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2006ウィンブルドン優勝と生涯グランドスラムについて追加
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[[1978年]][[4月29日]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]]カマリロで双子の兄弟が誕生した時、マイケル・カールは双子の兄として2分先に生まれた。ブライアン兄弟は両親ともにテニスのコーチで、双子の兄弟は2歳の頃から両親に[[テニス]]を学んだ。2人の兄弟は早くから、トーナメントのシングルスで「兄弟対決」を両親に禁じられてきたという。2人とも[[1997年]]から[[1998年]]の2年間[[スタンフォード大学]]に在学し、[[NCAA]]主催のテニス大会で活躍した。マイクもボブと同じ[[1998年]]からプロテニス選手に転向した。[[2001年]]から双子の兄弟のペアは[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーで優勝できる力をつけ、この年に年間4勝を挙げる。[[2003年]]の[[全仏オープン]]男子ダブルスで、2人は[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子ダブルス部門で初優勝を達成し、決勝で連覇を狙った[[エフゲニー・カフェルニコフ]]&[[ポール・ハーフース]]組([[オランダ]])を 7-6, 6-3 で破った。同年に[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]でもダブルス決勝に進んだが、[[トッド・ウッドブリッジ]]([[オーストラリア]])&[[ヨナス・ビョークマン]]([[スウェーデン]])組に 7-5, 0-6, 5-7 の逆転で敗れて準優勝になり、年間2冠獲得を逃している。この年は男子テニス年間最終戦「[[テニス・マスターズ・カップ]]」のダブルス部門でも、[[フランス]]ペアの[[ファブリス・サントロ]]&[[ミカエル・ロドラ]]組を破って初優勝を飾った。しかし、[[2004年]]の[[全豪オープン]]男子ダブルス決勝では、サントロ&ロドラ組に 6-7, 3-6 で敗れている。2人は[[2004年]][[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]代表選手にも選ばれたが、ここでは準々決勝で[[チリ]]代表の[[ニコラス・マスー]]&[[フェルナンド・ゴンザレス]]組に敗退した。全米オープンは3回戦敗退に終わったが、テニス・マスターズ・カップで大会2連覇がある。
[[1978年]][[4月29日]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]]カマリロで双子の兄弟が誕生した時、マイケル・カールは双子の兄として2分先に生まれた。ブライアン兄弟は両親ともにテニスのコーチで、双子の兄弟は2歳の頃から両親に[[テニス]]を学んだ。2人の兄弟は早くから、トーナメントのシングルスで「兄弟対決」を両親に禁じられてきたという。2人とも[[1997年]]から[[1998年]]の2年間[[スタンフォード大学]]に在学し、[[NCAA]]主催のテニス大会で活躍した。マイクもボブと同じ[[1998年]]からプロテニス選手に転向した。[[2001年]]から双子の兄弟のペアは[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーで優勝できる力をつけ、この年に年間4勝を挙げる。[[2003年]]の[[全仏オープン]]男子ダブルスで、2人は[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子ダブルス部門で初優勝を達成し、決勝で連覇を狙った[[エフゲニー・カフェルニコフ]]&[[ポール・ハーフース]]組([[オランダ]])を 7-6, 6-3 で破った。同年に[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]でもダブルス決勝に進んだが、[[トッド・ウッドブリッジ]]([[オーストラリア]])&[[ヨナス・ビョークマン]]([[スウェーデン]])組に 7-5, 0-6, 5-7 の逆転で敗れて準優勝になり、年間2冠獲得を逃している。この年は男子テニス年間最終戦「[[テニス・マスターズ・カップ]]」のダブルス部門でも、[[フランス]]ペアの[[ファブリス・サントロ]]&[[ミカエル・ロドラ]]組を破って初優勝を飾った。しかし、[[2004年]]の[[全豪オープン]]男子ダブルス決勝では、サントロ&ロドラ組に 6-7, 3-6 で敗れている。2人は[[2004年]][[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]代表選手にも選ばれたが、ここでは準々決勝で[[チリ]]代表の[[ニコラス・マスー]]&[[フェルナンド・ゴンザレス]]組に敗退した。全米オープンは3回戦敗退に終わったが、テニス・マスターズ・カップで大会2連覇がある。


