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* [[新山神社]] 拝殿 - 青森県三戸郡五戸町、1931年に建立、町指定文化財
* [[新山神社]] 拝殿 - 青森県三戸郡五戸町、1931年に建立、町指定文化財
==国外==
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* [[ペリリュー神社]] - パラオ共和国、平成代以後に日本の右翼団体によって新しく設置された祠
* [[ペリリュー神社]] - パラオ共和国、1994ころに日本の右翼団体によって新しく設置された祠


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2018年11月18日 (日) 01:27時点における版

首里城正殿の大龍柱・小龍柱

龍柱(りゅうちゅう)とは、龍を象った柱の事。

概要

道教の寺院である聖天宮(埼玉県)の「双龍柱」

龍(ドラゴン)を象った柱は、世界各地に色々なものが存在するが、「龍柱」と言うと普通は日本や中国などアジアの物を言う。ヨーロッパのゴシック建築の柱の上にいるドラゴンに関してはガーゴイルを参照。

日本でも、龍柱は各地に存在するが、特に沖縄県(かつての琉球王国)の龍柱、中でも世界遺産でもある首里城正殿にある「首里城正殿の大龍柱」が有名。

日本の本土では、鹿児島県と宮崎県(かつての薩摩藩)に多く、大隅国一宮である鹿児島神宮、薩摩国一宮である枚聞神社新田神社など、主要な神社の本殿に龍柱がある。中でも薩摩藩4代藩主島津吉貴の寄進による霧島神宮の龍柱や、8代藩主島津重豪の寄進による鹿児島神宮本殿の「巻龍柱」が有名。

屋根を支えていない、標柱としての龍柱と、屋根を支える柱に龍の彫刻をした龍柱がある。薩摩藩の龍柱は、屋根を支えている龍柱で、琉球の龍柱は、標柱としての龍柱である。中国にも琉球の龍柱と同様の、屋根を支えるのではなく標柱としての龍柱があり、華表と言う。ただし、「柱に巻き付いた龍」という中国のデザインと違い、「柱そのものが龍の胴体」と言うデザインは、琉球の独自のものである[1]

他にも、柱に龍の絵を描いたり、龍の絵を貼り付けただけの龍柱や、道案内の標識が龍の形をしている龍柱もある。

日本の本土の龍柱

霧島神宮の龍柱には獏がいる(国重文であり写真撮影不可なので、画像は本物のバク)

道教の寺院に多くある。そもそも日本に道教の寺院自体が少ないが、埼玉県坂戸市聖天宮が、豪華な龍柱があることで有名。道教のモチーフとしての龍柱は、同じく道教のモチーフである八仙をしばしば伴っている。

仏教の寺院にもある。江戸時代以前に作られたものでは、東京都町田市の長福寺文殊堂や、神奈川県藤沢市の慈眼寺山門などが、豪華な龍柱があることで有名。現代に作られたものでは、茨城県小美玉市鳳林院などがある。

龍柱がある神社は、南九州に多い。特に、本殿に龍柱がある神社は全国でも霧島神宮鹿児島神宮枚聞神社新田神社蒲生八幡神社(以上、鹿児島県)、兼喜神社東霧島神社白鳥神社(以上、宮崎県)の8社のみだと、鹿児島大学名誉教授の土田充義は主張している[2]。いずれもかつての薩摩藩の領地で、いずれも島津氏とゆかりのある神社である。ただし、茨城県筑西市桑山神社など、あまり有名でないが実は他にも本殿に龍柱がある神社は全国に存在する。青森県五戸町の新山神社や平川市の不浪寄八幡宮など、青森県も割と龍柱が多いが、あまり有名でない神社なのであまり知られていない。北海道札幌市の手稲神社は、北海道にある珍しい龍柱。

霧島神宮の龍柱は、龍とバクをモチーフにした伝説の神獣)がいるという極めて特異なデザインを持つ龍柱で、霧島神宮はその壮麗さから、同じく龍のデザインが多用されている日光東照宮と比較されて「西の日光」の異名を持つ。ただし、霧島神宮は国の重要文化財に指定されており、何十年かに一度行われる一般公開の時(前回は2015年の造営300年記念)以外は内部を自分の目で見ることはできず、写真撮影も不可である。

金持ちが自宅に龍柱を作ることもあり、天理大学附属天理参考館では19世紀の台湾の高位の官吏の家にあった龍柱が展示されている。

龍が1匹だけいるよりも「昇り竜」と「下り竜」で対になっていることが多い。

龍柱の代わりに龍を象った龍鳥居のある神社が全国にあるが、数は少なく、東京には杉並区の馬橋稲荷神社、高円寺の宿鳳山高円寺、品川区の品川神社の3か所しかないが、3社とも有名な神社なので、「東京三鳥居」として有名である。

