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== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[東京都立北園高等学校]]卒業。[[慶應義塾大学]]中退後、[[俳優座]]に6期生として入所。同期には[[山本學]]、[[市原悦子]]、[[大山のぶ代]]がいる。退所後は宗教雑誌発行の出版社勤務やフリーのルポライターを経て、[[週刊読売]]に記者として入社。そこで掲載していた、表舞台から去った人を特集するコーナーにて、ある元騎手の取材たことがきっかけで段々と競馬ジャーナリストを志ざすようになり、[[1970年]]に[[デイリースポーツ]]東京本社へ入社。原がデイリーに入社した当時のスポーツ紙の競馬記者は調教時計を計って予想するだけのスタイルであったが、原は[[トラックマン]]デビューが38歳と他の記者よりも遅れていたため、他の記者とは違うことをやろうと主に厩舎取材に専念した。これが評判となり、他のスポーツ紙でも記者を厩舎取材に送り込むようになるなどデイリーのみならず、他紙にも大きな影響を与えることとなり、現在の記者は厩舎取材が主流となっている。[[1987年]]からは[[テレビ東京]]『[[土曜競馬中継]]』に司会兼スタジオメイン解説としてレギュラー出演を開始し<ref>[[1996年]][[9月]]まで司会を兼務。後身の『[[ウイニング競馬]]』にも引き続き出演しており、[[2017年]]現在に至る。</ref>、[[1988年]]にデイリーを退社。その後は競馬サークルで初となるフリーターフライターに転身し、[[1989年]]からは[[日経ラジオ社|ラジオたんぱ第1放送]]『[[中央競馬実況中継 (日経ラジオ社)|中央競馬実況中継・土曜日午前]]』に出演<ref>[[2013年]]卒業。</ref>。[[2008年]]からは、GIレースがある日曜日に全国各地の[[場外勝馬投票券発売所|WINS]]を巡回するトークイベント「良馬がゆく」を開いており(アシスタントは[[立花優美]]→[[守永真彩]])、GIレースを現地で観戦する機会が減少している。
[[東京都立北園高等学校]]卒業。[[慶應義塾大学]]中退後、[[俳優座]]に6期生として入所。同期には[[山本學]]、[[市原悦子]]、[[大山のぶ代]]がいる。退所後は宗教雑誌発行の出版社勤務やフリーのルポライターを経て、[[週刊読売]]に記者として入社。[[1969年]]に[[スピードシンボリ]]が勝った[[有馬記念]]の特集記事書いたことがきっかけで競馬ジャーナリストを志ざすようになり、[[1970年]]に[[デイリースポーツ]]東京本社へ入社。原がデイリーに入社した当時のスポーツ紙の競馬記者は調教時計を計って予想するだけのスタイルであったが、原は[[トラックマン]]デビューが38歳と他の記者よりも遅れていたため、他の記者とは違うことをやろうと主に厩舎取材に専念した。これが評判となり、他のスポーツ紙でも記者を厩舎取材に送り込むようになるなどデイリーのみならず、他紙にも大きな影響を与えることとなり、現在の記者は厩舎取材が主流となっている。[[1987年]]からは[[テレビ東京]]『[[土曜競馬中継]]』に司会兼スタジオメイン解説としてレギュラー出演を開始し<ref>[[1996年]][[9月]]まで司会を兼務。後身の『[[ウイニング競馬]]』にも引き続き出演しており、[[2017年]]現在に至る。</ref>、[[1988年]]にデイリーを退社。その後は競馬サークルで初となるフリーターフライターに転身し、[[1989年]]からは[[日経ラジオ社|ラジオたんぱ第1放送]]『[[中央競馬実況中継 (日経ラジオ社)|中央競馬実況中継・土曜日午前]]』に出演<ref>[[2013年]]卒業。</ref>。同年には[[競馬ファン]]で知られる[[森田正光]]監督の映画『[[愛と平成の色男]]』の[[バーテンダー]]役で出演。[[2008年]]からは、GIレースがある日曜日に全国各地の[[場外勝馬投票券発売所|WINS]]を巡回するトークイベント「良馬がゆく」を開いており(アシスタントは[[立花優美]]→[[守永真彩]])、GIレースを現地で観戦する機会が減少している。


== エピソード ==
== エピソード ==

2017年4月4日 (火) 00:30時点における版

原 良馬(はら りょうま、本名:萩原昴、1933年10月25日 - )は、群馬県出身の競馬ジャーナリスト

略歴

東京都立北園高等学校卒業。慶應義塾大学中退後、俳優座に6期生として入所。同期には山本學市原悦子大山のぶ代がいる。退所後は宗教雑誌発行の出版社勤務やフリーのルポライターを経て、週刊読売に記者として入社。1969年スピードシンボリが勝った有馬記念の特集記事を書いたことがきっかけで競馬ジャーナリストを志ざすようになり、1970年デイリースポーツ東京本社へ入社。原がデイリーに入社した当時のスポーツ紙の競馬記者は調教時計を計って予想するだけのスタイルであったが、原はトラックマンデビューが38歳と他の記者よりも遅れていたため、他の記者とは違うことをやろうと主に厩舎取材に専念した。これが評判となり、他のスポーツ紙でも記者を厩舎取材に送り込むようになるなどデイリーのみならず、他紙にも大きな影響を与えることとなり、現在の記者は厩舎取材が主流となっている。1987年からはテレビ東京土曜競馬中継』に司会兼スタジオメイン解説としてレギュラー出演を開始し[1]1988年にデイリーを退社。その後は競馬サークルで初となるフリーターフライターに転身し、1989年からはラジオたんぱ第1放送中央競馬実況中継・土曜日午前』に出演[2]。同年には競馬ファンで知られる森田正光監督の映画『愛と平成の色男』のバーテンダー役で出演。2008年からは、GIレースがある日曜日に全国各地のWINSを巡回するトークイベント「良馬がゆく」を開いており(アシスタントは立花優美守永真彩)、GIレースを現地で観戦する機会が減少している。

エピソード

  • デイリー入社2年目の1971年からは夏の北海道シリーズ担当となり、6月初旬から9月末まで札幌函館に長期滞在していた。開催期間中は一度も帰京することなく、平日朝の調教から開催日のレースまで取材にあたった。そのため、東西の調教師や騎手と接する機会が多かった。特に生前の境勝太郎からは可愛がられていたそうで、原が函館での調教後の厩舎を訪問した際に「朝飯を食いに来いや」と誘い、湯の川温泉の常宿で朝食をご馳走になっている。横山富雄[3]とも親交があり、厩舎が全休となる月曜日、松風町喫茶店で夕方に待ち合わせ、横山行きつけの寿司屋で新鮮なネタ寿司を頬張りながら、競馬談義に花を咲かせた。

脚注

  1. ^ 1996年9月まで司会を兼務。後身の『ウイニング競馬』にも引き続き出演しており、2017年現在に至る。
  2. ^ 2013年卒業。
  3. ^ 横山典弘の実父。