コンテンツにスキップ

「八木・宇田アンテナ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
36行目: 36行目:
また、八木・宇田連名の英文論文の前後に、日本語で発表された「短波長ビームに就て」の一連の論文(序文を含めて計12編)は、全て宇田単独名であった。こうした状況にも拘わらず、国内外の[[特許]]出願が八木の単独名で出されたため、[[大日本帝国|日本]]国外の人々には {{lang|en|“Yagi antenna”}} として知られることとなる。後述するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテナが注目されるようになった経緯もあって、後年日本国内でも、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し<ref>虫明康人「[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm]旧論文の内容誤認による電気技術史の不当な歪曲を正す」電気学会電気技術史研究会資料 HEE-96-15、1996年9月11日。]</ref>、最近の学術書その他では八木・宇田アンテナと記述されている<ref>[[岡部金治郎]]が執筆し、[[共立出版]]から'''1965年'''に発行された『新しい電子工学』では、既に「''八木-宇田アンテナ(俗称八木アンテナ)''」と記述されている(p.10)。また、[[前田憲一]]が執筆し、共立出版から'''1959年'''に発行された『電波工学』では、「''いわゆる八木・宇田アンテナ(または単に八木アンテナともいう)''」と記述されている(p.91)。</ref><ref>宇田の墓の、墓誌には八木・宇田アンテナの意匠が掘り込まれている。詳しくは[[宇田新太郎]]を参照。</ref><ref>[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.tomb.takuhon.htm 宇田家 墓誌の拓本]</ref>。元来、発明者名から宇田を外して取得した八木特許<ref>[http://www.sm.rim.or.jp/%7Eymushiak/sub.uda.htm###% 八木特許]</ref>は、現在の社会では容認されないような特許<ref>虫明康人[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.pate.htm 特許出願と論文発表 ]</ref>であると批判されても止むを得ない。なお、八木・宇田両名の発明についての情報は、外国では上述の連名英文論文(1926)<ref>H. Yagi and S. Uda: “Projector of the Sharpest Beam of Electric Waves,” Proc. Imperial Academy of Japan, February 1926. pp. 49-52.</ref>と宇田単独名の一連の論文に基づいているのに対し、日本国内では専門外のフィクション作家の著書(1992)の内容による情報<ref>[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm 内容誤認]</ref>であったため、誤りが生じて混乱した状況になっていたが、最近ようやく正しい情報が認識されるようになった。
また、八木・宇田連名の英文論文の前後に、日本語で発表された「短波長ビームに就て」の一連の論文(序文を含めて計12編)は、全て宇田単独名であった。こうした状況にも拘わらず、国内外の[[特許]]出願が八木の単独名で出されたため、[[大日本帝国|日本]]国外の人々には {{lang|en|“Yagi antenna”}} として知られることとなる。後述するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテナが注目されるようになった経緯もあって、後年日本国内でも、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し<ref>虫明康人「[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm]旧論文の内容誤認による電気技術史の不当な歪曲を正す」電気学会電気技術史研究会資料 HEE-96-15、1996年9月11日。]</ref>、最近の学術書その他では八木・宇田アンテナと記述されている<ref>[[岡部金治郎]]が執筆し、[[共立出版]]から'''1965年'''に発行された『新しい電子工学』では、既に「''八木-宇田アンテナ(俗称八木アンテナ)''」と記述されている(p.10)。また、[[前田憲一]]が執筆し、共立出版から'''1959年'''に発行された『電波工学』では、「''いわゆる八木・宇田アンテナ(または単に八木アンテナともいう)''」と記述されている(p.91)。</ref><ref>宇田の墓の、墓誌には八木・宇田アンテナの意匠が掘り込まれている。詳しくは[[宇田新太郎]]を参照。</ref><ref>[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.tomb.takuhon.htm 宇田家 墓誌の拓本]</ref>。元来、発明者名から宇田を外して取得した八木特許<ref>[http://www.sm.rim.or.jp/%7Eymushiak/sub.uda.htm###% 八木特許]</ref>は、現在の社会では容認されないような特許<ref>虫明康人[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.pate.htm 特許出願と論文発表 ]</ref>であると批判されても止むを得ない。なお、八木・宇田両名の発明についての情報は、外国では上述の連名英文論文(1926)<ref>H. Yagi and S. Uda: “Projector of the Sharpest Beam of Electric Waves,” Proc. Imperial Academy of Japan, February 1926. pp. 49-52.</ref>と宇田単独名の一連の論文に基づいているのに対し、日本国内では専門外のフィクション作家の著書(1992)の内容による情報<ref>[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm 内容誤認]</ref>であったため、誤りが生じて混乱した状況になっていたが、最近ようやく正しい情報が認識されるようになった。


