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2017年6月12日 (月) 23:35時点における版

のぎわ ようこ
野際 陽子
生年月日 (1936-01-24) 1936年1月24日(88歳)
出生地 石川県河北郡津幡町[1][2]
富山県富山市
国籍 日本の旗 日本
身長 163 cm
血液型 A型
職業 女優
ジャンル テレビドラマ映画トーク番組
活動期間 1958年 -
活動内容 1958年:NHK入局
1962年:NHK退局
1962年:司会業開始
1963年:女優デビュー
1968年:『キイハンター
1992年
ずっとあなたが好きだった
2000年:『TRICK
配偶者 千葉真一1973年 - 1994年
著名な家族 長女(真瀬樹里
公式サイト 所属事務所プロフィール
主な作品
テレビドラマ
キイハンター
ダブル・キッチン
ずっとあなたが好きだった
浅見光彦シリーズ
サラリーマン金太郎
TRICK
DOCTORS〜最強の名医〜
花嫁のれん
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野際 陽子(のぎわ ようこ、1936年1月24日[3] - )は、日本女優[3]身長163 cm[4]血液型A型[3]。特技は英語フランス語[3]ラヴァンス所属[4]。元NHKアナウンサー[4]

来歴

石川県河北郡津幡町で生まれ[1][2]富山県富山市で育ち、3歳から東京都杉並区天沼で育った[5]。杉並区立杉並第五小学校[注釈 1]立教女学院中学校・高等学校立教大学文学部英米文学科卒業。大学時代はESSの英語劇セクションと劇団テアトルジュンヌに所属し、四大学英語劇大会など数々の作品に出演[5]

大学卒業後、1958年(昭和33年)にNHKにアナウンサーとして入局し、3か月の研修後に名古屋放送局に赴任[5]。天気・婦人番組を担当。翌年の伊勢湾台風の災害報道にも関わっている。同局には1年後輩のアナウンサーとして下重暁子がいた。1960年(昭和35年)にNHK東京放送局(現:NHK放送センター)に赴任。テレビ『おはようみなさん』の司会を週1回担当。以降の2年間は週3本のレギュラー番組を担当した[6]。名古屋赴任時に独身寮の野際の部屋に折悪しく給料日に強盗が入り、ナイフを突きつけられ金銭を要求された経緯を『徹子の部屋』、『いつみても波瀾万丈』、『ボクらの時代』出演時に語っている[7][出典無効][8][出典無効]

1962年昭和37年)3月にNHK退職後、企画を説明する係として広告代理店へ転職。しかし出番が来ないまま3か月が経ち、給料だけもらうのは忍びないと気兼ねしていると、15分の生放送番組である『女性専科』(TBS)の司会者を担うこととなった。『女性専科』以降は女優活動が中心となった。TBSのプロデューサー大山勝美は「NHKのアナウンサーだった野際を女優に誘ったのは僕」と述べている[9]1963年(昭和38年)7月5日放送のテレビドラマ悲の器』(TBS)で主演の佐分利信の教え子になる理知的な若い美人が欲しくで人選していたが、なかなか見つからず。野際は当時NHKの花形美人アナウンサーだったが、近々辞めてフリーになるという噂があり、会って「芝居やってみませんか」と誘ったら「とてもやりたいと思っている」と言われ出演してもらった[9]。ほとんど褒めることのない佐分利が野際のことを「彼女はいいですね」と褒めていたので野際も自信を持ったのではないか、それで東映の映画とかに出演するようになったと述べている[9]1964年(昭和39年)には、東京都美術館で開催された現代美術展に出展する絵のために、画家伊東深水のモデルとして起用された[要出典]

1966年昭和41年)2月にかねてから念願であったパリへ留学。ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受けながら、アリアンスフランセーズにも通い、1年を過ごした。翌年帰国後『女性専科』に復帰し、パリで培ったファッションセンスを活かした[6]。1967年にはパリからの帰国時に着用していた、まだ日本では珍しかったフランス製のミニスカートが話題になった。このことから日本人で初めてミニスカートを穿いた女性であるとも言われている[10][出典無効]

