「ハルン・アミン」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
14行目: | 14行目: | ||
| successor = {{仮リンク|エクリル・アハマドゥ・ハキミ|en|Eklil Ahmad Hakimi}} |
| successor = {{仮リンク|エクリル・アハマドゥ・ハキミ|en|Eklil Ahmad Hakimi}} |
||
| president = [[ハーミド・カルザイ]] |
| president = [[ハーミド・カルザイ]] |
||
| birthname = モハ |
| birthname = モハンマド・ハルン・アミン |
||
| birth_date = [[1969年]][[7月19日]]([[1967年]]とする資料もある) |
| birth_date = [[1969年]][[7月19日]]([[1967年]]とする資料もある) |
||
| birth_place = {{ |
| birth_place = {{Flagicon|AFG1930}} [[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]] [[カーブル]] |
||
| death_date = [[2015年]][[2月15日]] |
| death_date = [[2015年]][[2月15日]] |
||
| death_place = {{USA}} [[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]] |
| death_place = {{USA}} [[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]] |
2018年11月29日 (木) 16:31時点における版
ハルン・アミン | |
---|---|
![]() 2001年撮影。 | |
在日本アフガニスタン大使 | |
任期 2004年4月30日 – 2009年4月30日 | |
大統領 | ハーミド・カルザイ |
前任者 | アブデルハミード・モフタート |
後任者 | エクリル・アハマドゥ・ハキミ |
個人情報 | |
生誕 | モハンマド・ハルン・アミン 1969年7月19日(1967年とする資料もある) ![]() |
死没 | 2015年2月15日![]() |
モハンマド・ハルン・アミン(Mohammad Haron Amin、ダリー語: هارون امین 1969年7月19日(1967年とする資料もある)- 2015年2月15日)は、2004年から2009年にかけての駐日アフガニスタン大使[1]。
日本語での表記には揺れがあり、ハルーン・アミン[2]、ハロン・アミン[3]などの表記が用いられることもある。
経歴
アミンはカーブルに生まれ[4]、タジク人であった一家は、1979年にソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻が始まった翌年にアフガニスタンを離れ、最終的にアメリカ合衆国に落ち着いた[5]。
1988年、アミンはムジャーヒディーンとしてアフマド・シャー・マスードの指揮下に入って戦うため、アフガニスタンに戻ったが、アフマド・シャーの任命によって、1990年にワシントンD.C.のアフガニスタン大使館に配属された。その後もアミンは、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー政権が1996年にターリバーンによって追い落とされるまで、外務省で様々な役職に就いた[6]。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後に、アメリカ合衆国が主導したアフガニスタン紛争の際に、アミンは北部同盟のスポークスマンとしての役割を担い、広く知られた存在となった[5]。
ターリバーン政権の崩壊前には、アメリカ合衆国のメディアに常々露出していたアミンは[7][8]、2002年1月14日にハーミド・カルザイが率いたアフガニスタン暫定政府から臨時代理大使としてアメリカ合衆国へ派遣された。
2002年、『ニューズウィーク』誌が「未来のための人々 (People for the Future)」として選出した77人のひとりに、アミンが選ばれた[9]。2002年から2003年まで1年ほどの間、彼はワシントンD.C.において最も職位の高いアフガニスタンの外交官であったが、2004年4月30日にはカルザイ大統領から、新生アフガニスタン最初の駐日大使に任命された[4][10]。
2005年には、ニューヨークのセント・ジョーンズ大学から政治学の修士号を得、その後さらに同校のマスター・プログラムで国際法を学び修了証を得た[4]。
2007年には、日本での経験を踏まえた著書『Afghan-Japan Relations: Lands Under the Rising Sun』を執筆した[11]。この本は、日本とアフガニスタンの歴史的な関係や類似性を中心に論じたものであり、両国の歴史や文化伝統を直接比較した初めての文献とされた[9]。駐日大使の職には2009年まで留まった[1]。
受賞
- 自由・信念・希望メダル (Freedom, Faith and Hope Medal)、ジョージタウン大学(2002年)[4]
- 学長メダル (President's Medal), ラサール大学(2002年)[4]
病死
アミンは、2011年に癌と診断され、アリゾナ州フェニックス地域の病院で、2015年2月15日に死去した[9]。
脚注
- ^ a b “President Ghani’s Condolence Message on the Death of Afghanistan’s Former Ambassador to Japan, H.E. Mr. Haroon Amin”. Embassy of Afghanistan - Tokyo. 2018年11月29日閲覧。
- ^ “新任駐日アフガニスタン大使の信任状捧呈について”. 外務省 (2004年4月28日). 2018年11月29日閲覧。
- ^ “タリバーン政権崩壊後初代駐日大使ハロン・アミン氏死去”. アフガニスタン文化研究所 (2015年3月9日). 2018年11月29日閲覧。
- ^ a b c d e “Profile: Haron Amin”. Embassy of the Islamic Republic of Afghanistan in Tokyo. オリジナルの2014年8月19日時点におけるアーカイブ。 2015年2月15日閲覧。
- ^ a b Profile, Afghan-bios.info, November 2, 2009.
- ^ Profile, nymag.com; accessed February 25, 2017.
- ^ “Amin: Northern Alliance will support U.S.”. CNN.com. (2001年9月22日) 2015年2月15日閲覧。
- ^ “Alliance Advances”. PBS. (2001年11月12日) 2015年2月15日閲覧。
- ^ a b c “Former Afghan Diplomat and Ambassador to Japan Dies”. TOLO News. (2015年2月15日). オリジナルの2015年2月15日時点におけるアーカイブ。 2015年2月15日閲覧。
- ^ Ambassador to Japan on 30 April 2004.
- ^ Amin, Haron (2007年). “Afghan-Japan Relations: Land Under the Rising Sun”. Embassy of the Islamic Republic of Afghanistan in Tokyo 2015年2月15日閲覧。