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日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神([[大物主]])・右殿を[[天照大神]]、『元要記一説』では右殿を[[ウカノミタマ|稲倉魂神]]としている。
日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神([[大物主]])・右殿を[[天照大神]]、『元要記一説』では右殿を[[ウカノミタマ|稲倉魂神]]としている。

== 摂社・末社 ==
;[[境内摂社]]
:* [[朝日神社]]:'''朝日豊明姫'''
:* [[厳島神社]]:'''[[市杵島姫命]]'''
:* [[事代主神社]]:'''[[事代主神]]'''
:* [[高龗神社]]:'''[[高龗神|高龗大神]]'''
:* 増御子神社:'''[[猿田彦神]]'''、'''[[天鈿女命]]'''
;[[末社|境内末社]]
:* 祖霊社:[[大国主神]]を[[祖霊]]に、当社[[氏子]]と[[戦艦大和]]が撃沈したときの[[坊ノ岬沖海戦]]の戦没者が祀られる
;'''[[境外摂社]]'''
:* [[御旅所|御旅所坐神社]]:本社三神を祀る
:* 渟名城入姫神社:'''[[渟名城入姫]]'''
:* [[歯定神社]]:'''[[大己貴神]]'''、'''[[少彦名神]]'''
:* [[素盞嗚神社]](新泉町):'''[[素戔嗚尊]]'''
::かつて大和神社の「四至の固め」として、北東に[[稲荷神社]]、南東に[[八王子神社]]、西南に素盞嗚神社、北西に[[弁才天|弁才天社]]が鎮座していたが、[[海軍航空隊]]飛行場の建設にともなって八王子神社のあった場所に素盞嗚神社が移されて残っている。稲荷神社は別の素盞嗚神社に合祀されたといわれるが弁才天社は不明<ref>[http://ooyamatohp.net/custom2.html 「社殿配置」とその下位ページ] - 大和神社。</ref><ref>[http://web1.kcn.jp/antimony/niobium/frame.html?page=oyamatojinja.html 大和神社] - まほろば実見室。</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
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[[明治]]4年([[1871年]])、官幣大社に列せられた。[[江戸時代]]には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
[[明治]]4年([[1871年]])、官幣大社に列せられた。[[江戸時代]]には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。


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戦艦大和の[[艦内神社]]には、慣例では地名に因む[[大和國]]の[[一之宮]]である[[大神神社]]を祀るのが妥当だったが、例外的に当社の祭神の[[分霊]]が祀られた。戦艦大和は[[昭和]]20年([[1945年]])に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名が末社・祖霊社に祀られている。昭和44年([[1969年]])、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年([[1972年]])9月24日、[[巡洋艦]][[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]外[[駆逐艦]]8隻の戦没者も含めて、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が{{要出典範囲|国家鎭護の神として|title=主祭神のない靖国との混同ではないか?|date=2018年3月}}祀られている。


戦後60年を迎えた2005年には「戦艦大和みたま祭」が執り行われ、以降は毎年8月7日に斎行されている<ref>[http://ooyamatohp.net/company.html 戦艦大和ゆかりの碑] - 大和神社。</ref>。
戦後60年を迎えた2005年には「戦艦大和みたま祭」が執り行われ、以降は毎年8月7日に斎行されている<ref>[http://ooyamatohp.net/company.html 戦艦大和ゆかりの碑] - 大和神社。</ref>。

2018年3月27日 (火) 15:52時点における版

大和神社

拝殿
所在地 奈良県天理市新泉町星山306
位置 北緯34度34分15秒 東経135度50分15秒 / 北緯34.57083度 東経135.83750度 / 34.57083; 135.83750 (大和神社)座標: 北緯34度34分15秒 東経135度50分15秒 / 北緯34.57083度 東経135.83750度 / 34.57083; 135.83750 (大和神社)
主祭神 日本大国魂大神
八千戈大神
御年大神
社格 式内社名神大3座)
二十二社(中七社)
官幣大社
別表神社
創建 崇神天皇12年
本殿の様式 春日造
札所等 神仏霊場巡拝の道20番(奈良7番)
例祭 4月1日(チャンチャン祭り)
主な神事 御弓始祭
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大和神社の位置(日本内)
大和神社
大和神社

大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市新泉町星山にある神社式内社名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

祭神

祭神は次の3柱。

日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神、『元要記一説』では右殿を稲倉魂神としている。

摂社・末社

境内摂社
境内末社
境外摂社
かつて大和神社の「四至の固め」として、北東に稲荷神社、南東に八王子神社、西南に素盞嗚神社、北西に弁才天社が鎮座していたが、海軍航空隊飛行場の建設にともなって八王子神社のあった場所に素盞嗚神社が移されて残っている。稲荷神社は別の素盞嗚神社に合祀されたといわれるが弁才天社は不明[1][2]

歴史

日本書紀』によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢いだと畏れられた。そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年2月、倭迹迹日百襲姫命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年8月7日にも、倭迹迹日百襲姫命大水口宿禰伊勢麻績君らが同じ夢を見たため、同年11月に大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。 この伝承からアマテラスを天神とし、ヤマトノオホクニタマを地祇とする性格をはっきりさせたことが読み取れる。垂仁紀はもっと詳細に出ている。

当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。長岡崎が長岳寺付近の丘陵を指す可能性もある。

朱鳥6年(692年)、持統天皇藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年(897年)、最高位である正一位神階が授けられた。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。

平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。

明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。

戦艦大和の艦内神社には、慣例では地名に因む大和國一之宮である大神神社を祀るのが妥当だったが、例外的に当社の祭神の分霊が祀られた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名が末社・祖霊社に祀られている。昭和44年(1969年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972年)9月24日、巡洋艦矢矧駆逐艦8隻の戦没者も含めて、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が国家鎭護の神として[要出典]祀られている。

戦後60年を迎えた2005年には「戦艦大和みたま祭」が執り行われ、以降は毎年8月7日に斎行されている[3]

境内

主な祭事

  • 1月4日 御弓始式 - 小笠原流弓術による「三々九手挟式」で行われる。
  • 4月1日 ちゃんちゃん祭り - 祭礼一行は、大和神社を出発して、岸田の市場というところにある腰掛け石で休憩し、山辺式上の群境をしばらく歩き、中山大塚古墳のすぐ近くにあるお旅所へ向かう。
  • 6月30日 茅の輪くぐり

文化財

奈良県指定文化財

  • 無形民俗文化財
    • 大和神社ちゃんちゃん祭り - 2018年(平成30年)2月2日指定[4]

天理市指定文化財

  • 無形民俗文化財
    • 大和郷しで踊り(紅しで踊り) - 1997年(平成9年)3月31日指定[5]

現地情報

所在地

交通アクセス

  • 鉄道
  • バス
    • 天理駅(近鉄・JR)から、桜井駅行きバス「大和神社前」バス停下車 (乗車約10分、下車後徒歩約5分)
    • 桜井駅(近鉄・JR)から、天理駅行きバス「大和神社前」バス停下車 (乗車約20分、下車後徒歩約5分)

関連図書

関連項目

脚注

  1. ^ 「社殿配置」とその下位ページ - 大和神社。
  2. ^ 大和神社 - まほろば実見室。
  3. ^ 戦艦大和ゆかりの碑 - 大和神社。
  4. ^ 平成30年2月2日奈良県公報より奈良県教育委員会告示第20号 (PDF)
  5. ^ 『天理市文化財・遺跡分布地図 天理市内の指定文化財』 天理市教育委員会、2016年、p. 47。

外部リンク