コンテンツにスキップ

「小松左京」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Hidekon6 (会話 | 投稿記録)
9行目: 9行目:
[[1961年]]、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテス(SFコンテストの前身)に応募した『地には平和を』が努力賞に入選、翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、それを待つ事なく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。
[[1961年]]、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテス(SFコンテストの前身)に応募した『地には平和を』が努力賞に入選、翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、それを待つ事なく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。


以来、様々なジャンルにわたるおびただしい数の長短編作品や[[ショートショート]]を世に送り出し、日本のSFを牽引してきた。その作風は、[[ハードSF]]から[[スラップスティックス]]、[[ファンタジー]]に至るまで幅広い。あまりの多さに作風を一面的に断じる事は出来ない。当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、[[サイバーパンク]]以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言では無い。
以来、様々なジャンルにわたるおびただしい数の長短編作品や[[ショートショート]]を世に送り出し、日本のSFを牽引してきた。その作風は、[[ハードSF]]から[[スラップスティックス]]、[[ファンタジー]]に至るまで幅広い。あまりの多さに作風を一面的に断じる事は出来ない。当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、[[サイバーパンク]]以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言では無い。2006年7月からは小松左京全集([[城西国際大学]]出版会刊)の刊行も始まった。この全集は日本で初めて[[オンデマンド印刷]]で作られることでも注目されている


『[[日本沈没]]』、『[[復活の日]]』、『[[エスパイ]]』、『[[首都消失]]』などが映画化されており、特に[[1984年]]公開の『[[さよならジュピター]]』は単に原作提供にとどまらず、新たに株式会社イオを設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執る力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。(2006年には、『[[日本沈没]]』が、現代にあわせてリメイク化され、映画として公開された。)
『[[日本沈没]]』、『[[復活の日]]』、『[[エスパイ]]』、『[[首都消失]]』などが映画化されており、特に[[1984年]]公開の『[[さよならジュピター]]』は単に原作提供にとどまらず、新たに株式会社イオを設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執る力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。(2006年には、『[[日本沈没]]』が、現代にあわせてリメイク化され、映画として公開された。)

2006年8月6日 (日) 13:09時点における版

小松 左京こまつ さきょう1931年1月28日 - )は、大阪市西区生まれ、兵庫県神戸市育ちの小説家。本名は小松 実。星新一筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる日本SF界を代表するSF作家。宇宙開発に関心を持ちその振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れており、宇宙作家クラブの提唱者で顧問でもある。

経歴

旧制兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都大学文学部イタリア文学科に進学。中学時代には同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた事もある。大学在学中に同人誌「京大作家集団」の活動に参加。高橋和巳大島渚と交流を持つ。筆名の左京は大学時代住んでいた京都市左京区からとったものである。日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行なっていたのもこの頃である(後に共産党からは脱退)。又、この時期にモリミノル名義で『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を発表しており、直前に手塚治虫がデビューしていたことの影響が窺える。

1954年に大学を卒業した後は、経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。この頃早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会う。

1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテス(SFコンテストの前身)に応募した『地には平和を』が努力賞に入選、翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、それを待つ事なく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。

以来、様々なジャンルにわたるおびただしい数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引してきた。その作風は、ハードSFからスラップスティックスファンタジーに至るまで幅広い。あまりの多さに作風を一面的に断じる事は出来ない。当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、サイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言では無い。2006年7月からは小松左京全集(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集は日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。

日本沈没』、『復活の日』、『エスパイ』、『首都消失』などが映画化されており、特に1984年公開の『さよならジュピター』は単に原作提供にとどまらず、新たに株式会社イオを設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執る力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。(2006年には、『日本沈没』が、現代にあわせてリメイク化され、映画として公開された。)

1970年日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサーを務め、1990年から5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。

自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎた事と、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を上げないまま中止された。小松自身は現在でも震災からの復旧活動に積極的に関与している。

受賞歴

  • 1971年 -『継ぐのは誰か?』により第2回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1973年 -『結晶星団』により第4回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1974年 -『日本沈没』により第27回日本推理作家協会賞・第5回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1976年 -『ヴォミーサ』により第7回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1978年 -『ゴルディアスの結び目』により第9回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1983年 -『さよならジュピター』により第14回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1985年 -『首都消失』により第6回日本SF大賞受賞。

作品リスト

小説

評論・対談・エッセイ

  • おもろ放談 (角川文庫、1981年)
  • 小松左京のSFセミナー (集英社文庫、1982年)
  • SFへの遺言 ISBN 4334971423(光文社、1997年)
  • 教養 ISBN 4198612668(徳間書店、2001年)

漫画

  • 幻の小松左京モリ・ミノル漫画全集 ISBN 4091794211(小学館、2002年)

テレビ

関連人物

外部リンク