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「矢田長之助」の版間の差分

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m 正四位勲二等の叙勲がある。多磨霊園墓地の墓石に刻印されています。
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[島根県]][[簸川郡]]塩冶村(現在の[[出雲市]])出身{{sfn|大衆人事録|1930|ref=ta}}。[[1895年]](明治28年)[[東京高等商業学校]](現[[一橋大学]])卒業。[[教員]]を経て、[[1899年]](明治32年)に[[高等文官試験|外交官及領事官試験]]に合格した{{sfn|大衆人事録|1930|ref=ta}}。[[1900年]](明治33年)より領事官補として[[天津市|天津]]、[[漢口]]に勤務した<ref name="asia"/>。その後、[[メキシコ]]公使館三等書記官、同二等書記官、[[バンクーバー]][[領事]]、[[オタワ]]総領事、[[ニューヨーク市|ニューヨーク]]総領事、[[ホノルル]]総領事を歴任した<ref name="asia"/>。[[1921年]]([[大正]]10年)より駐シャム公使を務めた<ref name="asia"/>。
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退官後は[[横浜市立横浜商業高等学校|横浜市立横浜商業学校]]・[[横浜市立横浜商業専門学校 (旧制)|横浜市立横浜商業専門学校]]校長事務取扱を務め{{sfn|大衆人事録|1930|ref=ta}}、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた<ref name="asia"/>。正四位勲二等の叙勲がある。
退官後は[[横浜市立横浜商業高等学校|横浜市立横浜商業学校]]・[[横浜市立横浜商業専門学校 (旧制)|横浜市立横浜商業専門学校]]校長事務取扱を務め{{sfn|大衆人事録|1930|ref=ta}}、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた<ref name="asia"/>。正四位勲二等の叙勲がある。

2018年3月3日 (土) 22:48時点における版

矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日[1]1871年11月2日) – 昭和15年(1940年11月27日[1])は、日本外交官。駐シャム(タイ公使

経歴

島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市)出身[2]1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。教員を経て、1899年(明治32年)に外交官及領事官試験に合格した[2]1900年(明治33年)より領事官補として天津漢口に勤務した[1]。その後、駐メキシコ公使館三等書記官、同二等書記官、バンクーバー領事オタワ総領事、ニューヨーク総領事、ホノルル総領事を歴任した[1]1921年大正10年)より駐シャム公使を務めた[1]

退官後は横浜市立横浜商業学校横浜市立横浜商業専門学校校長事務取扱を務め[2]、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた[1]。正四位勲二等の叙勲がある。

脚注

参考文献

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。