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「立石様」の版間の差分

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'''立石様'''(たていしさま)は、[[日本]]全国に分布する'''立石'''([[メンヒル]]・[[道標]]・[[墓標]]など)を周辺住民が崇拝あるいは畏怖の気持ちをこめて呼ぶ尊称。[[巨石記念物]]の項も参照のこと。
'''立石様'''(たていしさま)は、[[日本]]全国に分布する'''立石'''([[メンヒル]]・[[道標]]・[[墓標]]など)を周辺住民が崇拝あるいは畏怖の気持ちをこめて呼ぶ尊称。[[巨石記念物]]の項も参照のこと。


== 全国主な立石様==
== 東京都葛飾区立石の立石様==
[[File:Tateishi-sama 02.JPG|thumb|250px|東京都葛飾区の立石様]]
[[File:Tateishi-sama 02.JPG|thumb|250px|東京都葛飾区の立石様]]
[[東京都]][[葛飾区]][[立石 (葛飾区)|立石]]八丁目37番17号にある。現在は児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。
; 東京都葛飾区立石の立石様

: [[東京都]][[葛飾区]][[立石 (葛飾区)|立石]]八丁目37番17号にある。現在は児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。
: 江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本([[兎園会|兎園小説]]、[[明細帳]]、[[江戸名所図会]]など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。
江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本([[兎園会|兎園小説]]、[[明細帳]]、[[江戸名所図会]]など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。

: 後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたことや地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。
後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたことや地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。


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2017年8月23日 (水) 17:20時点における版

立石様(たていしさま)は、日本全国に分布する立石メンヒル道標墓標など)を周辺住民が崇拝あるいは畏怖の気持ちをこめて呼ぶ尊称。巨石記念物の項も参照のこと。

東京都葛飾区立石の立石様

東京都葛飾区の立石様

東京都葛飾区立石八丁目37番17号にある。現在は児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。

江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説明細帳江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。

後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたことや地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。