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「ノート:大乗仏教」の版間の差分

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::::>''漢訳の「波羅蜜」は原意に忠実でないとして''
::::>''漢訳の「波羅蜜」は原意に忠実でないとして''
::::原意も何も「波羅蜜」は「パーラミター」の音写語ですから、元の言葉にない意味を付け加えることはできません。「智度」が(意味を翻訳した)漢訳語です。-[[利用者:Ryo 625|Ryo 625]]([[利用者‐会話:Ryo 625|会話]]) 2017年6月1日 (木) 15:41 (UTC)
::::原意も何も「波羅蜜」は「パーラミター」の音写語ですから、元の言葉にない意味を付け加えることはできません。「智度」が(意味を翻訳した)漢訳語です。-[[利用者:Ryo 625|Ryo 625]]([[利用者‐会話:Ryo 625|会話]]) 2017年6月1日 (木) 15:41 (UTC)

:::::>般若波羅蜜と智度を分けて使うのはなぜですか?
:::::出典が分けているからです。
:::::>原意も何も「波羅蜜」は「パーラミター」の音写語ですから
:::::意訳も含まれる漢訳でしょう。ただ、中村元は「波羅蜜」がさらに「到彼岸」「度彼岸」などに意訳されたことに不満があったようです。フランス語などでは今でも女性名詞が客体(客観化)表現になることがあるようで、仏教ではこの主体・客体表現が重要なはずですが、中村はそこには突っ込まず智度との訳の隔たりを理由にハラミツとカナ書きしていますが、では静慮波羅蜜は○度というのかとかは書いていません。Leonidjp は Leonidjp で「中観」のページで私が編集合戦にしなかったことに不満があったようです。漢訳で中"観"とされたのには、サンスクリットそのものにも理由があるといいたいのでしょう。その件についても、あいかわらず分かりにく荒らし編集をやっています。
:::::で、[[利用者:Ryo 625|Ryo 625]]は、Leonidjp のソックパペットでしょう?

2017年6月3日 (土) 16:26時点における版

無名の節

確かに大乗の経典にはその由来がはっきりしないものが多くありますがこれをもって偽造の「実証」とするのはいかがなものでしょうか。「大乗の経典には文献学的にみてその由来が疑われるものが多く存在する。よって大乗の経典は釈迦に由来しない多くの経典を方便のために創作したとして上座部仏教側からは大乗非仏説という批判の声も上がった。」とするのが中立的観点による記述ではないでしょうか。Vapour

南伝の三蔵の「経」でも文献学的にみればその全てが釈迦の由来とはとても主張できるものではないと聞いています。Vapour

無出典の箇所を削除する提案

提案 現状、大乗仏教#概要の最後の段落(自分の解脱よりも〜創りだしていった の部分)と、大乗仏教#発展の諸相の第一段落と、大乗仏教#伝播は無出典ですので、削除してはどうでしょうか。--Leonidjp会話2017年5月12日 (金) 09:27 (UTC)[返信]

コメント 私は問題ないと思います。が、一応、本ページでもテンプレートで告知しておくべきだと思います。リバート合戦になると面倒なので。--Ryo 625会話2017年5月12日 (金) 10:22 (UTC)[返信]

中村元の出典記述の独自研究について

≫この部分の注釈に書かれている「第三章さらに五つの経 第五節17の註」というのは、中村元訳『ブッダ 悪魔との対話』岩波文庫のp.327の一行だが、そこには部派仏教における釈迦の修法過程に関する記述は全く無いし、小乗、大乗、部派、釈迦などの語も無い。この一文は明らかに独自研究。

こんにちは。毎度です。中村元は同章で、菩提樹下から7年を経てなお、釈迦が神々や悪魔と対話したことの問題提起とも注意喚起とも言える註記を行っているので、何ら独自研究には当たりません。問題は波羅蜜の原義語がいつから「一般化」したかで、中村は他出典の「パウッダ」で「大智度論」などの智度にそれをみているようだが不明なことは確か。とりあえず、出典無効は解除しました。--118.83.188.9 2017年5月13日 (土) 17:38 (UTC)[返信]
報告 IP利用者による上述の説明は、同氏によるこの編集の理由を説明したものです。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 21:13 (UTC)[返信]
>>中村元は同章で、菩提樹下から7年を経てなお、釈迦が神々や悪魔と対話したことの問題提起とも注意喚起とも言える註記を行っている
コメント 出典に照らして誤り。同章つまり『ブッダ 悪魔との対話』43-63頁には「菩提樹下から7年」という情報は載っていない。第四節(53頁)に「悪魔・悪しき者は、七年のあいだ尊師につきまとって」とあるだけ。
コメント IP利用者がこの編集で書き込んだ「激流」に関する注というのは、同書第Ⅳ編 第三章 第五節に対して付けられた注(61頁と327頁という対応関係)。上記53頁とこの注は、本文と注という直接の対応関係にない。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 21:54 (UTC)[返信]

