コンテンツにスキップ

「郭頒」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新しいページ: 「'''郭頒'''(かく はん、生没年不詳)は、中国西晋代政治家歴史家は長公<ref>水…」
 
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''郭頒'''(かく はん、生没年不詳)は、[[中国]]の[[晋 (王朝)|西晋代]]の[[政治家]]、[[歴史家]]。[[字]]は長公<ref>水経注巻二十二</ref>。
'''郭頒'''(かく はん、生没年不詳)は、[[中国]]の[[晋 (王朝)|西晋代]]の[[政治家]]、[[歴史家]]。[[字]]は長公<ref>『[[水経注]]』22</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[晋 (王朝)|西晋]]に仕え、令史となった<ref>[[三国志]]魏書巻四裴松之注「案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史、璠、頒出爲官長、溥、鄱陽內史」</ref>後に[[襄陽]][[県令]]となった<ref>[[隋書]]巻三十三</ref>。著作に[[三国志 (歴史書)#裴松之の注に引用された主要文献|魏晋世語]]巻、群英論巻<ref>隋書巻三十四</ref>がある。これらの著作はいずれも散逸し、[[三国志]]に[[裴松之]]が注釈としてつけた部分のみが現存している。魏晋世語は後世には[[唐]]の[[祖]][[李世民]]の諱を避け魏晋代語、魏晋俗語等と呼ばれた。
[[晋 (王朝)|西晋]]に仕え、令史となった<ref>[[三国志]]』巻4魏書三少帝紀裴松之注「案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史、璠、頒出爲官長、溥、鄱陽內史」</ref>後に[[襄陽]][[県令]]となった<ref>[[隋書]]33経籍志二</ref>。著作に[[三国志 (歴史書)#裴松之の注に引用された主要文献|魏晋世語]]』10巻、群英論』1巻<ref>隋書34経籍志三</ref>がある。これらの著作はいずれも散逸し、[[三国志]]に[[裴松之]]が注釈としてつけた部分のみが現存している。魏晋世語は後世には[[唐]]の太[[太宗 (唐)|李世民]]の諱を避け、『魏晋代語』<ref>『[[旧唐書]]』巻46経籍志上</ref>魏晋代説』<ref>『[[新唐書]]』巻58芸文志二</ref>などと呼ばれた。


== 評価 ==
== 評価 ==
裴松之は「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、[[干宝]]、[[孫盛]]らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」と極めて辛らつな評価をくだしている<ref>[[三国志]]魏書巻四裴松之注「蹇乏全無宮商,最為鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以為晉書,其中虛錯如此者,往往而有之」</ref>。
裴松之は「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、[[干宝]]、[[孫盛]]らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」と極めて辛な評価をくだしている<ref>[[三国志]]』巻4魏書三少帝紀裴松之注「蹇乏全無宮商,最為鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以為晉書,其中虛錯如此者,往往而有之」</ref>。


== 注釈 ==
== 注釈 ==

2018年2月28日 (水) 06:59時点における版

郭頒(かく はん、生没年不詳)は、中国西晋代政治家歴史家は長公[1]

経歴

西晋に仕え、令史となった[2]。後に襄陽県令となった[3]。著作に『魏晋世語』10巻、『群英論』1巻[4]がある。これらの著作はいずれも散逸し、『三国志』に裴松之が注釈としてつけた部分のみが現存している。『魏晋世語』は後世にはの太宗李世民の諱を避け、『魏晋代語』[5]、『魏晋代説』[6]などと呼ばれた。

評価

裴松之は「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、干宝孫盛らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」と極めて辛辣な評価をくだしている[7]

注釈

  1. ^ 水経注』巻22
  2. ^ 三国志』巻4魏書三少帝紀裴松之注「案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史、璠、頒出爲官長、溥、鄱陽內史」
  3. ^ 隋書』巻33経籍志二
  4. ^ 『隋書』巻34経籍志三
  5. ^ 旧唐書』巻46経籍志上
  6. ^ 新唐書』巻58芸文志二
  7. ^ 三国志』巻4魏書三少帝紀裴松之注「蹇乏全無宮商,最為鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以為晉書,其中虛錯如此者,往往而有之」