「三遊亭金朝」の版間の差分
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([[1849年]]([[嘉永]]2年)(逆算) - [[1909年]](明治42年)[[3月22日]])本名:赤田 滝次郎。 |
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東京神田の屋根板職の家に生まれる。最初は[[天狗連]]で志ら玉(ないし白玉)を名乗って[[声色]]をやっていた。後に圓朝に見出され2代目金朝を名乗った。 |
東京神田の屋根板職の家に生まれる。最初は[[天狗連]]で志ら玉(ないし白玉)を名乗って[[物真似|声色]]をやっていた。後に圓朝に見出され2代目金朝を名乗った。 |
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この2代目金朝も芝居噺を演じ特に[[市川左團次 (初代)|初代市川左團次]]の声色を得意とした。市川左團次の[[加賀騒動|浅尾の局]]が十八番で[[屋号]]にちなんで[[高島屋 (歌舞伎)|高島屋]]金朝なるあだ名もあった。 |
この2代目金朝も芝居噺を演じ特に[[市川左團次 (初代)|初代市川左團次]]の声色を得意とした。市川左團次の[[加賀騒動|浅尾の局]]が十八番で[[屋号]]にちなんで[[高島屋 (歌舞伎)|高島屋]]金朝なるあだ名もあった。 |
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[[1892年]](明治25年)秋に目の病気を患い治療などをしていたが、甲斐なく失明する。 |
[[1892年]](明治25年)秋に目の病気を患い治療などをしていたが、甲斐なく失明する。 |
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[[1907年]](明治40年)6月28日には[[生前葬|生葬式]]を挙行、経帷子を着用し首より頭陀袋を掛け |
[[1907年]](明治40年)6月28日には[[生前葬|生葬式]]を挙行、経帷子を着用し首より頭陀袋を掛け、自分の棺のあとに従って寺まで葬送するなど、風変わりなものだった。後日6月28日を金朝の命日と定めた。ちなみに[[曽呂利新左衛門|2世曽呂利新左衛門]]も同様の葬式を後に行っている。 |
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1909年(明治42年)3月22日に死去した。享年61。 |
1909年(明治42年)3月22日に死去した。享年61。 |
2017年7月19日 (水) 04:00時点における版
初代
三遊亭圓朝の門人。芝居噺を得意とした。後に上方に行く。生没年不詳。幕末から明治初年に存在。
2代目
2代目 三遊亭 金朝 | |
本名 | 赤田 滝次郎 |
---|---|
別名 | 高島屋金朝 |
生年月日 | 1849年 |
没年月日 | 1909年3月22日 |
出身地 | 日本・東京 |
師匠 | 初代三遊亭圓朝 |
名跡 | 2代目三遊亭金朝 |
活動期間 | ? - 1909年 |
活動内容 | 芝居噺・声色 |
家族 | 3代目三遊亭金朝(実子) 10代目田中傳左衛門(実子) |
所属 | 三遊派 |
備考 | |
生前葬 | |
(1849年(嘉永2年)(逆算) - 1909年(明治42年)3月22日)本名:赤田 滝次郎。
東京神田の屋根板職の家に生まれる。最初は天狗連で志ら玉(ないし白玉)を名乗って声色をやっていた。後に圓朝に見出され2代目金朝を名乗った。
この2代目金朝も芝居噺を演じ特に初代市川左團次の声色を得意とした。市川左團次の浅尾の局が十八番で屋号にちなんで高島屋金朝なるあだ名もあった。
1892年(明治25年)秋に目の病気を患い治療などをしていたが、甲斐なく失明する。
1907年(明治40年)6月28日には生葬式を挙行、経帷子を着用し首より頭陀袋を掛け、自分の棺のあとに従って寺まで葬送するなど、風変わりなものだった。後日6月28日を金朝の命日と定めた。ちなみに2世曽呂利新左衛門も同様の葬式を後に行っている。
1909年(明治42年)3月22日に死去した。享年61。
死亡記事は先代三遊亭金朝死す 芝居咄を得意とせし同人は昨年来心臓病に罹り治療中去廿二日遂に死亡せり・・・(『万朝報』明治四十二年、三月二十五日)
3代目
3代目 三遊亭 金朝 | |
本名 | 赤田 金太郎 |
---|---|
生年月日 | 1878年 |
没年月日 | 1914年2月13日 |
出身地 | 日本・東京 |
師匠 | 4代目橘家圓喬 初代三遊亭圓遊 4代目柳亭左楽 |
名跡 | 金喬 圓慶 遊人 3代目柳家枝太郎 3代目橘家金朝 3代目三遊亭金朝 |
活動期間 | ? - 1914年 |
活動内容 | 芝居噺・声色 |
家族 | 2代目三遊亭金朝(実父) 10代目田中傳左衛門(実弟) |
所属 | 三遊派 |
(1878年(明治11年)(逆算) - 1914年(大正3年)2月13日)本名:赤田 金太郎。
東京下谷の生まれ、2代目の実の子。実の弟は歌舞伎の囃子方の10代目田中傳左衛門。最初は4代目橘家圓喬の門で金喬、後に圓慶、初代三遊亭圓遊(ステテコの圓遊)の門で遊人、更に1901年(明治34年)7月4代目柳亭左楽の門で3代目枝太郎、圓喬の門に戻り父没後1910年(明治43年)頃に金朝を継いだ。(実際はもう少し早く1906年2月に真打と同時に襲名したのではないかと思われる。)当初は亭号は橘家だったが後に本来の三遊亭にした。その後体調を崩し赤坂の豊川亭の席亭に就いたが1914年(大正3年)2月13日に死去した。
死亡記事は三遊派の落語家で一時真打の看板を掲げたことがある二代目(誤字)金朝は肺病の為久しく寄席を休んでい先頃から赤坂一つ木の寄席豊川亭を経営して居たが、十四日遂に死亡した・・・・・・(『国民新聞』大正三年、二月二十日)
報道された記事では死亡月日が14日と記述されているが『東京朝日新聞』には2月13日となっている。また谷中の永久寺に残る過去帳には同年1月13日と記載されていて一ヶ月の違いが生じる。戒名も過去帳には金山諦道信士とある、『技芸士墓誌』には荒川の泊船軒、三遊亭金朝無脳居士とあり違いがこちらも生じる。
父同様声色が売りであった。
4代目
4代目 三遊亭 金朝 | |
本名 | 大橋 岳登志 |
---|---|
生年月日 | 1975年9月21日(48歳) |
出身地 | 日本・千葉県成田市 |
師匠 | 3代目三遊亭小金馬 |
名跡 | 1. 三遊亭金兵衛(1998年 - 2013年) 2. 4代目三遊亭金朝(2013年 - ) |
出囃子 | 猩々くずし |
活動期間 | 1998年 - |
所属 | 落語協会 |
(1975年(昭和50年)9月21日 - )本名:大橋 岳登志。出囃子は「猩々くずし」。千葉県成田市出身。八千代市立大和田南小学校[1]、成田市立玉造中学校[1]、東京学館高等学校卒業[1]、落語協会所属。
外部リンク
参考文献
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X