コンテンツにスキップ

「平部嶠南」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
BitBucket (会話 | 投稿記録)
+機種依存文字、sty, history-stub to japanese-history-stub
m ISBN
16行目: 16行目:


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[末永和孝]]『宿志の人平部嶠南』 ([[鉱脈社]]、2006年)
* [[末永和孝]]『宿志の人平部嶠南』 ([[鉱脈社]]、2006年) ISBN 4860611586
* [[大石慎三郎]]他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』([[農山漁村文化協会]])
* [[大石慎三郎]]他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』([[農山漁村文化協会]]) ISBN 4540961535


[[Category:1815年生|ひらへ きようなん]]
[[Category:1815年生|ひらへきようなん]]
[[Category:1890年没|ひらへ きようなん]]
[[Category:1890年没|ひらへきようなん]]
[[Category:儒学者|ひらへ きようなん]]
[[Category:儒学者|ひらへきようなん]]


{{japanese-history-stub}}
{{japanese-history-stub|ひらへきようなん}}

2006年7月10日 (月) 02:03時点における版

平部 嶠南(ひらべ きょうなん、寛政11年(1815年) - 明治23年(1890年10月26日)は、江戸・明治期の政治家飫肥藩家老を務めた。現宮崎県清武町出身。

生涯

少年期は安井滄州安井息軒父子に儒学を学ぶ。その後江戸に留学し古賀侗庵に師事する。帰国後の天保5年(1834年)、飫肥藩の藩校である振徳堂の句読師となる。天保6年には同校教授に出世。

弘化元年(1844年)には江戸留守居副役となる。慶応3年(1867年)に家老、明治2年(1869年)に飫肥藩大参事となる。

廃藩置県後は明治政府に出仕。明治8年(1875年)には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。明治17年(1884年)地誌が完成。翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が『日向地誌』である。

明治23年(1890年)、死去(享年76歳)。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が『六鄰荘日誌』と呼ばれ現存している。

著作

参考文献