[[欧米]]の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用して[[レーダー]]の性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。しかし、八木アンテナ開発当時の[[1920年代]]日本の学界や[[軍]]では、敵を前にして電波を出すなど暗闇に[[ちょうちん]]を灯して位置を知らせるも同然だと考えられ、重要な発明とみなされていなかった。このことをあらわす逸話として、[[1942年]]に[[日本軍]]が[[シンガポールの戦い]]で[[イギリス]]の[[植民地]]であった[[シンガポール]]を[[占領]]し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには[[捕虜]]の[[イギリス軍|イギリス兵]]に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した[[日本人]]の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている<ref>[http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/electronics/010.html#top テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史] エレクトロニクス立国の源流を探る 週刊BEACON]</ref>
[[欧米]]の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用して[[レーダー]]の性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。しかし、八木アンテナ開発当時の[[1920年代]]には、大日本帝国の学界や[[日本軍]]では、敵を前にして電波を出すなど暗闇に[[ちょうちん]]を灯して、自分の位置を知らせるも同然だと考えられ、重要な発明と見做されていなかった。


このことをあらわす逸話として、[[1942年]]に[[日本軍]]が[[シンガポールの戦い]]で[[イギリス]]の[[植民地]]であった[[シンガポール]]を[[占領]]し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには[[捕虜]]の[[イギリス軍|イギリス兵]]に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した[[日本人]]の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている<ref>[http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/electronics/010.html#top テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史] エレクトロニクス立国の源流を探る 週刊BEACON]</ref>。
シンガポール占領から約4カ月後の[[ミッドウェイ海戦]]において、軍は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、日本の連合艦隊に大損害を与えた<ref>[[高山正之]]『変見自在 サダム・フセインは偉かった』[[新潮社]] ISBN 9784103058717・[[新潮文庫]]: ISBN 978-4-10-134590-1</ref>。さらに後には[[アメリカ軍]]が[[広島市|広島]]と[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾]]を[[日本への原子爆弾投下|投下]]した際にも、最も爆発の領域の広がる場所を特定するために八木の技術を用いた受信機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などでアンテナの利用を確認できる。

シンガポール占領から約4カ月後の[[ミッドウェイ海戦]]において、[[アメリカ]]は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、[[大日本帝国海軍]]の連合艦隊に大損害を与えた<ref>[[高山正之]]『変見自在 サダム・フセインは偉かった』[[新潮社]] ISBN 9784103058717・[[新潮文庫]]: ISBN 978-4-10-134590-1</ref>。さらに後には[[アメリカ軍]]が[[広島市]]と[[長崎市]]に[[原子爆弾]]を[[日本への原子爆弾投下|投下]]した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆発高度を特定するために八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などでアンテナの利用を確認できる。
[[ファイル:Рус–2.jpg|thumb|200px|反射器を持たない初期のレーダー用八木・宇田アンテナの例、[[ソビエト連邦]]の対空レーダー{{仮リンク|RUS-2|ru|РУС-2}}のイラスト。]]
[[ファイル:Рус–2.jpg|thumb|200px|反射器を持たない初期のレーダー用八木・宇田アンテナの例、[[ソビエト連邦]]の対空レーダー{{仮リンク|RUS-2|ru|РУС-2}}のイラスト。]]
なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、[[大日本帝国]]のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は[[1930年代]]後半に入って[[大日本帝國陸軍|日本陸軍]]が'''防空'''を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒[[レーダー#パルスレーダー|パルスレーダー]]である「超短波警戒機 乙」は、[[ナチス・ドイツ]]からの技術導入で開発された<ref>徳田八郎衛 『間に合わなかった兵器』 2007年、光人社NF文庫</ref>ものであり、アンテナには無指向性の[[テレフンケン]]型(箱型)と呼ばれるものや、[[ダイポールアンテナ]]が利用されていた。
なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、[[大日本帝国]]のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は[[1930年代]]後半に入って[[大日本帝國陸軍|日本陸軍]]が'''防空'''を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒[[レーダー#パルスレーダー|パルスレーダー]]である「超短波警戒機 乙」は、[[ナチス・ドイツ]]からの技術導入で開発された<ref>徳田八郎衛 『間に合わなかった兵器』 2007年、光人社NF文庫</ref>ものであり、アンテナには無指向性の[[テレフンケン]]型(箱型)と呼ばれるものや、[[ダイポールアンテナ]]が利用されていた。