沖縄の龍柱

宜野湾市立体育館の龍柱。正面を向いている
首里城正殿内の御差床(うさすか、国王の玉座)の龍柱。向かい合っている

琉球王国においては、龍は国王の象徴とされたため、首里城内部には多数の龍の彫刻があったが、特に首里城正殿の前にある柱が有名で、「大龍柱」と呼ばれていた。1508年(尚真32年)に建造された後、火災や戦火によって何度か破壊された。現在の首里城にある龍柱は、1768年に制作された首里城の設計図である「百浦添御殿普請付御絵図幷御材木寸法記」(沖縄県立芸術大学蔵、通称「寸法記」)を元に、琉球の彫刻の大家である琉球大学名誉教授の西村貞雄の手によって[3]、1992年(平成4年)に復元された4代目である。首里城には、首里城正殿の前にある大龍柱・小龍柱や、首里城正殿の2階にある御差床(うさすか、国王の座る玉座)の龍柱を始めとして、計33体の龍柱が存在する。

現在では、明治橋の入り口や沖縄県警本部の前など、沖縄県内の各所に龍柱が建てられている。明治橋に設置された「明治橋の由来」(1987年)によると、沖縄の表玄関にふさわしい橋とするために、明治橋の親柱に沖縄のシンボルである旧首里城正殿の龍柱を据えたとのこと。このように、現在の首里城の龍柱が1992年に再建される以前より、旧首里城の龍柱は沖縄の象徴とされていた(明治橋の完成が1987年なので、実は現在の首里城の龍柱よりも明治橋の龍柱の方が古い)。また、沖縄県が普及を進めるかりゆしウェアの下げ札(タグ)にも龍柱が描かれたり、那覇市がゆるキャラの「龍柱会議」を展開するなど、同じく沖縄の象徴であるシーサーなどとともに、沖縄でよく使われるデザインの一つともなっている。火を鎮めるシーサーに対し、龍は水を鎮める役割がある。

琉球の龍柱は、1柱だけ建てられているものもあるが、本土の狛犬のように2柱が1対で建てられていることが多く、それぞれ阿吽の形相をしている。柱の上に頭があり、柱本体が龍の胴体となっており、下はハブのようにグルグルととぐろを巻いている。片手には「宝珠」と言う、どんな願いもかなえるという玉をひとつだけ掴んでいる。2柱は正面を向いているものと、互いに向かい合っているものがあり、首里城の龍柱は互いに向かい合っているが、宜野湾市立体育館の龍柱や真地大権現堂の龍柱は2柱とも正面を向いている。大きさは、地面に据え付ける大きい龍柱から屋内に置くミニ龍柱までいろいろあり、首里城正殿2階の御差床の龍柱や、沖縄県議会の龍柱は、ミニ龍柱である。2015年には若狭湾の近くの若狭緑地に、首里城と同じ西村貞雄のデザインで巨大な2柱の龍柱が建造されたが、これは3億円を超す建造費がかかったために批判があった。

これらとは別に、那覇市の福州園は中国式庭園なので、琉球王国風のデザインではなく中国風のデザインの龍柱が存在する。その他にも、那覇商業高校の前で「くにんだなかみち」の案内をしている「くにんだなかみちの龍柱」など、伝統的なデザインとは違うユニークな龍柱もいる。キャンプ・フォスター内にある沖縄米国海軍病院の龍柱は、英語で病院の案内をしているアメリカンな龍柱。沖縄では米軍基地内にも龍柱が割とあるが、基地外の龍柱と違って日本人が行くことは難しい。

首里城正殿の大龍柱

首里城正殿の大龍柱・小龍柱(3代目)。1712年に建造され、1945年に破壊された。

首里城正殿の正面の石階段の両脇にあるものを「大龍柱」、手すりの奥にあるもう一対のものを「小龍柱」と呼ぶ[4]

歴史書『球陽』によると、初代の大龍柱は1508年の尚真王の時代に建造されたという。交流があった中国福建省の青石を用いて作られたという言い伝えがあり、実際に1985年の調査で、首里城周辺で見つかった産地不明石材が中国産の輝緑岩であることが明らかになった[5]。首里城の龍柱は火災や戦火によって3度破壊されており、2代目は1667年(尚質20年)に再建された。3代目は沖縄島南部産の島尻層泥岩を用いて1712年(尚益3年)に再建されたが、琉球処分の際に1879年(尚泰31年/明治12年)より駐屯していた熊本鎮台分遣隊によって胴体が切られるなど一部が損壊され、1945年(昭和20年)に沖縄戦で首里城とともに完全に破壊された。

3代目の龍柱に関しては、1879年より首里城に駐屯していた熊本鎮台分遣隊が1896年に引き上げる際、憲兵隊長の郷里に持ち帰るために一柱を切断したところ、憲兵隊長が急死し、「呪いだ」として持ち帰らずにそのままになったという逸話が残る[1]。また「一旦持ち帰って、また元に戻された」という説もあり、どちらが確かなのか解っていない。また、切断された方とつり合いを取るためにもう片方の龍柱も切断し、どちらも短くなったという説もある。龍柱の研究者である西村貞雄は、龍柱は切断されたのではなく継ぎ目から外されたのであり、元に戻したものが継ぎ目から徐々に欠けていき、つり合いを取るためにもう一方もやむを得ず切断されたのが明治末頃、と推測している。

