コンテンツにスキップ

「ふそう銀行」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{Otheruses|鳥取県に所在した第二地方銀行|神国銀行に改名し1918年に破綻した銀行|扶桑銀行}}
'''ふそう銀行'''(ふそうぎんこう)は、[[鳥取県]][[鳥取市]]に本店を置いていた[[第二地方銀行]]である。[[統一金融機関コード]]は0563であった。
'''ふそう銀行'''(ふそうぎんこう)は、[[鳥取県]][[鳥取市]]に本店を置いていた[[第二地方銀行]]である。[[統一金融機関コード]]は0563であった。
[[1991年]][[4月]]に[[山陰合同銀行]]に吸収合併された。
[[1991年]][[4月]]に[[山陰合同銀行]]に吸収合併された。

2017年3月17日 (金) 22:48時点における版

ふそう銀行(ふそうぎんこう)は、鳥取県鳥取市に本店を置いていた第二地方銀行である。統一金融機関コードは0563であった。 1991年4月山陰合同銀行に吸収合併された。

住友銀行の親密第二地銀であった。

概要

1942年、共済無尽と相愛無尽の合併によって鳥取無尽として発足。県当局や社内では鳥取市に本店を設ける声が大勢を占めたが、当初本店は倉吉町(現:倉吉市)に置かれ、1944年、鳥取市に移転した。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い扶桑相互銀行に商号を変更した。

1958年、住友銀行からの支援を受けつつ、膨大な不良債権の処理にあたり、組織風土の改革に取り組み、岡山のほか、大阪、姫路、広島、神戸などに店舗網を広げ、業容の伸長を希求した[1]。しかし、金融の自由化が進展する中において、資金調達力が弱く、預金調達コストが他行より高かったため、多極分散型の経営は足かせとなり、さらに融資先の経営破綻や株式や債券市場の暴落によって含み損も増加した。それでも1989年4月には、普銀転換に漕ぎつけ、ふそう銀行として出発するが、1990年9月、親密先であった住友銀が山陰合同銀に合併を申し入れ[1]1991年4月、同行に吸収合併された。

沿革

  • 1942年 - 共済無尽(1913年に共済金融として設立)と相愛無尽(1914年に雲拍無尽として島根県で設立され、1921年に鳥取県内に移転し山陰共栄無尽に、1926年に相愛無尽にそれぞれ改称)が合併し、鳥取無尽を設立。本店は倉吉町(現:倉吉市)に置く。
  • 1951年10月 - 相互銀行転換に伴い扶桑相互銀行に改称。
  • 1989年4月 - 普通銀行転換に伴いふそう銀行に改称。
  • 1991年4月 - 山陰合同銀行に吸収合併。

合併後の店舗の処遇

ここでは単なる支店同士の統合(合併以前からの山陰合同銀行店舗との統合)は記述しない[2]。 本店は合併から1998年ごろまで山陰合同銀行ふそう営業部(後の鳥取中央営業部)となるが、近隣に存在した鳥取支店と統合し鳥取営業部となった。

鳥取駅前支店など11店舗は住友銀行岡山支店傘下の出張所とされたが、地銀や相銀が店舗の廃止等を進める場合、近隣の店舗に統合せずに、都市銀行営業譲渡した事例は、当時、全国的にまま見られた。

山陰合同銀がふそう銀を吸収合併することによって、鳥取県における預金・融資の寡占化が進むため、大蔵省公正取引委員会からの指導によって、合併後の1991年9月から同年11月にかけ、旧ふそう銀の田園町、御来屋、三朝の各支店は鳥取銀行に譲渡され、順次、同行の田園町、名和、三朝各支店として営業を開始した[3]。また、1990年代後半から2000年代中盤まで存在した店舗外ATMコーナー扱いであるアミィ○○出張所は、かつてのふそう銀行店舗跡にあったATMコーナーのことである。

脚注

  1. ^ a b 『日本地方金融史』P 295
  2. ^ 『山陰合同銀行五十年史』より。
  3. ^ 「山陰合同銀行が鳥取銀行に3支店を譲渡 寡占化解消へ」『読売新聞大阪本社朝刊』 1991年7月23日

参考文献

  • 山陰合同銀行五十年史編纂室編 『山陰合同銀行五十年史』山陰合同銀行、1992年。
  • 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514

外部リンク