2017年7月28日 (金) 15:30時点における版

八木・宇田アンテナ(やぎ・うだアンテナ、英語: Yagi-Uda Antenna)は、宇田新太郎の主導的研究によって、八木秀次との共同で発明されたアンテナの一種である。素子の数により調整できる指向性アンテナである。一般には八木アンテナという名称で知られている(下記の歴史的経緯を参照されたい。またダイポールアンテナの項も参照されたい)。

主にテレビ放送FM放送の受信用やアマチュア無線業務無線基地局用などに利用される。

概要

テレビ受信用八木・宇田アンテナ(上段がVHF帯域用、下段がUHF帯域用)
広帯域化の工夫がされた八木アンテナである
上 : 5素子八木宇田アンテナ
下 : スタックの種類
水平に並べるのは正しくは「パラレル」(パラ)である
NHK放送博物館に展示された、当時の研究用八木・宇田アンテナ
機首に八木・宇田アンテナを装備しレーダーを搭載したメッサーシュミット Bf110G2

一番後に反射器(リフレクタ)、その前に輻射器(給電する部品。ラジエータ)、その前に導波器(ディレクタ)の素子(エレメント)を並べた構造になっている(図を参照)。

導波器は棒状で輻射器よりも短く、反射器は同形状で輻射器よりも長い。このアンテナは指向性があり、その方向は反射器から導波器の方向になる。なお、各素子の長さがそのまま送受信出来る周波数に対応していると説明されることがあるが、誤りである。

八木・宇田アンテナと非常によく似た形の位相差給電アンテナ対数周期アンテナ(ログペリオディックアンテナ。通称 : ログペリ)があるが、これらは原理が異なる別のアンテナである。

今日の超短波 (VHF) 帯以上の実用的な構成としては反射器は通常1素子を、導波器は複数を用いて指向性を鋭くアンテナの利得を高くするようにしている。輻射器としては半波長ダイポールアンテナまたは折返しダイポールアンテナが用いられる。垂直偏波の場合は、スリーブアンテナブラウンアンテナが用いられることもある。

テレビ受信用

電波を受信する際、素子数が少ないほど利得が小さく近距離受信に向いており逆に多いほど利得が大きく遠距離受信に向いている。一般的に放送区域内の極超短波(UHFテレビ)放送受信には中距離受信用(14 - 20素子程度が多い、電界強度が非常に強い場合はそれより少ない素子数のものを用いる)のアンテナをアナログ放送は地上3 - 10m程度の高さ、デジタル放送は地上10m程度の高さで受信、放送区域外の場合は遠距離受信用(20 - 30素子程度、場合によってはパラスタックアンテナ)のアンテナで受信する。

但し素子を増やせば増やすほど素子1本追加する毎の利得の伸びは小さくなり、その反面、形状が非常に大きくなり設置が困難となるため一般に市販されているテレビ放送受信用の場合VHFで15素子、UHFで30素子、FM放送受信用の場合10素子を越えるアンテナは一般的ではない(かつてはマスプロ電工で10素子用のFMアンテナ「FM10」を生産していた)。しかし、指向性は鋭くなるため混信防止などの目的でこれらの数を越える素子のアンテナが用いられることもある。

