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「荘烈王后」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
本貫は楊州で、漢原[[府院君]]趙昌遠の娘である。[[1638年]]に仁烈王后韓氏の後を受け王妃に冊封され、[[1649年]]仁祖が世を去ると大妃となった。仁祖との間に子はなかった。
本貫は楊州で、漢原[[府院君]]趙昌遠の娘である。[[1638年]]に仁烈王后韓氏の後を受け14歳で当時43歳の仁祖の王妃に冊封され、[[1649年]]仁祖が世を去ると大妃となった。仁祖との間に子はなかった。


[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]が崩御した時と嫁である孝宗妃・仁宣王后張氏が亡くなった時の2度、荘烈王后の服喪問題で[[礼訟]]論争があった。
[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]が崩御した時と嫁である孝宗妃・仁宣王后張氏が亡くなった時の2度、荘烈王后の服喪問題で[[礼訟]]論争があった。

2018年4月7日 (土) 09:41時点における版

荘烈王后 趙氏(そうれつおうこう ちょうし、チャンニョルワンフ チョシ、天啓4年11月7日1624年12月17日) - 康熙27年8月26日1688年9月20日))は、李氏朝鮮第16代国王仁祖の継妃。

概要

本貫は楊州で、漢原府院君趙昌遠の娘である。1638年に仁烈王后韓氏の後を受け14歳で当時43歳の仁祖の王妃に冊封され、1649年仁祖が世を去ると大妃となった。仁祖との間に子はなかった。

孝宗が崩御した時と嫁である孝宗妃・仁宣王后張氏が亡くなった時の2度、荘烈王后の服喪問題で礼訟論争があった。

1688年8月26日に昌慶宮で亡くなった。尊号は慈懿恭慎徽献康仁淑穆、徽号は貞粛温恵、謚号は荘烈。京畿道九里市の徽陵。

仁祖の庶子廃貴人趙氏の息子 崇善君李澂(東平君李杭の父)の妻 永豊郡夫人申氏は姪に当たる。

登場作品