1968年(昭和43年)にテレビドラマ『キイハンター』がスタートし、5年間放送され、視聴率30%以上を記録し一世を風靡した。ディレクターにどうしても歌わせて欲しいと直談判して[10][出典無効]、主題歌の「非情のライセンス」も歌った。1972年(昭和47年)には共演の千葉真一と婚約、翌年結婚。1975年(昭和50年)に真瀬樹里を出産。38歳11か月での初産は当時の芸能人の高齢出産最高齢記録だった[11][出典無効]

1992年平成4年)、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子・冬彦(佐野史郎)を溺愛する強かな姑役を演じ、以降はこれまでの母親役以外に強烈な姑役が加わった。1994年(平成6年)に日本に居たかった野際は、アメリカに拠点を移したかった千葉と離婚[12]記者会見の際には同席してマスコミに臨んだ。後に野際は2013年の『ボクらの時代』に出演した際、「当初から結婚生活自体に違和感を覚えていた。結婚前から大変な結婚になりそうだ、という予感はあった。離婚に向け、全てが整うまで21年かかった。結婚してからも夫婦というより仲間の延長のような感じだった」と語っている[13]

1996年(平成8年)10月5日、『オールスター感謝祭'96超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』では50問234.30で60歳255日での最年長優勝を果たした[14]

2011年平成23年)3月の原発事故を受け、「原発からでた放射能を無害にする技術ができない限り、原発はありえない」と反原発のスタンスであることをインタビューで語っている。このため、震災後に自宅の照明器具を全て省エネのためLEDに交換している[15]

2013年平成25年)12月現在、特定秘密保護法の制定に関して反対表明をしている芸能人の1人である[16]

2016年(平成28年)11月23日石川県河北郡津幡町の広報特使を委嘱された[17]

人物

家族仲が良く実家の家族とよくバーベキューを楽しみ[18]、還暦を迎えたのを機に『脱いでみようか』というタイトルのエッセイを出版している。本人曰く「還暦を機に心の中を少し脱いでみようか」との意味でこのタイトルに落ち着いた[19][出典無効]

多趣味であり、独身時代から勉強していた語学に加え、結婚後も子供と一緒にアイスダンスピアノなどを習っていた事がある[18]。近年は雑誌の取材で玉村豊男のアトリエを訪れた事がきっかけで水彩画を描いている[20]。健康おたくを自称するくらい健康には気を使っており、自分で考案したり人に聞いたりした健康ドリンクを長年飲み続け[18]、「老いは股関節から来る」と主治医に聞いてからストレッチを続け、180度開脚できるようになった[20]

テレビドラマ『キイハンター』や『鬼平犯科帳』などで共演した丹波哲郎から妹のように可愛がられ[21]、所属しているラヴァンスも丹波が設立した「丹波プロダクション」が元である。佐野史郎はドラマ『ずっとあなたが好きだった』で野際と共演していた時に、丹波から「陽子をヨロシク!」と声をかけられている[21]。『ずっとあなたが好きだった』の後も『ダブル・キッチン』など着物を着た姑役が続くが、「私の後(の姑役)は、浅野ゆう子さんにでもお願いしようかしらね」と語り、浅野とも交流が続いている。

夫婦役では『ダブル・キッチン』以降伊東四朗との共演が多く、伊東は「野際さんは本当にお若いし努力家で素晴らしい人」と評している[要出典]橋爪功とは映画『善人の条件』、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』『スウィート・ホーム『京都迷宮案内』『新・京都迷宮案内』(無印から9シリーズ連続共演)『笑う三人姉妹』、『告発〜国選弁護人』などで共演している。黒柳徹子とはNHKアナウンサー時代から公私にわたり60年以上の親交がある[要出典]。そのため『徹子の部屋』の草創期からの常連出演者[要出典]であり、2000年代以降は番組の節目や特別番組などに招かれている[要出典]21回出演しており、女性ゲストでは最多である[要出典]