主に放送受信用として利用されている各周波数帯用のアンテナの種類は、FM放送用 (76 - 90MHz) ・VHFローチャンネル (1 - 3ch) 用・VHFハイチャンネル用 (4 - 12ch) ・VHFマルチチャンネル用(VHF全1 - 12ch)・UHFローチャンネル用(主に13 - 28ch)・UHFハイチャンネル用(主に25 - 62ch)・UHFマルチチャンネル用(UHF全13 - 62ch※現在は主に13 - 52ch)などがある。また、VHF・UHF共用のアンテナも存在する(主に関西地方や北海道渡島地方などVHFとUHFの送信所が同方向の地域で利用されるほか地上アナログ放送地上デジタル放送の受信アンテナを一本化できるため、関東地方でも立てている世帯もわずかながらある)。なお、VHF用アンテナについては2010年夏に大手メーカー各社が生産打ち切りを発表している。

送信アンテナから近く十分に電界強度がある地域でも、素子数の多いアンテナを使う方がよいことがある。ビル街や地形などによりマルチパスが生じている場合である。素子数が多いアンテナは指向性が鋭いので、マルチパスの影響を受けにくくなるからである。指向性を鋭くするには素子数の多いアンテナを使う以外に、スタックを組む方法もある。水平面の指向性を鋭くするには水平スタック(パラレルとも言う)を組み、垂直面の指向性を鋭くするには垂直スタックを組む。

八木・宇田アンテナの開発者である八木秀次博士が創業したメーカー・八木アンテナ株式会社(現在の株式会社日立国際八木ソリューションズ)は、2013年11月末日をもってテレビ受信用アンテナと関連する大部分の製品について製造及び販売を終了している。その後も同社直営の通信販売部門で一部の製品を継続販売していたが、2014年12月にホームページにおいて、2015年2月27日をもって営業を終了することが掲載された。

歴史

このアンテナが発明される発端は当時八木、宇田が所属した東北帝国大学工学部電気工学科で行われていた実験にあった。実験中に電流計の針が異常な振れ方をするので原因を探求したところ、実験系の近くに置かれた金属棒の位置が関係していることが突き止められた。ここからこのアンテナの基本となる原理が発見され、1926年に八木の出願により特許権を得た[1]とされている。

しかしながら、この八木特許の名称は「電波指向方式」[2]であって、上述のような基本原理とは称し得ない内容の特許である。実は、1924年に八木教授研究室で講師に就任した宇田新太郎が、多数の導体棒を配列して構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、「短波長ビーム」を発生させる配列方法を解明し、1926年にその研究成果を八木・宇田の連名[3]の英文論文として発表した。その内容が八木特許[4]「電波指向方式」となっているのである。しかも、その特許の出願は八木単独名により, 発明者名から宇田を除外して、宇田の知らない間に行われたという事実が記録に残されている[5][6]

また、八木・宇田連名の英文論文の前後に、日本語で発表された「短波長ビームに就て」の一連の論文(序文を含めて計12編)は、全て宇田単独名であった。こうした状況にも拘わらず、国内外の特許出願が八木の単独名で出されたため、日本国外の人々には “Yagi antenna” として知られることとなる。後述するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテナが注目されるようになった経緯もあって、後年日本国内でも、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し[7]、最近の学術書その他では八木・宇田アンテナと記述されている[8][9][10]。元来、発明者名から宇田を外して取得した八木特許[11]は、現在の社会では容認されないような特許[12]であると批判されても止むを得ない。なお、八木・宇田両名の発明についての情報は、外国では上述の連名英文論文(1926)[13]と宇田単独名の一連の論文に基づいているのに対し、日本国内では専門外のフィクション作家の著書(1992)の内容による情報[14]であったため、誤りが生じて混乱した状況になっていたが、最近ようやく正しい情報が認識されるようになった。

欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。しかし、八木アンテナ開発当時の1920年代には、大日本帝国の学界や日本軍では、敵を前にして電波を出すなど「暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然」だと考えられ、重要な発明と見做されていなかった。

このことをあらわす逸話として、1942年日本軍シンガポールの戦いイギリス植民地であったシンガポール占領し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには捕虜イギリス兵に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている[15]

