コンテンツにスキップ

「荘烈王后」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2008年2月|ソートキー=人1688年没}}
{{出典の明記|date=2008年2月|ソートキー=人1688年没}}
'''荘烈王后 趙氏'''(そうれつおうこう ちょうし、チャンニョルワンフ チョシ、[[天啓 (明)|天啓]]4年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1624年]][[12月17日]]) - [[康熙]]27年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1688年]][[9月20日]]))は[[李氏朝鮮]]第16代国王[[仁祖]]の継妃。
'''荘烈王后 趙氏'''(そうれつおうこう ちょうし、チャンニョルワンフ チョシ、[[天啓 (明)|天啓]]4年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1624年]][[12月17日]]) - [[康熙]]27年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1688年]][[9月20日]]))は[[李氏朝鮮]]第16代国王[[仁祖]]の継妃。


== 概要 ==
== 概要 ==

2017年11月30日 (木) 09:09時点における版

荘烈王后 趙氏(そうれつおうこう ちょうし、チャンニョルワンフ チョシ、天啓4年11月7日1624年12月17日) - 康熙27年8月26日1688年9月20日))は、李氏朝鮮第16代国王仁祖の継妃。

概要

本貫は楊州で、漢原府院君趙昌遠の娘である。1638年仁烈王后の後を受け王妃に冊封され、1649年仁祖が世を去ると大妃となった。仁祖との間に子はなかった。

孝宗が崩御した時と嫁である孝宗妃・仁宣王后が亡くなった時の2度、荘烈王后の服喪問題で礼訟論争があった。

1688年8月26日に昌慶宮で亡くなった。尊号は慈懿恭慎徽献康仁淑穆、徽号は貞粛温恵、謚号は荘烈。京畿道九里市徽陵

仁祖の庶子で廃貴人趙氏の息子 崇善君李澂(東平君李杭の父)の妻 永豊郡夫人申氏は姪に当たる。