出演

テレビドラマ

映画

舞台

吹き替え

ラジオ

バラエティ

旅番組

教養番組

ドキュメンタリー

  • ヒューマンドキュメンタリー「ある少女の選択〜18歳“いのち”のメール〜」(2011年7月22日、NHK) - ナレーション
  • ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜(2013年10月 - 、BS朝日) - 日曜インタビュアー(土曜インタビュアーの舘野晴彦とともに担当)

音声ガイド

  • 東京国立博物館 特別展「京都-洛中洛外図と障壁画の美」(2013年)

CM

歌・著書

脚注

注釈

  1. ^ 杉並区立若杉小と統合され杉並区立天沼小学校に変わり、2008年2月23日閉校。
  2. ^ 「芸能人のおしどり夫婦がCMで出演」という流れの始まりだった。

出典

  1. ^ a b 「ちかづく かがやく ほくりくへGO!」”. 東京新聞. 中日新聞東京本社. 2017年4月22日閲覧。
  2. ^ a b 平成29年津幡町議会3月会議・提案理由説明の抜粋” (PDF). 津幡町 (2017年3月6日). 2017年4月22日閲覧。
  3. ^ a b c d 野際陽子”. 日本タレント名鑑. VIPタイムズ社. 2017年3月24日閲覧。
  4. ^ a b c 野際陽子”. ラヴァンス. 2016年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月24日閲覧。
  5. ^ a b c 野際陽子『脱いでみようか』扶桑社、1996年1月、[要ページ番号]頁。ISBN 4-594-01885-8 
  6. ^ a b 『近代映画』1970年1月号、近代映画社、152頁。 
  7. ^ 1980年5月30日出演の徹子の部屋[出典無効]
  8. ^ 2012年4月8日出演のフジテレビ・ボクらの時代[出典無効]
  9. ^ a b c 「大山勝美のテレビドラマ内緒ばなし(10) 岡本愛彦と森光子」『週刊文春』1983年1月27日号、文藝春秋、76-77頁。 
  10. ^ a b 「女優が語る私の人生」 ラジオ深夜便、2010年8月7日放送分。[出典無効]
  11. ^ 徹子の部屋、2011年2月4日出演分。[出典無効]
  12. ^ 千葉真一『千葉真一 改め 和千永倫道』山と渓谷社、2008年5月、113-114頁。ISBN 978-4-635-34022-9 
  13. ^ ボクらの時代”. TVでた蔵 (2013年5月26日). 2014年7月1日閲覧。
  14. ^ 過去の成績”. オールスター感謝祭. TBSテレビ. 2017年3月24日閲覧。
  15. ^ 革新懇ニュース 2011年9月号”. 全国革新懇. 2017年3月24日閲覧。
  16. ^ “秘密保護法:著名人多数が反対、懸念を表明”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2013年12月8日). オリジナルの2013年12月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131208035504/http://mainichi.jp/select/news/20131207k0000e040164000c.html 
  17. ^ 野際陽子氏「津幡町広報特使」委嘱状交付式の開催について” (PDF). 産業建設部交流経済課. 津幡町 (2016年11月17日). 2017年3月24日閲覧。
  18. ^ a b c 『elan』2001年12月号、扶桑社[要ページ番号] 
  19. ^ 1996年出演の徹子の部屋[出典無効]
  20. ^ a b 『毎日が発見』2010年6月号、KADOKAWA、2010年5月28日、[要ページ番号] 
  21. ^ a b 佐野史郎 (2006年9月27日). “丹波哲郎さん大霊界へ逝く”. 橘井堂. 2013年2月9日閲覧。
  22. ^ “東山紀之主演『必殺仕事人』最新作9・25放送 悪役は安田顕&寺島進”. ORICON STYLE (オリコン). (2016年8月19日). http://www.oricon.co.jp/news/2077018/full/ 2016年8月19日閲覧。 
  23. ^ “11年目の『警視庁捜査一課9係』4月期に放送 野際陽子が初参戦”. ORICON STYLE (オリコン). (2016年2月8日). http://www.oricon.co.jp/news/2066498/full/ 2016年2月8日閲覧。 

外部リンク