シンガポール占領から約4カ月後のミッドウェイ海戦において、アメリカ軍は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、大日本帝国海軍の連合艦隊に大損害を与えた[16]。さらに後には、アメリカ軍広島市長崎市原子爆弾投下した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆発高度を特定するために、八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などで、アンテナの利用を確認できる。

反射器を持たない初期のレーダー用八木・宇田アンテナの例、ソビエト連邦の対空レーダーRUS-2ロシア語版のイラスト。

なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、大日本帝国のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は1930年代後半に入って日本陸軍防空を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒パルスレーダーである「超短波警戒機 乙」は、ナチス・ドイツからの技術導入で開発された[17]ものであり、アンテナには無指向性のテレフンケン型(箱型)と呼ばれるものや、ダイポールアンテナが利用されていた。

八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射される問題(バックローブ)があり、万一バックローブ側の電波で航空機(友軍機も含まれる)を探知してしまうと、測定結果が180度入れ替わって表示されるので正確な捕捉が行えない。また、水平方向を監視する哨戒レーダー、とりわけ艦船に設置する場合など、指向性と同時に電波発射元の秘匿も重視しなければならない用途では、英米でも戦後にならなければ八木・宇田アンテナを用いる事が出来なかった。前述の英軍の対空射撃レーダー(GL Mk.IIレーダー英語版)のような攻撃を目的とした射撃管制レーダーの場合、地上設置ではアンテナに仰角を必ず取る事になり、大地がバックローブを吸収拡散する。また、航空機での固定航空機銃照準レーダーの場合は、バックローブでの誤探知の問題は敵機に真後を取られた状況くらいでしか発生しない為、哨戒レーダーほど問題は大きくならない。この為八木・宇田アンテナを導入しやすかったのである。

反射器に金網を用いた八木・宇田アンテナの例。ソビエト連邦の照空灯誘導レーダー「РП-15-1」。同時期のイギリスもNo.2 Mk.6レーダーで同様の八木・宇田アンテナを用いていた。

日本軍での八木・宇田アンテナの導入の遅れで一番問題となったのは、反射器の設計技術であった。日本軍はシンガポール戦後、直ちに八木アンテナの研究開発に取り組んだものの、ただ闇雲に素子を並べてもバックローブの問題が解決できないので、妥協案として八木・宇田アンテナの後方に金網を設置して反射器の代わりとした。しかし、これでも送受信機の利得や出力に見合った性能が得られなかったので、鹵獲した英米の対空射撃レーダーのコピー品にはオリジナルからの相当な性能の低下が生じた。金網反射器は艦船に搭載するものの場合、風圧(艦砲射撃の爆圧も含まれる)で破損や変形をおこしやすい問題もあり、アンテナ自体の小型化が進まない要因ともなった[18][19]

機首に八木・宇田アンテナを装備しレーダーを搭載した月光一一型

また、大戦後期には連合国側、とりわけイギリスでは八木・宇田アンテナは万能ではなく、用途によっては軍事利用には不向きである事にも気付いていた。八木・宇田アンテナは航空機に搭載する場合、素子が突起物となって空気抵抗が増大し、機体性能の低下を招く欠点があり、機体の最高速度が増せば増すほどそれに見合った大型で頑丈な八木・宇田アンテナが必要になる矛盾が生じる為、イギリスではより小型のパラボラアンテナの開発に注力、大戦後期には空気抵抗の低下を最小限に抑えるレドームの技術開発にも成功し、重爆撃機による夜間の戦略爆撃に大きな成果を挙げている。一方、マグネトロンによるマイクロ波レーダーの技術が乏しかった枢軸国側の夜間戦闘機は、八木・宇田アンテナを機首に搭載して運動性能が低下した夜間戦闘機で、連合国機とは不利な戦闘を強いられる事となった。

飛島にある超短波実用無線電話開通記念碑

一方、宇田は八木・宇田アンテナの発明後はその実用化を目指し、国内の近辺各地に自ら出向いて意欲的な実験を続けた。例えば、1932年には酒田飛島(約40kmの離島)間での超短波通信に成功し、1933年には逓信省が、わが国初の超短波公衆電話回線を酒田・飛島間に開設した。この業績に対し、飛島の関係者の推薦により、宇田は第1回河北文化賞を受賞した[20]

