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「大江挙周」の版間の差分

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{{基礎情報 公家
[[File:Oe no Takachika.jpg|thumb|大江挙周([[菊池容斎]]『前賢故実』)]]
| 氏名 = 大江挙周
'''大江 挙周'''(おおえ の たかちか、生年不詳 - [[永承]]元年([[1046年]])[[6月 (旧暦)|6月]]<ref>『[[続本朝往生伝]]』</ref>)は、[[平安時代]]の[[貴族]]。[[式部省|式部大輔]]・[[大江匡衡]]の子。[[正四位|正四位下]]・[[式部省|式部大輔]]。
| 画像 = Oe no Takachika.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 大江挙周([[菊池容斎]]『前賢故実』)
| 時代 = [[平安時代]]中期
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[永承]]元年([[1046年]])[[6月 (旧暦)|6月]]<ref>『[[続本朝往生伝]]』</ref>
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正四位|正四位下]]・[[式部省|式部大輔]]
| 主君 = [[一条天皇]]→[[三条天皇]]→[[後一条天皇]]
| 氏族 = [[大江氏]]
| 父母 = 父:[[大江匡衡]]<br>母:赤染時用娘・[[赤染衛門]]
| 兄弟 = '''挙周'''、持隆、匡子、能公<br>養兄弟:''時棟''、''林豪''
| 妻 = 高階明順娘
| 子 = [[大江成衡|成衡]]、能高
| 特記事項 =
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'''大江 挙周'''(おおえ の たかちか)は、[[平安時代]]中期の[[貴族]]。[[式部省|式部大輔]]・[[大江匡衡]]の子。[[官位]]は[[正四位|正四位下]]・[[式部省|式部大輔]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
父匡衡と同様[[紀伝道]]に進み、[[方略試]]に及第<ref>『権記』長保3年9月26日条。なお、『本朝文粋』巻3にはその際の答案が採録されている。</ref>。[[一条天皇]]の[[東三条殿]]行幸の際に父・匡衡に従った挙周が作った文が評価されて[[蔵人]]に任ぜられた<ref>『御堂関白記』寛弘3年3月4日条。『江吏部集』にも同様の趣旨の記述がある。</ref>。[[文章博士]]・東宮学士を経て、[[後一条天皇]]の[[侍読]]を務め式部大輔に至った。一方で地方官として、[[丹波国|丹波]][[国司|守]]・[[三河国司|三河守]]・[[和泉国|和泉守]]を歴任した。
匡衡と同様[[紀伝道]]に進み、[[対策]]に及第<ref>『権記』長保3年9月26日条。なお、『本朝文粋』巻3にはその際の答案が採録されている。</ref>。[[一条天皇]]の[[東三条殿]]行幸の際に父・匡衡に従った挙周が作った文が評価されて[[蔵人]]に任ぜられた<ref>『御堂関白記』寛弘3年3月4日条。『江吏部集』にも同様の趣旨の記述がある。</ref>。[[文章博士]]・東宮学士を経て、[[後一条天皇]]の[[侍読]]を務め式部大輔に至った。一方で地方官として、[[丹波国|丹波守]]・[[三河国司|三河守]]・[[和泉国|和泉守]]を歴任した。


== 逸話・説話 ==
== 逸話・説話 ==
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== 系譜 ==
== 系譜 ==
*父:[[大江匡衡]]
*父:[[大江匡衡]]
*母:[[赤染衛門]]([[赤染時用]]の娘
*母:[[赤染衛門]] - 赤染時用の娘
*妻:[[高階明順]]の娘
*妻:高階明順の娘
**男子:[[大江成衡]](?-?)
**男子:[[大江成衡]](?-?)
*生母不明
*生母不明の子女
**男子:[[大江能高]]
**男子:大江能高


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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* [[木本好信]]「大江挙周」(『平安朝官人と記録の研究』、おうふう)
* [[木本好信]]「大江挙周」(『平安朝官人と記録の研究』、おうふう)
* [[井上辰雄]]『平安儒家の家 大江家のひとびと』[[塙書房]]、2014年 ISBN 978-4-8273-1265-2 第7章「大江挙周」
* [[井上辰雄]]『平安儒家の家 大江家のひとびと』[[塙書房]]、2014年 ISBN 978-4-8273-1265-2 第7章「大江挙周」

== 脚注 ==
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2019年2月14日 (木) 13:24時点における版

 
大江挙周
大江挙周(菊池容斎『前賢故実』)
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 永承元年(1046年6月[1]
官位 正四位下式部大輔
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 大江氏
父母 父:大江匡衡
母:赤染時用娘・赤染衛門
兄弟 挙周、持隆、匡子、能公
養兄弟:時棟林豪
高階明順娘
成衡、能高
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大江 挙周(おおえ の たかちか)は、平安時代中期の貴族式部大輔大江匡衡の子。官位正四位下式部大輔

経歴

父・匡衡と同様紀伝道に進み、対策に及第[2]一条天皇東三条殿行幸の際に父・匡衡に従った挙周が作った文が評価されて蔵人に任ぜられた[3]文章博士・東宮学士を経て、後一条天皇侍読を務め式部大輔に至った。一方で地方官として、丹波守三河守和泉守を歴任した。

逸話・説話

挙周の出世が伸び悩んでいる時に、母の赤染衛門藤原道長の妻倫子に歌を送った。

おもへきみかしらの雪をうちはらひ 消えぬさきにといそぐ心を
(頭にふりかかる雪を打ち払いながら、雪のように我が身が消えないうちにと急ぐ心を、どうぞお察し下さい)

頭の雪=自分の白髪とかけ、年老いつつも息子を案じる母の心を詠んだ歌であるという。

道長はこの歌を見て同情の心が湧き、挙周は和泉国国司に任じられた。だが挙周は国司赴任中に病にかかってしまった。挙周の病は重くなる一方であったので、赤染衛門は京から急いでかけつけ、住吉神社で息子の治癒を祈願した。御幣には一首の歌が添えられていた。

代はらむと思ふ命は惜しからで さても別れむほどぞ悲し
(息子の命と代えようと言う私の命は惜しくないけれども、そうして息子と別れるならばやはり悲しいことであるよ)

自分の命を捧げても惜しくはないので、息子だけは助けてほしいという歌であった。やがて挙周の病は全快したが、母の行動を伝え聞いた挙周は同じように住吉神社に赴き、「母が死んでは生きてはいけないので、母が捧げた命は自分の命で補ってほしい」と祈ったという。

以上の説話は『赤染衛門集』、『今昔物語集』巻第二十四に収められるほか、『十訓抄』巻十、『古今著聞集』巻五などの説話集にもとられて広く流布した。(本記事の歌は『今昔物語集』の本文による。)

系譜

脚注

  1. ^ 続本朝往生伝
  2. ^ 『権記』長保3年9月26日条。なお、『本朝文粋』巻3にはその際の答案が採録されている。
  3. ^ 『御堂関白記』寛弘3年3月4日条。『江吏部集』にも同様の趣旨の記述がある。

参考文献