[[2005年]]のシーズンに、マイクとボブはすべての[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]で男子ダブルス決勝に進出した。[[全豪オープン]]、[[全仏オープン]]、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の3大会連続で準優勝止まりだった2人だが、ついに[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で4大大会ダブルス2勝目を達成する。[[2006年]]の[[全仏オープン]]終了までの時点で、2人は「6大会連続」で4大大会ダブルス決勝を戦っている。[[全豪オープン]]決勝では[[リアンダー・パエス]]([[インド]])&[[マルティン・ダム]]([[チェコ]])組を 4-6, 6-3, 6-4 で破って4大大会3勝目を獲得したが、[[全仏オープン]]では[[マックス・ミールヌイ]]([[ベラルーシ]])&[[ヨナス・ビョークマン]]組に敗れ、2年連続の準優勝で止まった。
[[2005年]]のシーズンに、マイクとボブはすべての[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]で男子ダブルス決勝に進出した。[[全豪オープン]]、[[全仏オープン]]、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の3大会連続で準優勝止まりだった2人だが、ついに[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で4大大会ダブルス2勝目を達成する。[[2006年]]の[[全仏オープン]]終了までの時点で、2人は「6大会連続」で4大大会ダブルス決勝を戦っている。[[全豪オープン]]決勝では[[リアンダー・パエス]]([[インド]])&[[マルティン・ダム]]([[チェコ]])組を 4-6, 6-3, 6-4 で破って4大大会3勝目を獲得したが、[[全仏オープン]]では[[マックス・ミールヌイ]]([[ベラルーシ]])&[[ヨナス・ビョークマン]]組に敗れ、2年連続の準優勝で止まった。[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]では4大大会連続決勝進出記録を伸ばした上、[[ファブリス・サントロ]]([[フランス]])&[[ネナッド・ジモンイッチ]]([[セルビア・モンテネグロ]])組を下して年間二冠及び生涯グランドスラムを達成した。


マイク・ブライアンは混合ダブルスでは、[[2003年]]の[[全仏オープン]]で[[リサ・レイモンド]]と組んだ優勝があり、この大会ではブライアンとの男子ダブルスも合わせて2部門制覇を達成した。しかし、[[2001年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]混合ダブルスでは[[リーゼル・フーバー]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])と組んで準優勝に止まり、[[2002年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]では[[カタリナ・スレボトニク]]と混合ダブルスのペアを組んだが、決勝でボブとネットをはさんだ“兄弟対決”になり、ボブと[[リサ・レイモンド]]の組に敗れている。
マイク・ブライアンは混合ダブルスでは、[[2003年]]の[[全仏オープン]]で[[リサ・レイモンド]]と組んだ優勝があり、この大会ではブライアンとの男子ダブルスも合わせて2部門制覇を達成した。しかし、[[2001年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]混合ダブルスでは[[リーゼル・フーバー]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])と組んで準優勝に止まり、[[2002年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]では[[カタリナ・スレボトニク]]と混合ダブルスのペアを組んだが、決勝でボブとネットをはさんだ“兄弟対決”になり、ボブと[[リサ・レイモンド]]の組に敗れている。

== 4大大会ダブルス優勝 ==
== 4大大会ダブルス優勝 ==
* [[全豪オープン]]:1勝(2006年) [準優勝2度:2004年、2005年]
* [[全豪オープン]]:1勝(2006年) [準優勝2度:2004年、2005年]
* [[全仏オープン]]:1勝(2003年) [準優勝2度:2005年、2006年]
* [[全仏オープン]]:1勝(2003年) [準優勝2度:2005年、2006年]
* [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]:1勝(2006年) [準優勝1度:2005年
* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:1勝(2005年) [準優勝1度:2003年]
* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:1勝(2005年) [準優勝1度:2003年]

: [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]準優勝1度:2005年
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[テニス]]
* [[テニス]]

