会員時代) リーグ戦・カップ戦ともミズノ

但し1996年度はリーグ戦とカップ戦では別々のユニホームを着用した。

歴代監督


関連項目

外部リンク