現在の首里城の大龍柱(4代目)は1992年(平成4年)に首里城とともに再建されたものである。

また、沖縄県立博物館・美術館には3代目の大龍柱(旧国宝・首里城正殿の一部)の一部(龍の頭の部分)が公開されており、琉球大学博物館・風樹館にも3代目の大龍柱の破片と推測されるものが所蔵されている。那覇市歴史博物館では、3代目の写真が公開されている[6]など、首里城の3代目の大龍柱に関する物が沖縄のいくつかの場所にある。また、風樹館が所蔵する大龍柱の破片と推測されるものの1つは石質的に3代目の大龍柱の物ではなく、それ以前の大龍柱の破片の可能性があるが、福建省産の石材と一口に言っても種類がいくつかあり、詳しいことは2018年現在も調査中である[5]

龍柱の向き

1992年の首里城正殿の龍柱の再建に当たっては、「昔の龍柱は正面を向いていた」説と「龍柱は昔から向かい合っていた」説があったが、資料によって向きがまちまちでよく解らず(1508年の建造当初から現在まで、時期によって向きが違ったのか、資料が不正確なのか、よく解らない)、首里城再建の考証に当たった西村貞雄も、「寸法記」を典拠として、結局「向かい合っていた」説に賛同した。

現存する3代目の龍柱の写真では、龍柱は向かい合わせになっているが、「本来の龍柱は正面を向いていたが、首里城が沖縄神社にされていた時代に、本土の神社の狛犬に倣って無理やり向かい合わせにさせられた」説が根強く、その意味で古老を中心として、龍柱を向かい合わせで再建することに反対する者も多かった。日本軍が首里城を制圧する1879年より前の1877年に琉球を訪れたジョン・ヘイ提督による記録(『青い目が見た「大琉球」』に収録)では、確かに龍柱は正面を向いていた。西村貞雄も1993年の論文で「正面向きが本来の姿」と主張した[1]

西村によると、龍柱の向きは風水の思想と仏法の心が合わさっているといい、正面を向くかたちを取った場合は、威嚇或いは衛兵を意味し、向かい合うかたちを取った時には、許される事につながると言う。

龍柱と中国脅威論

2015年には那覇市の若狭緑地にが建造された龍柱をめぐり、幸福実現党や産経新聞、チャンネル桜、参議院議員の山田宏らが龍柱建設を中国への従属と結びつけ批判を展開した。 これに対しデザインを担当した西村貞雄は「沖縄の龍柱は、沖縄のものです」と反論している [7]

日本国内の主な龍柱(文化財)

  • 首里城 正殿 - 沖縄県那覇市、世界遺産である首里城跡に1992年に復元されたもの
  • 沖縄県立博物館・美術館 - 沖縄県那覇市、1712年に制作された、戦前の旧国宝であった3代目の首里城の大龍柱の一部を公開している
  • 霧島神宮 幣殿 - 鹿児島県霧島市、1715年に建立、重要文化財、写真撮影不可
  • 鹿児島神宮 本殿 - 鹿児島県霧島市、1756年に建立、県指定文化財
  • 桑山神社 本殿 - 茨城県筑西市、1785年に建立、市指定文化財
  • 長福寺 文殊堂 - 東京都町田市、1862年に建立、市指定文化財
  • 新山神社 拝殿 - 青森県三戸郡五戸町、1931年に建立、町指定文化財

国外

  • ペリリュー神社 - パラオ共和国、1994年ころに日本の右翼団体によって新しく設置された祠

関連項目

ゴシック建築の柱の上にいるドラゴン(ガーゴイル)
  • シーサー - 龍柱と並ぶ、沖縄のシンボル。沖縄には龍柱の他に、シーサーがデザインされた「シーサー柱」もある。
  • 万国津梁の鐘 - 龍柱と同じく、かつて首里城正殿にあった鐘で、現在は沖縄のシンボルとなっている。
  • 龍柱会議 - 那覇市のゆるキャラ
  • 狛犬
  • ガーゴイル - ヨーロッパのゴシック建築の屋根の上などに設置される怪物。ドラゴンをモチーフにした物であることも多い。
  • 華表 - 中国の標柱
  • トーテムポール - 北アメリカ先住民の標柱
  • 龍鳥居 - 龍を象った鳥居

参照

  1. ^ a b c 首里城正殿・大龍柱の「向き」についての考察 琉球大学教育学部紀要 第一部・第二部(42): 75-105、西村貞雄
  2. ^ 『隼人学―地域遺産を未来につなぐ』、p.164、志学館大学生涯学習センター・隼人町教育委員会編、2004年
  3. ^ 西村 貞雄 | 作家紹介 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
  4. ^ 首里城正殿内部と内部の彫刻 | 施設紹介 | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城 首里城公園公式サイト
  5. ^ a b 首里城の大龍柱と伝えられる残欠の石質について(短報) 沖縄県立博物館・美術館,博物館紀要、No 11, pp. 11-14, 2018年
  6. ^ 首里城正殿の大龍柱  : 那覇市歴史博物館デジタルミュージアム
  7. ^ 沖縄の伝統まで「中国脅威論」を煽るために利用されるこの現実 「龍柱」は中国への服従を示す象徴か? 現代ビジネス2018.11.03安田浩一”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。