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2018年3月19日 (月) 14:35時点における版
遠藤於菟 | |
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生誕 |
1866年(慶応元年)12月28日![]() (現長野県木曽郡木曽町) |
死没 | 1943年2月17日(76歳没) |
国籍 |
![]() |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 建築家 |
建築物 |
横浜銀行集会所 三井物産横浜支店 |
遠藤 於莵(えんどう おと、1866年12月28日 - 1943年2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。
経歴
信濃国筑摩郡福島(現長野県木曽郡木曽町)生まれ。東京大学予備門・第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、1894年卒業。野口孫市、大沢三之助、矢橋賢吉と同期生。
卒業後、神奈川県技師に就任、また横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。1898年、横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事した(1904年竣工)。1905年、横浜に設計事務所を開設。以降は在野で設計活動を行った(1909年に再び神奈川県技師に任じられたが、8か月ほどで辞めている)。
遠藤は鉄筋コンクリート構造(RC造)の新技術に大きな関心を抱いたが、明治末年当時は試行錯誤の時代であった。まず床や開口部など部分的に使用しはじめ、1910年竣工の三井物産横浜支店倉庫では混構造(外壁は煉瓦造、床は木造で、内部の柱や屋根スラブなどがRC造)としたが、翌年竣工の三井物産横浜支店では全面的にRC造を採用した(本格的な事務所建築として日本最初のRC造)。この2つの建物は現存しており、技術史上も重要な遺構である。この他、アールヌーヴォー様式で知られる横浜銀行集会所、関東大震災後の生糸検査所(キーケン)などが代表作である。
作品
- 横浜正金銀行(1904年) 妻木頼黄と連名。現在の神奈川県立歴史博物館。
- 横浜銀行集会所 現存しない。
- 三井物産横浜支店倉庫(1910年) 現存。
- 三井物産横浜支店(1911年) 現存。
- 東京高等商業学校(1916年) 震災後、岩波書店になった。現存しない。
- 今井百貨店小樽支店(1923年) 後に函館市末広町分庁舎。
- 生糸検査所(1926年) 取壊された後、同じデザインで再現された(国の横浜第二合同庁舎)。
- 生糸検査所倉庫事務所(1926年) 後に帝蚕倉庫事務所。再開発予定地内にあるが、保存予定。
参考文献
- 堀勇良『日本のモダニズム』(日本の建築 明治大正昭和10、1981年)