八木は1926年2月に、このアンテナで無線のエネルギー伝達を試みた。八木と宇田は、波のプロジェクター指向性アンテナ(英語: Wave Projector Directional Antenna)に関する最初の報告書を公表した。八木はなんとか概念の証拠を実証したが、技術的問題として従来の技術よりもよりわずらわしいことが判明した。しかし、1954年には英文著書 YAGI-UDA ANTENNA[21]が出版された。

この発明は、電気技術史に残るものとして、1995年にIEEEマイルストーンに認定された。銘板は東北大学片平キャンパス内に置かれている。「日本でのマイルストーン受賞リスト」によると、贈呈式年月と受賞テーマ(カッコ内は対象年・期間)および受賞者が、次のように示されている。

     • 1995年6月  指向性短波長アンテナ<八木・宇田アンテナ>(1924年)- 東北大学

ここで、(1924年)と記されているのは、宇田が講師に就任し、多数の導体棒配列で構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、「短波長ビーム」を発生させる配列方法の研究を開始し、新しい成果を得た年である。

2016年9月6日国立科学博物館重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第00210号として、世界最初の超短波アンテナであることを評価され、登録された[22]

「地デジ化」によるVHFテレビ用アンテナ消滅

日本の固定テレビ向け地上波テレビ放送は、2012年3月31日にアナログ放送が終了し、デジタル放送(UHFを使用)に完全移行した結果(2011年問題 (日本のテレビジョン放送)を参照)、VHFを使用しなくなったため、受信用の「VHF」と「VU共用タイプ」については2010年8月末までに国内メーカー全社が生産終了した。

但し、VHF帯FMラジオ受信用の八木・宇田アンテナは、国内メーカーのカタログに現存している(2013年6月現在)。

脚注

  1. ^ 特許庁ホームページ十大発明家(日本の特許庁)]
  2. ^ 電波指向方式
  3. ^ H. Yagi and S. Uda: “Projector of the Sharpest Beam of Electric Waves,” Proc. Imperial Academy of Japan, February 1926. pp. 49-52.
  4. ^ 八木特許
  5. ^ 内容誤認
  6. ^ Yagi's patent on the Yagi-Uda antenna.
  7. ^ 虫明康人「[1]旧論文の内容誤認による電気技術史の不当な歪曲を正す」電気学会電気技術史研究会資料 HEE-96-15、1996年9月11日。]
  8. ^ 岡部金治郎が執筆し、共立出版から1965年に発行された『新しい電子工学』では、既に「八木-宇田アンテナ(俗称八木アンテナ)」と記述されている(p.10)。また、前田憲一が執筆し、共立出版から1959年に発行された『電波工学』では、「いわゆる八木・宇田アンテナ(または単に八木アンテナともいう)」と記述されている(p.91)。
  9. ^ 宇田の墓の、墓誌には八木・宇田アンテナの意匠が掘り込まれている。詳しくは宇田新太郎を参照。
  10. ^ 宇田家 墓誌の拓本
  11. ^ 八木特許
  12. ^ 虫明康人特許出願と論文発表
  13. ^ H. Yagi and S. Uda: “Projector of the Sharpest Beam of Electric Waves,” Proc. Imperial Academy of Japan, February 1926. pp. 49-52.
  14. ^ 内容誤認
  15. ^ テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史 エレクトロニクス立国の源流を探る 週刊BEACON]
  16. ^ 高山正之『変見自在 サダム・フセインは偉かった』新潮社 ISBN 9784103058717新潮文庫: ISBN 978-4-10-134590-1
  17. ^ 徳田八郎衛 『間に合わなかった兵器』 2007年、光人社NF文庫
  18. ^ 英米のレーダーをコピー - 太平洋戦争 レーダー開発史
  19. ^ 金網反射器 - 海軍レーダー徒然草- 暗天南
  20. ^ 宇田新太郎、超短波の研究とその実用化の功績に対し、河北新報社より、第1回河北文化賞を受賞、1952年1月17日
  21. ^ S. Uda and Y. MushiakeYAGI-UDA ANTENNA 183頁, 取扱店, 丸善, 東京.
  22. ^ 重要科学技術史資料一覧

関連項目

外部サイト