2006年7月9日 (日) 07:34時点における版

マイク・ブライアンMike Bryan, 1978年4月29日 - )は、アメリカカリフォルニア州カマリロ出身の男子プロテニス選手。双子の兄弟であるボブ・ブライアンとともに「ブライアン兄弟」のダブルスとして活躍している。フルネームは Michael Carl Bryan (マイケル・カール・ブライアン)という。身長190cm、体重87kgで、マイクは右利きである。兄弟2人ともシングルスにはほとんど出場せず、ダブルスのみに活動を絞っている。マイクはこれまでに、ATPツアーでダブルス30勝を挙げている。マイクの優勝がボブの「28勝」を2つ上回っているのは、2002年マーク・ノールズバハマ)、マヘシュ・ブパシインド)と組んで1勝ずつ獲得したためである。

1978年4月29日アメリカカリフォルニア州カマリロで双子の兄弟が誕生した時、マイケル・カールは双子の兄として2分先に生まれた。ブライアン兄弟は両親ともにテニスのコーチで、双子の兄弟は2歳の頃から両親にテニスを学んだ。2人の兄弟は早くから、トーナメントのシングルスで「兄弟対決」を両親に禁じられてきたという。2人とも1997年から1998年の2年間スタンフォード大学に在学し、NCAA主催のテニス大会で活躍した。マイクもボブと同じ1998年からプロテニス選手に転向した。2001年から双子の兄弟のペアはATPツアーで優勝できる力をつけ、この年に年間4勝を挙げる。2003年全仏オープン男子ダブルスで、2人は4大大会男子ダブルス部門で初優勝を達成し、決勝で連覇を狙ったエフゲニー・カフェルニコフポール・ハーフース組(オランダ)を 7-6, 6-3 で破った。同年に全米オープンでもダブルス決勝に進んだが、トッド・ウッドブリッジオーストラリア)&ヨナス・ビョークマンスウェーデン)組に 7-5, 0-6, 5-7 の逆転で敗れて準優勝になり、年間2冠獲得を逃している。この年は男子テニス年間最終戦「テニス・マスターズ・カップ」のダブルス部門でも、フランスペアのファブリス・サントロミカエル・ロドラ組を破って初優勝を飾った。しかし、2004年全豪オープン男子ダブルス決勝では、サントロ&ロドラ組に 6-7, 3-6 で敗れている。2人は2004年アテネ五輪アメリカ代表選手にも選ばれたが、ここでは準々決勝でチリ代表のニコラス・マスーフェルナンド・ゴンザレス組に敗退した。全米オープンは3回戦敗退に終わったが、テニス・マスターズ・カップで大会2連覇がある。

2005年のシーズンに、マイクとボブはすべての4大大会で男子ダブルス決勝に進出した。全豪オープン全仏オープンウィンブルドンの3大会連続で準優勝止まりだった2人だが、ついに全米オープンで4大大会ダブルス2勝目を達成する。2006年全仏オープン終了までの時点で、2人は「6大会連続」で4大大会ダブルス決勝を戦っている。全豪オープン決勝ではリアンダー・パエスインド)&マルティン・ダムチェコ)組を 4-6, 6-3, 6-4 で破って4大大会3勝目を獲得したが、全仏オープンではマックス・ミールヌイベラルーシ)&ヨナス・ビョークマン組に敗れ、2年連続の準優勝で止まった。ウィンブルドンでは4大大会連続決勝進出記録を伸ばした上、ファブリス・サントロフランス)&ネナッド・ジモンイッチセルビア・モンテネグロ)組を下して年間二冠及び生涯グランドスラムを達成した。

マイク・ブライアンは混合ダブルスでは、2003年全仏オープンリサ・レイモンドと組んだ優勝があり、この大会ではブライアンとの男子ダブルスも合わせて2部門制覇を達成した。しかし、2001年ウィンブルドン混合ダブルスではリーゼル・フーバー南アフリカ)と組んで準優勝に止まり、2002年全米オープンではカタリナ・スレボトニクと混合ダブルスのペアを組んだが、決勝でボブとネットをはさんだ“兄弟対決”になり、ボブとリサ・レイモンドの組に敗れている。

4大大会ダブルス優勝

関連項目