問題点の指摘

報告 IP利用者による今日のこの編集 https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大乗仏教&diff=next&oldid=64299417 で、「特に般若波羅蜜や智度が、空の思想や菩薩の在り方とともに重要な用語として位置づけられ教説された」という文意が出来てしまいましたが、この部分の出典たる中村・三枝の『バウッダ』当該ページには「智度」という文言は無いことを報告しておきます。つまり出典に書いていないことを勝手に混ぜているわけです。--Leonidjp会話2017年6月1日 (木) 04:09 (UTC)[返信]

以前の出典ページの次のページにわたっていたので、1ページ加えた。--118.83.132.63 2017年6月1日 (木) 05:33 (UTC)[返信]
たとえ1ページ増やしても、「○○が重要な用語として位置づけられた」という『バウッダ』当該ページの文言が示す対象に智度は入っていないはずだろうに。なぜならその文言は337-338ページに在るのであって、そのページでその文は終わっているのだから。その文の後で出てくる智度を、なぜそこに含めるのか。--Leonidjp会話2017年6月1日 (木) 05:51 (UTC)[返信]
>『バウッダ』当該ページの文言が示す対象に智度は入っていないはずだろうに。
入っているのである。中村は智度は(十波羅蜜の第十の智波羅蜜ではなく)般若波羅蜜と同じく「プラジュニャー・パーラミータ」の訳であるとして重視している。「中(観)」と同様、女性名詞化による客体(客観化)表現という方向の論術に持っていくようで持っていかないかわりに、漢訳の「波羅蜜」は原意に忠実でないとして、以下ハラミツとカナ書きを始めている。--118.83.132.63 2017年6月1日 (木) 08:37 (UTC)[返信]
コメントIPユーザー氏が般若波羅蜜と智度を分けて使うのはなぜですか? https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大乗仏教&diff=next&oldid=64299417
大辞林 第三版の解説」には「智度」とは六度の一。智慧ちえのこと。 → 六波羅蜜とあり、六波羅蜜の解説にも布施・持戒・忍辱にんにく・精進・禅定ぜんじよう・智慧(般若はんにや)の各波羅蜜。六度。とあります。大辞林 第三版によれば六波羅蜜と六度は同じ事柄を指し、「六度の一。智慧ちえのこと」、「智慧(般若はんにや)」とあるように般若波羅蜜と智度はイコールです。般若波羅蜜や智度とされるのは、何か特別な意図がおありでしょうか。
漢訳の「波羅蜜」は原意に忠実でないとして
原意も何も「波羅蜜」は「パーラミター」の音写語ですから、元の言葉にない意味を付け加えることはできません。「智度」が(意味を翻訳した)漢訳語です。-Ryo 625会話2017年6月1日 (木) 15:41 (UTC)[返信]
>般若波羅蜜と智度を分けて使うのはなぜですか?
出典が分けているからです。
>原意も何も「波羅蜜」は「パーラミター」の音写語ですから
意訳も含まれる漢訳でしょう。ただ、中村元は「波羅蜜」がさらに「到彼岸」「度彼岸」などに意訳されたことに不満があったようです。フランス語などでは今でも女性名詞が客体(客観化)表現になることがあるようで、仏教ではこの主体・客体表現が重要なはずですが、中村はそこには突っ込まず智度との訳の隔たりを理由にハラミツとカナ書きしていますが、では静慮波羅蜜は○度というのかとかは書いていません。Leonidjp は Leonidjp で「中観」のページで私が編集合戦にしなかったことに不満があったようです。漢訳で中"観"とされたのには、サンスクリットそのものにも理由があるといいたいのでしょう。その件についても、あいかわらず分かりにく荒らし編集をやっています。
で、Ryo 625は、Leonidjp のソックパペットでしょう?