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[[無任所大臣]]([[シルヴィオ・ベルルスコーニ|第3次ベルルスコーニ内閣]])、下院副議長、[[代議院 (イタリア)|下院議員]](3期)、[[イタリアの同胞|イタリアの同胞・国民中道右翼]](FdI–CN)副書記などを務めた。
[[無任所大臣]]([[シルヴィオ・ベルルスコーニ|第3次ベルルスコーニ内閣]])、下院副議長、[[代議院 (イタリア)|下院議員]](3期)、[[イタリアの同胞|イタリアの同胞・国民中道右翼]](FdI–CN)副書記などを務めた。


==経歴==
== 経歴 ==
===生い立ち===
=== 生い立ち ===
[[1977年]][[1月15日]]、[[イタリア共和国]]の首都[[ローマ]]に生まれる。両親がそれぞれイタリア[[島嶼]]部出身(父は[[サルデーニャ島]]、母は[[シチリア島]])という家庭に育っている。幼少期から[[ネオ・ファシズム]]を掲げる[[イタリア社会運動]](MSI)を通じて政治運動に関わり、15歳の時にはMSIの党青年団である「イタリア青年戦線」に入会している。[[1996年]]まで[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]寄宿学校で学んだ後<ref>{{Citation |url=http://www.sitiarcheologici.palazzochigi.it/www.governo.it/novembre%202011/www.governo.it/Governo/Biografie/ministri/Meloni_Giorgia.html |title=Biografia del ministro Giorgia Meloni |work=Governo italiano}}</ref>、[[ジャーナリスト]]として活動を始めた。
[[1977年]][[1月15日]]、[[イタリア共和国]]の首都[[ローマ]]に生まれる。両親がそれぞれイタリア[[島嶼]]部出身(父は[[サルデーニャ島]]、母は[[シチリア島]])という家庭に育っている。幼少期から[[ネオ・ファシズム]]を掲げる[[イタリア社会運動]](MSI)を通じて政治運動に関わり、15歳の時にはMSIの党青年団である「イタリア青年戦線」に入会している。[[1996年]]まで[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]寄宿学校で学んだ後<ref>{{Citation |url=http://www.sitiarcheologici.palazzochigi.it/www.governo.it/novembre%202011/www.governo.it/Governo/Biografie/ministri/Meloni_Giorgia.html |title=Biografia del ministro Giorgia Meloni |work=Governo italiano}}</ref>、[[ジャーナリスト]]として活動を始めた。


取材活動の傍ら政治運動も継続し、2000年にRSIがイタリア国民同盟(AN)に移行するとAN党員となった。2004年、ANの党青年団「青年行動」の全国書記長に女性党員として初めて選出され、注目を集めている。
取材活動の傍ら政治運動も継続し、2000年にRSIがイタリア国民同盟(AN)に移行するとAN党員となった。2004年、ANの党青年団「青年行動」の全国書記長に女性党員として初めて選出されている。

===政界進出===
=== 政界進出 ===
[[2006年]][[4月4日]]、MSI時代に党青年団指導者から議員に推された経験を持つ[[ジャンフランコ・フィーニ]]同盟書記長に引き立てられ、同年の[[2006年イタリア総選挙|総選挙]]に党公認を受けて出馬し、女性かつ29歳の若さで下院議員に当選した。2007年、国民同盟とフォルツァ・イタリアが合流して結成された[[自由の人民]](PdL)が設立されると、Pdlの党青年団「若きイタリア」の全国書記長も兼任している<ref name="Bio">{{Cite news |url=http://argomenti.ilsole24ore.com/giorgia-meloni.html |title=Giorgia Meloni |newspaper=Il Sole 24 Ore |date=8 February 2013}}</ref>。
[[2006年]][[4月4日]]、MSI時代に党青年団指導者から議員に推された経験を持つ[[ジャンフランコ・フィーニ]]同盟書記長に引き立てられ、同年の[[2006年イタリア総選挙|総選挙]]に党公認を受けて出馬し、29歳で下院議員に当選した。2007年、国民同盟とフォルツァ・イタリアが合流して結成された[[自由の人民]](PdL)が設立されると、Pdlの党青年団「若きイタリア」の全国書記長も兼任している<ref name="Bio">{{Cite news |url=http://argomenti.ilsole24ore.com/giorgia-meloni.html |title=Giorgia Meloni |newspaper=Il Sole 24 Ore |date=8 February 2013}}</ref>。


