「足利義氏 (足利家3代目当主)」の版間の差分
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三男ながら、[[正室]]の[[北条氏]]の所生であったため家督を継ぐ。そのため終生北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、[[和田合戦]]や[[承久の乱]]など、重要な局面において[[北条義時]]・[[北条泰時|泰時]]父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である[[足利泰氏|泰氏]]に譲っている。 |
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承久の乱で[[京都|京]]([[京都府]][[京都市]])と[[鎌倉]]([[神奈川県]][[鎌倉市]])の間の[[東海道]]の[[三河国]]守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の[[足利尊氏|尊氏]]が京の[[六波羅探題]]を落としたときに関東から[[鎌倉幕府]]勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのもこの為である。三河国では[[源頼政]]の孫[[大河内氏#長沢松平家に養子になる前|大河内顕綱]]などを家臣に入れ勢力を拡大し、庶長子の[[吉良長氏|長氏]]を幡豆郡吉良荘(現在の[[愛知県]][[西尾市]])に住ませて足利氏の分家[[吉良氏]](後に[[今川氏]]が分家)を誕生させた。 |
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[[三河国|三河]][[守護]]職、[[陸奥守]]、[[武蔵守]]などを歴任し、[[仁治]]3年([[1241年]])[[出家]]。[[建長]]元年([[1249年]])には正義山[[法楽寺 (足利市)|法楽寺]]([[栃木県]][[足利市]])を建立している。 |
2017年9月8日 (金) 08:03時点における版
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時代 | 鎌倉時代前期 |
生誕 | 文治5年(1189年) |
死没 | 建長6年11月21日(1255年1月1日) |
改名 | 義氏→正義(法名) |
別名 | 上総三郎、左馬頭入道正義 |
墓所 | 栃木県足利市、法楽寺 |
官位 | 三河守護、陸奥守、武蔵守、左馬頭、正四位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源実朝、藤原頼経 |
氏族 | 河内源氏義国流、足利氏 |
父母 | 足利義兼、時子(北条時政の娘) |
兄弟 |
畠山義純、桃井義助、義氏、 藤原親兼室、野田朝氏室 |
妻 | 北条泰時の娘 |
子 |
吉良長氏、泰氏、吉良義継、 新田政義室、能子(四条隆親室)、世良田頼氏室 |
足利 義氏(あしかが よしうじ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。
生涯
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Tomb_of_Ashikaga_Yoshiuji.jpg/250px-Tomb_of_Ashikaga_Yoshiuji.jpg)
三男ながら、正室の北条氏の所生であったため家督を継ぐ。そのため終生北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている。
承久の乱で京(京都府京都市)と鎌倉(神奈川県鎌倉市)の間の東海道の三河国守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の尊氏が京の六波羅探題を落としたときに関東から鎌倉幕府勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのもこの為である。三河国では源頼政の孫大河内顕綱などを家臣に入れ勢力を拡大し、庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に住ませて足利氏の分家吉良氏(後に今川氏が分家)を誕生させた。
三河守護職、陸奥守、武蔵守などを歴任し、仁治3年(1241年)出家。建長元年(1249年)には正義山法楽寺(栃木県足利市)を建立している。
逸話
同名の人物
- 足利義氏 (古河公方) – 子孫。古河公方。足利義輝より「義」の字を賜ったため同名を名乗ることとなった。