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'''玉蟲 左太夫'''(たまむし さだゆう、[[文政]]6年([[1823年]]) - [[明治]]2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1869年]][[5月20日]]))は、[[江戸時代]]後期([[幕末]])から[[明治時代]][[幕末]]の[[仙台藩]]の藩士。幼名は勇八、諱は'''誼茂'''、[[字]]は子発。 |
'''玉蟲 左太夫'''(たまむし さだゆう、[[文政]]6年([[1823年]]) - [[明治]]2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1869年]][[5月20日]]))は、[[江戸時代]]後期([[幕末]])から[[明治時代]][[幕末]]の[[仙台藩]]の藩士。幼名は勇八、諱は'''誼茂'''、[[字]]は子発。 |
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[[1857年]]([[安政]]4年)には箱館奉行[[堀利煕]]と共に[[蝦夷地]]を調査し「入北記」を著す。[[1860年]](万延元年)[[日米修好通商条約]]の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。 |
[[1857年]]([[安政]]4年)には箱館奉行[[堀利煕]]と共に[[蝦夷地]]を調査し「入北記」を著す。[[1860年]](万延元年)[[日米修好通商条約]]の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。 |
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[[1868年]](慶応4年)[[戊辰戦争]]が勃発すると[[奥羽越列藩同盟]]の成立 |
[[1868年]](慶応4年)[[戊辰戦争]]が勃発すると[[奥羽越列藩同盟]]の成立に尽力し軍務局副頭取となり、[[1869年]](明治2年)敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。 |
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一族に[[玉虫文一]]がいる<ref>[[星亮一]]『山川健次郎伝』あとがき</ref>。 |
一族に[[玉虫文一]]がいる<ref>[[星亮一]]『山川健次郎伝』あとがき</ref>。 |
2017年12月12日 (火) 16:01時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Tamamushi_Sadayu.jpg/200px-Tamamushi_Sadayu.jpg)
玉蟲 左太夫(たまむし さだゆう、文政6年(1823年) - 明治2年4月9日(1869年5月20日))は、江戸時代後期(幕末)から明治時代幕末の仙台藩の藩士。幼名は勇八、諱は誼茂、字は子発。
仙台藩主の伊達慶邦の命を受け、薩長を中心とする新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」を成立させるために東北諸藩を回り、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に同盟を成立させた立役者の一人として知られる[1]。
経歴
1823年(文政6年)に仙台藩士の玉蟲伸茂の末子として生まれる。1846年(弘化3年)に江戸の湯島聖堂で学び、その塾長となる。
1857年(安政4年)には箱館奉行堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著す。1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。
1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟の成立に尽力し軍務局副頭取となり、1869年(明治2年)敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。
外部リンク
主著
- 「蝦夷紀行」
- 「航米日録」 - 子孫が現代語訳した『仙台藩士幕末世界一周』が荒蝦夷から出版されている。