2008年、[[2008年イタリア総選挙|総選挙]]を経て第3次ベルルスコーニ政権が成立すると、青年政策に関する[[無任所大臣]]に抜擢されて初入閣した。31歳での大臣就任はイタリア統一以来の最年少記録となっている<ref name="Bio"/>。2012年、ベルルスコーニの汚職問題を契機にPdLから旧AN系議員が大量離脱する中、自身もPdLを離党した。離党後はフィーニ派の[[イタリアのための未来と自由]](FLI)には合流せず、イグナジオ・ラ・ルッサ元国防相の派閥と合流して[[イタリアの同胞|イタリアの同胞・国民中道右翼]](FdI–CN)を結成、書記長となったルッサから副書記に選出された。
2008年、[[2008年イタリア総選挙|総選挙]]を経て第3次ベルルスコーニ政権が成立すると、青年政策に関する[[無任所大臣]]に抜擢されて初入閣した。31歳での大臣就任はイタリア統一以来の最年少記録となっている<ref name="Bio"/>。2012年、ベルルスコーニの汚職問題を契機にPdLから旧AN系議員が大量離脱する中、自身もPdLを離党した。離党後はフィーニ派の[[イタリアのための未来と自由]](FLI)には合流せず、イグナジオ・ラ・ルッサ元国防相の派閥と合流して[[イタリアの同胞|イタリアの同胞・国民中道右翼]](FdI–CN)を結成、書記長となったルッサから副書記に選出された。

2017年10月9日 (月) 02:29時点における版

ジョルジャ・メローニ
Giorgia Meloni
イタリアの旗 イタリア共和国無任所大臣
(若年層政策担当大臣)
任期
2008年5月8日 – 2011年11月16日
首相シルヴィオ・ベルルスコーニ
イタリアの旗 イタリア共和国下院副議長
任期
2006年4月4日 – 2008年4月28日
イタリアの旗 イタリア共和国下院議員
就任
2006年4月21日[1]
個人情報
生誕1977年1月15日 (38歳)
イタリアの旗 イタリアラツィオ州
ローマ県ローマ
国籍イタリア民族
政党イタリア社会運動 (1992-1995)
国民同盟 (1995-2009)
自由の人民 (2009-2012)
イタリアの同胞・国民中道右翼 (2012-2013)
イタリアの同胞・国民同盟 (2013-)
専業ジャーナリスト
宗教ローマ・カトリック

ジョルジャ・メローニイタリア語: Giorgia Meloni1977年1月15日 - )は イタリア政治家イタリアの同胞・国民同盟(FdI-AN)書記長。

無任所大臣第3次ベルルスコーニ内閣)、下院副議長、下院議員(3期)、イタリアの同胞・国民中道右翼(FdI–CN)副書記などを務めた。

経歴

生い立ち

1977年1月15日イタリア共和国の首都ローマに生まれる。両親がそれぞれイタリア島嶼部出身(父はサルデーニャ島、母はシチリア島)という家庭に育っている。幼少期からネオ・ファシズムを掲げるイタリア社会運動(MSI)を通じて政治運動に関わり、15歳の時にはMSIの党青年団である「イタリア青年戦線」に入会している。1996年までアメリゴ・ヴェスプッチ寄宿学校で学んだ後[2]ジャーナリストとして活動を始めた。

取材活動の傍ら政治運動も継続し、2000年にRSIがイタリア国民同盟(AN)に移行するとAN党員となった。2004年、ANの党青年団「青年行動」の全国書記長に女性党員として初めて選出されている。

政界進出

2006年4月4日、MSI時代に党青年団指導者から議員に推された経験を持つジャンフランコ・フィーニ同盟書記長に引き立てられ、同年の総選挙に党公認を受けて出馬し、29歳で下院議員に当選した。2007年、国民同盟とフォルツァ・イタリアが合流して結成された自由の人民(PdL)が設立されると、Pdlの党青年団「若きイタリア」の全国書記長も兼任している[3]

2008年、総選挙を経て第3次ベルルスコーニ政権が成立すると、青年政策に関する無任所大臣に抜擢されて初入閣した。31歳での大臣就任はイタリア統一以来の最年少記録となっている[3]。2012年、ベルルスコーニの汚職問題を契機にPdLから旧AN系議員が大量離脱する中、自身もPdLを離党した。離党後はフィーニ派のイタリアのための未来と自由(FLI)には合流せず、イグナジオ・ラ・ルッサ元国防相の派閥と合流してイタリアの同胞・国民中道右翼(FdI–CN)を結成、書記長となったルッサから副書記に選出された。

2013年イタリア総選挙で下院議員の2期目を迎え、2014年にはルッサの書記長任期終了によって後任の書記長に就任した。書記長に就任すると党名をイタリアの同胞・国民同盟(FdI-AN)に改称、旧AN系・MSI系政党の再結集を図っている。2016年、右派連合からローマ市長候補に擁立されたる予定だったが、妊娠中であるという理由から断念し、市長選挙では同じ女性政治家で五つ星運動に所属するヴィルジニア・ラッジが当選した。

略歴

出典

外部リンク